「金縛り」・3

夢を見ているとき、例えそれが2重、3重の夢でも見ているのは「私」だ・・・、しかし金縛りに会っているとき、そもそも金縛りそのものが「私」とは別の意思、つまり「私」以外の別のシステムが働くか、「私」が複数存在しない限り起こらないことになる。
脳は不思議なところがある、別の章でも書いたが、どうも「私」と言う意識を持つ脳は、眠る直前や目覚める直前を「非常に危な時間」としていることが垣間見え、どうして眠たくなるのか、何時間寝たら目覚めるのかは一体脳の何が決めているのだろう。

眠りについた脳を起こすシステム、眠りの長さを決めるシステムは、もしかしたら「私」と言う意識を持つ脳以外のところにあるのかもしれない。
これは福助人形の男性の話だが、金縛りに会っている最中、その恐怖とともに薄い客観性を持った目というか、存在と言うか・・・そんなものを感じていた、明確ではないが、恐怖の対象である福助の恐怖以外の「何か」が弱いけど広く薄く存在していたとしている。

同じことはムカデの恐怖から金縛りに会うようになった女性も話している。
何か無機質な自分以外の意思が感じられた、自分の恐怖とは違う別の弱い意思で、広い範囲に薄い霧のように漂っているように感じたというのだ。
福助人形の男性は20代になって、金縛りが始まると体が少しずつ布団から浮いていくようになっていたが、自分が着ている布団をまるで何もないかのようにすり抜け、ゆっくりと浮かんでいき、やがて天井まで30センチくらいのところまで浮いていく、そして反転して寝ている自分を見るのが少し楽しみになっていた。

このとき自分では「ああ、やっぱりこうした事ってできるんだな」と言う満足感があったが、同時にこれは非常に暫定的なことで、決して褒められないことだと言うことも感じていた、また早く戻らないと何か分からないが大変なことになると言うことも感じていた。
そしてこれ以外に正体は分からないものの、何か本当に弱いものだが、遠くでこの自分の浮いている状態を狙っているような感覚が常に付きまとっていた。

もうそろそろ帰らなければ・・・男性はそう思うと今度はまた反転して仰向けになり、自分の体に戻っていくのだが、問題はこの男性を弱く遠くから狙っている存在、そろそろ帰らなければ・・・と思わせる根拠だ。
脳はやはり自身が把握できない別のプログラムを持っている。
しかもこのプログラムには感情が無く、一定の条件がそろえば起動するものらしく、眠りに就かせる時、目覚めさせる時、そしてその延長線上には「死」があるのではないかと思う。

眠りの中の夢はある意味どんなに怖くてもそれは安全な囲いの中にあるが、眠りから目覚める瞬間は別のプログラムが起動していて、この状態は体と自分の関係が少し不安定なような気がする、その為に怖い映像でこの時間を短くしようとする体と「私」と言う脳に対して、無機質に機能だけを果たす脳さえ存在を把握できないプログラムの間には相反する部分があり、危険な時間を短くしようとするその行為が、こうした危険なプログラムを誤作動させたり、長く留める原因になっているように思う。

この男性が金縛りの時に経験しているのは俗に言う「幽体離脱」と言うことだろう、しかしこの幽体離脱、本当に体から何かが抜け出ているかと言うと、恐らく違う。
脳が体の位置を把握できないばかりか、体が無ければこんなに楽なのか・・・と言うことさえ考え始める、つまり自分の体の位置を把握することを放棄し、これまで蓄えた情報から、脳自身が自分で見たいものを選択して見る行動を始めているのだ。
そして脳が体の位置を把握することを放棄し、そのままになってしまえば、事実上この男性は生きてはいるが、目を覚ますことは永遠になくなり、脳は体の中にありながら、最後には自分でもとの位置に帰れなくなる・・・ずっと夢の中をさまようことになる。

これは「死」の状態、体がもう生きることを維持できなくなったときに働くプログラムと似ている・・・死によって切り離された脳はそれでも物質的には体の1部だから、火葬されれば「無」に帰することになるが、
そもそも脳の伝達手段は「電気信号」であることから、しばらくは磁場として残るのではないだろうか。
この世界には目には見えないが無数の、人間以外のこうしたものも含めてが存在している・・・と言うことなのではないか、そして普通なら目に見えないものを、1度自身が脳の位置をずらした経験(金縛り)のある者が気配として感じる、またそれを映像化できることによって、見ているのではないだろうか・・・。

金縛りは確かに怖い、できればこうした目に会わないに越したことは無いが、では悪いだけかと言うとそうでもない。
第1章を憶えているだろうか、どうして女性の部屋に血だらけの女が入ってこなかったのだろう・・・どうして恐怖に怯える男性の部屋に福助人形が入って来れなかったのだろうか・・・。
実はこの2人は何かに守られていたのである。

その何かとは1つは生きていることだが、もう1つは「場」であるように思う、これはどういうことかと言うと、この2人は始めからその姿を見ていない・・・が気配を見ていた。
もともとその恐怖の対象が「虚」であることを体か脳が感じていた・・・そして自分は生きている、つまり「実」であることから、それらが決して自分に危害を加えられないことをどこかで認識していたのだと思う。

また「場」とはそう分かり易く言えば「結界」と言うことになるだろうか・・・この2人には家族がいてみんなで暮らしていた。
人間や生き物はその存在そのものが1つの力であり、「場」だ、何も意識しなくてもどこかで大切な子供を守っているところがある、いやそうした気持ちがある・・・それが力となって危機の時には強い囲いになっているようなものかもしれない。
普段からの子供を思う気持ちが頭から粉になって降りかかっていて、少々の幽霊ぐらいは所詮出るのが精一杯で、危害などは加えられない・・・これが生きている者の強さと言うものだ。

そしてこれは最後にも出てくるが、人が暮らしている家、長く続いている家にはとても大きな力がある。
家と言うのは不思議なもので、養える生き物の数がおおよそ決まっていて、それより多くの生き物がいると、例えば金魚が死んだり猫が死んだりと言うことが出てくるが、それ自体がそこに住んでいる者を守っている。
2人の金縛り経験者は金縛りによって、こうした今まで分からなかったことに気づいたと話していた。

金縛りと言う項目で科学誌を調べると、それはレム睡眠における「夢」だとしか書かれていない、また眠りについてはフロイトの研究があるだけで、誰もこうした研究をしていない。
空海は大宇宙と同化するような壮大な自己など無い・・・と説いた。
だがこの世界は生物で満ち溢れている、力で満ち溢れ、尽きることなく死んで、尽きることなく生まれてくる。
あらゆる存在があって、その中には唯の電気信号が強い意志となっているものも多く存在してるかも知れない、だがいずれにしてもこうした存在は生きていると言う真実の前では「虚」でしかない、多くの今を生きている生物の力は「虚」の影など影にさせないほどのまばゆい光を放っている。
常に「虚」は「実」に勝てない。

人間は一生の3分の1を眠っている。
そして見えるものは脳が見せているし、聞こえるものも脳が聞かせている。
どこから現実でどこから虚なのかは正確には分からないかも知れない。
金縛りは終わるとき体のどこか1部分が動けばそこから開放されるが、ではそれまでコントロールできなかった体、怖いものを見ている脳・・・この状態で何故体の1部分がこうして動くようになるのだろうか。
何が体を動かして、自分を金縛りから解放しているのだろうか・・・。
金縛りに会ったら般若心経を唱えると良いという話は、このブログ訪れてくれている女性もコメントをしてくれたが、こうした意見は多い・・・多分金縛りを避ける方法は恐怖に打ち勝つ絶対的な「確信」なのかも知れない・・・・私はお前に負けない、私がオリジナル、真実だ・・・そう言う信念であるのかも知れない・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 眠りはどこから来るのか、眠っていても脳が覚醒していたり、活動を休止していたりして居そうであるが・・
    眠りを司る機関が有るのか、覚醒を司る機関が休止すれば、眠るのか・・今、MRIや PETが有るので、気の毒だが、侵襲しない様にして手始めにエテコウを突っ込んで、眠りと覚醒を検査すれば、哲学上の論理と物理学上の知見が相まって、眠りに就いて、その内、かなり画期的な知識が得られるかも知れない。
    知的探求心を満たすだけではなく、具体的には不眠症の治療にも役立つだろうし、その他様々な脳の活動に起因するであろう、人にとっての不利な状況を改善する方法発見にも役立つかも知れない。
    幻肢痛と言うらしいが、実際は切断してない足の痛みを感じて、耐え難い、という現象やその他の脳に起因する「病気」についても、今後、研究が進んで、現実に苦しんでいる人々の光明になるかも知れない~~♪
    手術でも麻酔の方法が格段に進んで、患者の負担が、劇的に減少とかも可能かも知れない、勿論悪用を考える奴もあるだろうけれど~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この章では生きていても死ぬ事があり、死んでいても残っているものが有る可能性について考えて見ましたが、こうして自分の位置を把握するメカニズムはとても深遠なものがあり、もし自分の位置を把握できなければ自分でもう一人の自分を見る事が出てきます。
      そしてこの場合、実態と虚ではそのどちらに意思が存在するかに拠ってその後の状況は変化してくる事になります。
      幽体離脱の場合は、実態から離れて天井に浮いている自分の方に意思が在り、肉体は容器となっていますが、呼吸が自分とはずれた所から聞こえてくる場合も同じです。こうした時に見えるもう一人の自分は投影した映像の方に意思が在り、もう一人の自分は自分しか見えません。
      しかし、この反対に自分が記憶が無くて第三者が同時に2人以上の自分を目撃する場合、意思を持った自分が肉体の所在を掴めていない事になり、ではその時の意志は何をしているかと言えば、もしかしたら意思のほうが寝ていて、体だけが勝手に動いている可能性が出てきます。

  2. 「私」という者は自分の脳から発生するようにも思えるし、他にあるのかも知れないが、脳が司令塔なら、「つまらん」悩みで肉体を滅ぼして、私の入れ物を壊す、自殺というもが発生するのは、その存在自体が矛盾しているようにも思える。
    或る本に因れば、「私」の言うことを聞いていれば、「本人」にとって良くないことが起きることが頻発するので、「私」の命令には従わず、周囲の状況、その他肉体が経験して、若しくは社会から承認されているらしい良い事を「本人」が選択した方が、良い、と書かれてあった。しかしこれなんかも、カマキリにハリガネムシが寄生してその脳を制御しているらしいが、人間が進化の途中で獲得~組み込まれた「ビールス」が決定に何か影響している可能性も有るかも知れない~~♪

    普段「私」と「本人」には甚だしい乖離が発生していないことが多いけれど、精神的に病んでいたり、暫く後で、悩んだり、失敗して後悔するのは、その時の「私」の命令で行動したときが多く、「本人」はそうじゃない、と思いながら「私」が思うのだから「本人」より「私」が優先されるようで、遠い将来、これも何故乖離が起きているのか、解明されるかも知れない。
    誰かは善なる者と、善成らざる者が、同時に肉体の何処かに、多分脳の何処かに存在しているからとか言うけれど、心臓でも、今流行で大腸でも良いが、その辺の事も将来は分かるかも知れない、分からないかも知れない。
    心臓移植をした人にも、多分同じ事が起きているようだから、心が心臓にない無いようにも思える。大腸や骨からも各種の酵素、或る意味、指令が出ては居るだろうけれど、「私」と「本人」の区別ではないように思える。もしかしたら、臓器の連携で、脳と言う会議室で、強弱のある拒否権を持ちながら多数決で決定しているのかも知れない(笑い)
    ご老人が骨折で数週間入院すると「見違える程」認知症が進む場合が有ることを経験している方は多いが、骨から、多分髄からの酵素が、不足して、脳の「栄養状態」が悪く成った結果のような話だ、これは後で添加しても元には戻らない~~♪

    1. また映像が投影されている時、脳は実際には容器の中、つまりからだの中に在りながら、自分は投影されている方に存在していると認識されていますから、現実に広がる景色は遮断して仮想の景色を現実として認識している事になります。
      そしてこれが全くの仮想かと言えばあながちそうでもなくて、夢で見ている程度の映像は起きていても、もしかしたら本当は広がっている可能性が有り、脳には随時何枚かの画像が広がりながら、起きている時は眼前の情報処理の為に、これらの情報が薄くなっているだけ、と言う可能性すら在るかも知れません。
      夢と死は別のものですが、人間が目覚めるシステムはパソコンの起動と同じような原理を持っています。尤もパソコンのほうが人間を目指したのですから似てくるのは当たり前ですが、起動に失敗すればそのパソコンは使えなくなります。

  3. 睡眠は人生の約1/3を占めているが、それを人生全体に恣意的に配分する方法が、無いか、考えていた人も有るようだし、友達でも話題にした奴が居た、勿論自分では有りません(笑い)
     
    つまり、色々あるだろうが、幼児期は長く寝て、10~20代には、人生の方向を決定づける可能性の高い教育期間なので、睡眠は1日1~2時間にして、一定の地位を掴み、それ以降は集中して業務に精励するときと、そうでない時に分けて、時間を配分して、ま、簡単に言えば、稼ぎ時は睡眠を短くして、飛ばされて閑職の時は、寝て暮らす。引退直後の金力と体力が未だ有る時は、世界旅行などして、どちらも陰りが見えてきたら、田舎で、殆ど寝ながら、釣りなどして、酷い病気になったら、死ぬまで寝ている(笑い)~~♪

    ここ一週間、夏のような暑さが続いて、2日程前に、当地は梅雨明け宣言、風通しの良い日陰の縁台で、ニイニイゼミの鳴き声を聞きながら昼寝~~♪

    1. つまりスイッチや起動データの仕組みは死と生を繋ぐシステムな訳ですが、もしかしたら人間の場合、このスイッチは夢と死が同じになっているかも知れない。少なくとも脳死を死とするなら眠りから目覚めるときのスイッチと死のスイッチは同じかも知れない事を思います。
      そしてこうして死んでしまってもパソコンと言う機材、ハードは残り、データも他者は見れませんがハードディスクの中には存在している。
      人間の場合ハードである体は焼かれてしまいますが、ではこの最後に脳に在った情報も焼いてしまえば消えるのかと言えば、そこも確定的ではない。もしかしたら帰る場を失った情報は閉じた時間と空間を彷徨っているかも知れない。
      この閉じた時間と空間が存在するなら死後の世界は存在するかも知れません。
      ただ、惜しむらくは体という実態を持つ開いた空間と時間、閉じた空間と時間の間には決定的な壁が在る。
      閉じた空間に情報だけになった者は、もう二度と開いた空間に存在する事は出来ない。
      死後の世界は在ったとしても生きている人間には無いと同等の効力を持っているだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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