「もう一人でも大丈夫さ・・」

春5月、暖かい陽射しの日だった。
車を出そうと車庫を開けた私の足元へ、転がりこむように走ってきたその白い塊は、勢い良く私の足にぶつかり、横になってコンクリートに頭をこすり付けるようにして嬉しそうにしていた。
白い猫・・・・。家は県道沿いでしかもこの田舎具合、猫を棄てるには持って来いの立地条件だが、その為これまでにも何度と無く棄てられた猫を飼っていたし、農家で大量の米を保管している事情もあって、幼い頃から取り合えず猫は大歓迎の家だったので、さっそく両手で抱いて顔を近づけた私は一瞬にして言葉を失った。

この猫には両目が無かったのである。
まるでくり抜いたように眼球そのものが無く、まぶたを開いても肉壁しか無いのだった。
恐らく棄てた人もこうしたことから棄てていったのだろうが、こうなるとがぜん燃えてしまう私はなにが何でもこの猫を飼うことに決め、家族も可愛そうだと言うことでこの猫は家族の一員に加わった。

本当にかわいい猫だった。
人を疑うことを知らず、呼べば全力で走ってきてぶつかって止まり、えさの時間が遅いときは背中にコンコンと2度ほど頭をぶつけて知らせ、極端に心霊現象を恐がる私が夜一人で仕事していると、必ずやってきてストーブの前で横になり、時々私の仕事振りを聞き耳を立てて聞いていた。
私はこの猫のお陰で夜遅くなっても安心して仕事ができたのだった。
ただ、やはり両目のことは来る人みんな「これはどうしたんだ」と言い、かわいそうだと言う人と気味が悪いと言う人に分かれたが、この猫が本当に優しい奴だと分かってきていた私にとっては、もはや目が有ろうが無かろうが関係の無いことだった。

そんなある日、家へ新興宗教の勧誘に来た一人の男性がいたが、ちょうどまだその頃元気だった祖母が相手をしていて、何か様子が変だったので行って見ると、祖母は大変な勢いで怒っていた。
男性が話していると、そこへ猫が顔を出したらしく、猫の目が無いことから「これは呪いの猫だ、家に災いをもたらす」・・・・そう祖母に告げたらしい。
祖母は明治の女で、私とは違って?とても気性が荒く、特にこの手の話には烈火の如く反応することを知らなかったこの男性には気の毒なことになった。
「たかが猫一匹で傾く家なら、始めからそんなものは見込みがなかったんだ、この猫で家が傾くならそれで本望だ」と言うような事を言っていた。
祖母の余りの勢いに、たじたじになった振興宗教の男性は悪態をついて出て行ったが、私はやはりこの人の孫で良かったな・・・と思ったものだ。

この猫は目が見えないにも関わらず、呼べば障害物にぶつかる事もなく走ってきた、声の調子で人の心を理解し、そして何より誰か他の者を助けよう、その者の力になろうとする心があったように思う。
いつも人に頭をこすり付けてゴロゴロと喉を鳴らしていたが、そうした行動の中から私はこの猫に「心」を見ていた。

だが、別れは以外に早くやってきてしまった。
家へ来て2年経った頃、この猫は突然体が弱ってきて、餌も余り食べなくなってしまったので、獣医さんに診てもらいに行ったら、「よく2年も生きられたな」と言われたのだった。
もともと白い猫は奇形や障害が起こり易くて、この猫もそうした理由で始めから目が無い状態で生まれてきたのだろう、そしてこうした障害の場合は生まれて数ヶ月しか生きられないのが普通だが、良くぞここまで・・・・と言う話だった。
これは助けられない、ある意味この猫の寿命と言うべきものだ・・・・と言われた。
私は猫を抱いて車に乗せ家へ連れて帰り、いつも彼が寝転んでいた仕事場の指定席で寝かせ、時々綿棒に水を浸して飲ませながら仕事をしていたが、朝方何となくいつも動いている耳が動かなくなったので、水をやろうとして近づいても顔を上げない、なみだ目になりながら頭を撫でたがすでに彼は死んでいた。

私は身近な者、親しい者が死んだとき「ありがとうございました」と言うことに決めているのだが、このときは彼の出生から始まっての苦難を思い、「よく頑張った」も付け加え、もしかしたら生き返ることが・・・・などと思って一日待ったが、そうはならなかったので、翌日家の近くの川沿いの田んぼ、その土手に穴を掘って埋め、少し大きめの石を乗せて墓碑にし、花を飾った。

数日後、すでに彼の特等席に置いてあった座布団も洗濯し片付けてしまった頃だが、午前中、仕事場で焦って仕事していた私は、入り口の戸が2回押されたような音がしたので「シロか・・・」と思って戸を開け、また仕事に戻ったが、しばらくして振り返ると特等席がガラーンとしているのを見て、彼がいなくなったことを思い出した。
猫はいつもここへ来ると2回、頭で戸を押して私に知らせていた、いつもニャーンとは鳴かなかったのである。
もしかしたら風の音だったかも知れないが、何となく猫が心配して様子を見に来たのかな・・・多分夜に来ると恐がるので午前中にきたんだなと思ってしまった。
「もう、一人でも大丈夫さ、恐がったりしない・・・だからお前はお前自身のことを考えるんだ・・・」

あれからかなりの年月が過ぎ去って、祖母も死んでしまったし、私も年を重ねてしまった。
でも今でも仕事場の戸が風で押された音がすると、一瞬戸を開けようとして振り返る私がいる。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 自分は今、猫を飼える環境には有りませんが、可能なら、猫は貰い放題なので、個人面接で、失格を言い渡されない限り、猫が居るのも良いかも、と思っております。
    でもまあ、たがが猫ごときで、それを斡旋しているNPOに社会的失格を(笑い)言い渡されるのもゾッとしませんが。

    勝手に傍に来て、キーボードで、何かしらしようとすれば、そこに来て、ゴロリと横になって、寝ながら我が指に猫が手を出して邪魔する、又、台所で何か作ろうとすれば、足元に来て、じゃれて「ニャーニャー」良いながら、撫でてやるまで、暫くそこにいる、それに、邪魔だと言いながら、心嬉しく、5分後に、プイと何処かへ行くと、寂しいとかも悪くない。
    それでも、猫の方が早く死んだら、自分も「ありがとうございました」と礼を言って、現世に於ける奮闘をも称えようとここに決めました(笑い)

    近所の散歩道で知り合った、餌やりお婆は、最近見かけませんが、結局4匹を馴れさせて、連れ帰り、じぶんちの猫にしたとのことでした。
    そんな公園を歩いていると、猫型看板に「捨てないで!! 動物の命と優しい心 終生飼養を! 不妊・去勢を! 東京都衛生局 保健所」子猫の写真に「ずっと家族だよ・・(『罰則規定』を具体的に書いてある)」のが有ったり。
    何となく猫の事を考えてと言うより、行政の面倒回避のため、都民に説教をしているように見える、捻くれた性格に成ってしまう自分(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      中国の昔の訓戒では「助けた者は、その助けられた者に対して責任を負う」と言う事柄が出てきます。
      すなわち可愛そうだとか、同情には責任が伴う事を示したものですが、困窮している人間や動物に取っては、自身がこんな僅かな事と思っても、それが生死を分かつ場合が出てきます。この覚悟を以って他を助けよと言う事ですが、こうした概念からするとペットは個人的嗜好に拠る独占や所有、奴隷と同じ概念になり、遥か昔に至っては洋の東西を問わず、奴隷の概念は責任が免除された状態を差す場合がありました。例えばスパルタなどでは奴隷の身分は家事や、手仕事、農作業などを行えば普通の暮らしは保障をされ、この点で言うなら市民はスパルタの兵士としての鍛錬の責務と、女は子供を産むと言う使命が課せられていた分、或る意味奴隷より厳しかった側面が有ります。

  2. スコティッシュフィールド、って確かに見て可愛い感じがしますが、スコットランドの発見者やイギリスの血統登録団体が、その障害を察知して、品種化するのを諦めたのは、猫愛を感じます(笑い)。
    只、大英帝国は、他国人には厳しく(笑い)、退却戦ではインド兵の足を要塞の杭に鉄の鎖で繋いで、弾が尽きても尽きなくても、逃げられないようにしたり、大清帝国に、難癖を付けてアヘン戦争を仕掛けたり、性格が悪いですが、自国の繁栄の為ならば、明日の敵は今日の友、逆も真なり、落ちぶれたりとは言え、アルゼンチンがよもやと思った、フォークランドへ大艦隊を派遣して、邦人の土地と安全を確保して、ついでに経済も上向きにする。

    一方、アメリカはそのスコティッシュフォールドを、品種として育成し、その垂れ耳と同じ遺伝子の近辺にある遺伝的障害である、難聴~関節の変形・疼痛~短寿命はなんのその、金のために大々的に売り出す。金髪のお爺は、G7でも、昔の大統領のように、好き勝手を言う。
    昔からそうでしたが、海外の伝統的社会をアラブの春とか言ってぶち壊して、社会に混乱と貧困をもたらすが、中国のような超大国がチベット~ウイグルの侵略や人権侵害しても、自国の黒人や少数民族差別にも、全く改善の兆しは無いにも関わらず、自由と平等と民主主義を標榜して全く矛盾を感じない、性格ではなく知能の問題(笑い)。
    でも比べたら、英国の方が、未だマシ~~♪

    白人が先進国クラブで、有色人種の国を搾取するときに、利害調整をする、国際連盟とかG○とかに、日本が入っているのは、そもそもの間違い、日本は第2国連でも作って、有色人種の連帯の親分になって、自国の利益と安全を担保した方が良いかも知れない(笑い)。

    1. 責任が免除された状態と言うのは、基本的には被支配と言う事になる訳ですが、ペットなどの概念はこちらが責任を負い、ペットは責任を負わない分、飼っている主人の所有と同じになり、一般的に所有には責任が伴います。この事を忘れて可愛いから飼い始め、飽きたら捨てるは許されない訳で、命を種有した者はその命に対して全責任を負わねばならないのですが、これがどうも人間には解っていない。所有は物品に対しても同じ事が言え、道具や所有している物に対しても古代の日本では慈しみや尊敬の念を持っていたはずでした。
      その愚かな者は救いであり、自身を苦しめる者は自身を試すものであり、いつかの時にはその厳しい責任が自身を生かすときがやってくる。
      他の命を粗末にする者は自身の命も粗末にし、親を敬えない者は自身もまた子からは敬われない。動物と言えど、その命を軽く扱うは、いつかの日人の命を軽く扱う。
      凄惨な無差別殺人が発生する諸因の根源はこうした事にあるのかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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