「市民一丸となって・・・」

昔、この街にも鉄道が通っていた頃使われていた駅舎、既に使われなくなって久しいこの建物を建て直し、コミュニティーセンターにしたのは数年前のことだが、たまたま高校生だった長男を学校に送りに行った帰り道、ここに立ち寄ってみると、大量のカラスがガーガー喧嘩して、人通りも無く建物の隙間風がヒューヒュー・・・と言う感じで、まるでヨーロッパ・ホラー映画の冒頭のような風景だった。

「荒廃している・・・」と言う表現がぴったりなのだが、自然と言うものはやはり大したもので、こうしてその土地の人に勢力が無くなっていくと、1年ごとに何某か人間以外の存在が勢力を拡大していくのである。
通行量が少なくなった道路はアスファルトを割って雑草が顔を出し、周囲の草木はその道幅を少しずつ狭めていく、鳥や狐、狸などが増え、畑や田も毎年雑草の生えている面積が広くなっていく、柿やすもも、梅、桃などの実も収穫されず落ちていくことから少しずつ実が小さくなってきている。

このコミニュティーセンターも作られた当時は街の観光の目玉として、テナントを募集し、いろんなイベントも行われてきたが、結局残ったのは「箱」だけで、数年後にはこうしてホラー映画のセットにしかならずに終わっていくのだろう。
また行政が鳴り物入りで誘致した大型小売店も最近の高齢化からか、めっきり客が少なく、景観を重視した街並みと言うことで整備された市街地も、確かにきれいだがそれだけにどこかで見た街並みのイミテーションの雰囲気しかなく、こちらも京都太秦の映画村が新しくなったような感じで、観光客からも評判が良くない。

そのコミニュティーセンターの左端から寒そうにしながら、高校生達と引率の教師らしき女性が歩いて来たので、声をかけて見たのだが、今日はこの市のイベントで吹奏楽を演奏するとのことだった。
しかし誰もいないこの場所で演奏ですか・・・と尋ねると、その教師は「一応、頼まれましたので・・・」と言う返事だったが、これからしばらくすると誘客した人達がバスで到着する予定もあるようだった。
高校生たちにも話を聞いたのだが、眠い、寒い、と言う意見の他に「演奏を聞いてもらいたい」と言う生徒もいて、少し救われる気がした。

でもやはり「何かが違う・・・」と思わざるを得ない。
そもそも行政がこうして学生をイベントに使うことの是非から始まって、地域の為と称して強制的に参加させることの意義がどうなのか分からない。
観光業界、販売業者の利益に繋がるためのイベントに、教育を受ける身である学生、生徒が協力させられ、その送迎をしなければならないのは「親」である。
唯でさえ不景気の時代、こうして子供を通して間接的に、どこかの業界団体に何となく利用されてしまう理不尽さを感じるのは、私が余りにも個人主義だからだろうか。

むかし、何かのイベントや祭りのときは学校が休みになって、私たちは喜んでその祭りやイベントを見に行った・・・が、そこでは、どちらかと言えば地域や行政が子供たちに何がしかの振る舞いをしてくれている様相がみえていた。
しかし、現在の状況を見るにつけ、どうしても子供たちが地域や行政に協力させられているようにしか見えないのである。

この吹奏楽部の生徒たちもそうだが、自分たちの演奏を1人でも多くの人に聞いてもらいたい、と言う意思から自分たちで決めて市のイベントに参加した様相ではなく、上からの指示で・・・と言う感じが拭い去れないし、こうしたことは小学校、中学校でもあるだろう。
確かに地域に貢献する、国に貢献すると言う意識は大事だが、それは断ることが出来ない立場の者に、上から押し付けて言う話ではなく、個人が自発的に思うこと、感じることだ。
学生生徒の本分は「学ぶ」ことであり、少なくとも権力は彼らにその本分を保障し、何かも与えてやらなければならないのであって、彼らの力を当てにするようなことでは寂しいのではないか。

高校生の頃だったか・・・。
村に伝わるという○○音頭と言う踊りを継承しなければ、と言う気運がこの地域で高まり、もともと踊りなどなかった適当な民謡に、どこかの先生がをつけた踊りを付けて、婦人会、青年団と言った人達の指導のもと踊らされたことがあったが、志村けんの東村山音頭の踊りとそっくりで、「こんな格好の悪いもの、踊れるか」などと思っていた。
そして極めつけはこの踊りを文化会館で披露すると言うことだったのだが、この当日私は嫌で嫌で心底腹が痛くなった・・・しかし無情にも連行され、揃いの浴衣に祭り手拭い姿で踊らされたが、以後演歌、地方民謡が大嫌いになった。

この当時の婦人会や青年団の人達、今はもう現役を引退し、ついでにこの訳の分からない○○音頭も誰も歌わなくなったし、踊らなくなって久しい・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 近所のかなり広い公園、元はゴルフ場だったところで、そう言う目で見ると、芝生と樹木が適当に配置されていて、地形も良いし、直ぐ近くに鬱蒼とした、塒にピッタリの森もあり、散歩コースの1つなのですが・・
    そこに一目、10~20羽ぐらいの、ハシボソガラスが、芝生の上で、遊びながら餌を漁っている、呑気な景色で良いですよぉ~~♪
    敷物の上やベンチに座って見ていると全く平和で、飽きません。昼寝をしていると、自転車の籠や、置いたカバンを漁られて、食料を奪われます。自分も何回か、籠を漁られて、そこら中に散らかさせられました。多分、人を馬鹿に仕切っておりますが、不用意に、育雛の時に巣立ちの家族連れに近づくと、興奮した親が来て威嚇する様は、中々の迫力です~~♪
    元知事の人気取りの一貫で、カラスを捕らえる、30平方メートルぐらいの大きな、鶏小屋のような罠に、いつも何羽も入ってカーカー啼いていますが、多分、定期的に殺処分されているのでしょう、この10年ぐらい、環境受容力は変わっていないようで、減った気はしません。一時的に減るでしょうが、その分、次の繁殖期に1回の育雛数が増加して、直ぐ戻る。全く税金の無駄遣いで有るばかりではなく、無意味な殺生をしている様にしか見えません。自分がいい加減に出したゴミをカラスが散らかすからカラスの所為にしているだけでしょう。
    上はサボっておきながら、会期延長には反対の国会から、地震で自治体のいい加減さが露呈~気に入らないと虐待までする家庭生活まで、似たような事が頻発していて、問題の本質はどうでも良く、眼前の付け焼き刃を追求して、自分や他人の首を絞めるのが大流行~~♪
    ゴチャゴチャ言ってくる連中にも、端金をちょこちょこ出して、本質には触れず~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      一般に鳥類は知能が高く、特にカラスなどは抜群の学習能力が在るだろうと思います。
      また人間には天敵の部分も有りますが、非常に義理堅くて、例えば防鳥ネットに引っかかったカラスを助けると、以後はその人間が耕作している畑の作物は襲わなくなるし、弱って助けられた子カラスなどは助けた本人が死ぬまで付いてきて、裏切る事はありません。
      更に太陽の動きから季節ごとに決まった活動時間を持ち、その正確さは数分の誤差も無く動きます。
      凶暴性に付いては、鳥類は一般的に攻撃的なもので、以前の東京都知事はカラスを撲滅すると言った経緯が有りましたが、かの方らしい愚かさでした。

  2. 大西龍治郎中将は大東亜戦争末期の特攻の創始者の1人で、最後には2000万人の特攻で、勝利すると言った、ま、いわば大馬鹿者ですが、傍にいた或る人の言によると、戦争に勝ったとしても、若者を多数死なせた責任を取って、自決するような人だったとも言われているようです。
    2000万人も国民が死んだら、当時は7000万人しか人口が無かったわけだから500~1000年ぐらい、国力は恢復しないでしょうが・・勿論、100万人も行かない内に継戦能力を喪失して、敗北宣言もする力が無くなって、ズルズルと収束、というかなり悪性な結果を生んだことでしょう。
    でもまあ、特攻は最悪の戦術であるし、亡くなった者や家族は、諦められなくとも、敵側は、民族の結束とその恐ろしさを知ったので、それはそれで意味が有ったかも・・帝国陸海軍と戦った敵国は、結構恐怖に怯えたらしい。
    又それも大きな動機として、日本人から自負心を無くさせて、自己罪悪感を植え付ける終戦処理を徹底的に遣った。
    そんな事だったのに、たった1回アメリカとの戦争に負けて、茫然自失している間に、自己を見失って、未だに押しつけられた、ガラクタ憲法を押し戴いて、一言一句変えない方が、本当の平和なのだ、と思っている、お花畑連中は大繁殖、北朝鮮に拉致された国民を救い出す為には戦争も覚悟しなければならないのに、そんな覚悟もなく、酷い人権蹂躙には目を瞑って、戦争だけはしたくないと言う矛盾していることには平気な国民~~♪
    力を失ったことを、色んな強制があっても、恥とし臥薪嘗胆した地域は、それが次の道を示すでしょうけれど、日本は当分駄目そう~~♪

    1. またこれは当地のみならず日本全国的にそうだと思いますが、今の地方は「痴呆」、若しくは白痴状態で、丁度滅亡して行く北条家の様相では無いかと思いますが、もはや言葉も無い状態で、無気力な毎日が流れていく高齢化社会と言えます。

      あーばかばかしい、もう自分のことだけ考えて行こう、そう思わせてくれる事ばかりで、私などももうこの行政区の為に何かを考える気力は無く、何かしても利用されて無意味に終わってきた経緯を考えるなら、たとえ利用しても良い、それを実現するなら自分でなくても良いですが、それを利用して個人的名声に使って、その個人のみが恩恵を被る状態では、自身がやった事でこの地域に不利益を与える事にしかならないだろうと思います。

      もう議会も必要ないし、どう滅んで行くかを真剣に考える必要が有るように思います。丁度第二次世界大戦がそうでしたが、始めるのはともかく、終わる事を考えるのはとても難しい。でも現実にいつか終わりは有る。この中で真剣に終わりを考える事もまた希望に通じるもので、これを避けていると溶融して種すらも落せずに終わってしまう。

  3. もう故人となった、爺ちゃんと何回か伊豆~房州方面に釣りに行って、当時流行っていた「根性草」が側溝やらアスファルトの割れ目から出て来ていて、その爺ちゃんが、それを見て「根性草」と独り言を言っていたのが思い出されますが。芝生はどんなに雑草を抜いても、手入れをしても、湿っていると、その内苔だらけ、環境が良ければ、舗装のような道にも、ドンドン進出していって、干天も生き延びる。無理な事は長続きしない、本質的に向かないことは大成しないと言う事であろうけれども、努力すれば道は啓ける、みたいな話し多すぎ。障害があっても、パラリンピックを目指して努力する人を大々的に応援する事は良いことだけれども、努力する能力もなく温情に縋って生きる人々には、社会は冷たいかも知れない~~♪
    柄にもないが、世話が出来る側に回っているのなら、その幸せを具現化して生きられれば、宜しかろうと思ってはいるが・・・
    実際は諸悪奉行 衆善莫作~~♪

    1. 大西龍治郎に関しては功罪好悪両方が有るだろうと思いますが、現実にはそれしか方法が無かった事に鑑みるなら、当時の世相をしても一方的に非難されるは厳しい気がします。また、その後よくも悪くも日本赤軍を通して中東のテロの有り様、或いはパレスチナの戦線は、太平洋戦争の日本の戦争形態を学んでして行く事になる。
      この現実を考えるなら、そこに一つの応えも見えてくると思わねば成らないでしょう。
      ただし、この意見は多くの人の賛同は得られない、むしろ非難されるかも知れませんが・・・。

      コメント、有り難うございました。

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