私は母親に背負われた記憶が無い・・・。 勿論甘えたことも無ければ、何かで手を引かれて・・・と言う記憶もない。 農業や炭焼きで忙しい父や母はいつも家にいなっかた、その代わり祖母がきっと幼い私を見てくれていたのだろう・・・祖母の畑を手伝わされた記憶はたくさんあるのだが、この祖母は明治の女を絵に描いたような人で、転んでも起こしてくれたことなど1度も無かった。 だから私はどれだけ転んで痛い目に会っても自分で立ち上がるしかなかったし、誰も助けてくれないものだと思っていた。 毎年夏になると私の仕事場付近は、なぜか大勢の子供やその親たちでにぎやかになる。 この辺は山の中なので街燈が灯ると、そこをめがけてカブトムシやクワガタが飛んでくる・・・、勿論こうした街燈の付近には他の細かい虫や蛾といったものもたくさん飛んでくるのだが、夜小さい子供を連れた父親や時には母親、おじいちゃんと言った感じの人が車で訪れ、じっとカブトムシが飛んでくるのを待っているのである。 また少し気が引ける話ではあるが、私は本当はこうした親子にカブトムシが捕まらなければいいな・・・とも思っている。 そしてこの辺の川はそんなに釣りをする人もいなかったから、ソーセージをつけてもウグイやハヤが面白いほど釣れる・・・がこれも釣った後「食べるのなら家へ持って帰るが、そうでなければ川へ返すように」と子供に教えたが、食べる以外に生き物を殺す、つまり慰みものになって死ぬ者の立場を考えるように・・・と言う話をした。 田んぼには6月たくさんの蛍が舞う・・・毎年農薬の量を調整し、少なくしてきているから、農業用水にはたくさんの蛍の幼虫が育っていて、夏の少し前には空と地面に2つの銀河があるように見え、多くの人が車を止めてこの景色を楽しんでいく。 オニヤンマもこの辺にはたくさんいるが、特に山の中の畑などでは空を本当にたくさんのオニヤンマが飛んでいて、体長20センチくらいの奴だと人間が来ると、何だこいつは・・・と言うように近くまで見に来るのである。 能登半島地震があったとき、このオニヤンマの幼生がなぜか成虫になれずに、この年オニヤンマの数が極端に少なかった。 同じ年の夏の夜、近くの自動販売機へ冷えたコーヒーを買おうと思って外に出た私は、自動販売機の下でたくさんの細かい虫たちに混じって、ヤゴから成虫に脱皮して余り時間が経っていないオニヤンマが落ちているのを見つけ、すぐ手を出したのだが、そのオニヤンマは必死で私の指につかまろうとし、指から自分のTシャツにとまらせて家まで帰ったのだが、このまま蛍光灯のある部屋へ入ると、飛ぼうとしてそれで羽を傷める・・・仕方なく、Tシャツにとまらせたまま、自分も外で星を眺めてオニヤンマの羽が硬くなるのを待った。 オニヤンマはヤゴから脱皮して成虫になっても暫くは体も羽も柔らかく、羽や体が硬くなるには4時間から6時間かかり・・・、その間に落下したりすると飛べなくなるばかりか、蟻の餌になってしまう。 またオニヤンマは夜は飛ぶことができないから、そもそもこうした時間に脱皮が始まること自体おかしいのだ・・・普通なら朝方早く脱皮して、午前10時から11時ごろ飛び始めるのが本来の姿だが、この年は何かがおかしかったのだろう・・・オニヤンマの数が少なくなった理由はここにあったのだ。 私は結局朝方の2時までオニヤンマに付き合い、羽も硬くなったので夜露にあてて更に硬くなるよう、家の外壁につかまらせて眠った。 翌日朝・・・まだオニヤンマは外壁にとまっていた・・・が次に見に行った10時ごろにはその姿が無かった。 私は子供が小さいとき、セミやトンボを捕って欲しいと言われたとき、この「名月を取ってくれろと泣く子かな」と言う歌を思い出していた・・・それほど虫を取るのが嫌だったのであるし、なぜか母の背中を覚えていない自分が少し悲しかった・・・。 また父親に虫を取ってくれと頼んだことも1度も無かったが・・・今の時代はこうして親が夜遅く車で連れてきてカブトムシを探してくれる・・・・優しいのか・・・いや・・・優しいのだろう。 追、この話は10年ほど前に書いたものだが、時の流れとは何と恐ろしきものか・・・。 この10年で、子供の姿は1人も見えなくなった・・・。 |
6件のコメント
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お祖母ちゃんが居たのは恵まれている~~♪
我が郷里では、勿論自虐では有りませんが、普通に(笑い)貧○な家は自分の家も含めて、誰も居なくて、お弁当が無い土曜日とかは、帰って、適当にそこらに有る食べ物を自分で用意して食べて居ました。小学校高学年になると、インスタントラーメンという優れ物がボチボチ出回り、運が良ければ、それを食べた(笑い)、平日は、仏壇に、エダマメやトウモロコシが有ると、嬉しがって勿論勝手に食べて、カバンをうっちゃらかして、遊びに出るか、偶には手伝いに行った、そう言う状態を、「なげわらし(投げる~世話されない、わらし~座敷童(ザシキワラシ)のわらしで=子供)」と言っていました。兄弟も居たし、近所に似た境遇のガキも沢山いましたら、結構呑気に子供時代は楽しかった様に記憶しています。季節によって放課後にする遊びは違っていましたが、年の違う子達が、ごちゃ混ぜで遊んでいて、大人も年寄りもそこら辺で働いて居ましたら、今より悪い、って事も無かった気がします~~♪
今、当時の写真をネットで見つけると、服装がモロ貧乏ですが、カメラの前では、誰もが元気そうに笑っている。
ハシビロコウ様、有り難うございます。
この10年でも公私共々大きく変化した事を思いますが、その変化の速度は加速をつけて進んでいる。しかも衰退の方向に・・・・。
かつての事を言えばきりが無いのですが、例えば私が20代の頃には考えられなかった衰退が来ていて、本当に人がいなくなってしまいました。
あらゆる産業が何かまるで迷惑をかけてやっているような状態、夢もなければ希望も持てない中で、変わらぬ物、むしろ勢力を盛り返してきたのは自然と言う事になるでしょうか。
今ではもうカブトムシを欲しがる子供がいない訳で、夜はイノシシと狐や狸が好きなように徘徊する世界となってきました。
きっと1000年前でも今よりは人がいたのではないかと、そんな気がします。
心から褒めて居るのですが(笑い)、無茶無茶田舎で全く羨ましい。
いつも散歩している近所の小川~雑木~草地が有る公園では、夏休みや土日は特に、子供連れの家族が多く、散歩~魚捕り~虫取、水遊びをしている。基本的には雑排水も入らないし、水源は雨水と湧水だけなので、とても水質は良い~~♪
我が郷里は、そこらでは普通の田舎でしたが、炭焼き小屋は、多分15~20km以上離れたところに有ったらしい、今でもJRは有ります。昭和30年頃、近くに温泉も湧いて(石油を探して深くまで掘っていた)小さな温泉街も出来て、バスもタクシー有った。
今も特段、何かが有るわけでは無いが、ジュンサイの出荷量は我が町が、多分今でも日本一。「ジュンサイの町」で検索すると、「角助沼」「惣三郎沼」の紹介もありますが、角助沼は子供の頃、頻繁に鮒釣りをしたところで、当時通っていた中学校の横、惣三郎の方は、新しい温泉街の傍で、今は双方とも遊歩道とか整備されていて、景色も良い。それでも今は近所の商店街は30軒以上有った商店も当時の面影は全くなく、1~2軒?家が有るだけでも有り難い~~♪
私は元々過去を振り返るのは嫌いでした。
常にこの先はどうなるのだろう、それが見たいと思ってきましたが、結果としてその未来とは今を見ることだったのだろうと思います。
しかしその今が暗ければ未来もまた明るくは見えない。
加えて私自身も年齢を重ねて衰退してきて、ある種の節目なのだろうと言う気がします。
これから先どうやって生きて行くか、何を目指すかが今は見えない。
音を立てて崩れ去っていく眼前の今までを呆然と見ているだけかも知れません。
そして考えてみれば、これもまた国敗れて山河在り、と言う事なのでしょう。
太平洋戦争直後の日本には帰っていくべき、目標となる日本の姿が有りましたが、今の日本は帰っていく、目標となるべき姿が無い。
あらゆるものが滅んで行く方向の中で、次の世界の為に、自分が為さねばならない事は沢山あり、そこへ疾走していかねばならないだろうと思います。
もしかしたら、失われた20年とか言っていますが、景気はそれ程良くもなかったけれど、人心は今より余裕が有ったのかも知れない。見せかけの可能性だけで、目が血走るより、何とかやっと生きて行けるぐらいの時が、家族も社会も助け合って譲り合って生きていたのかも知れない。但し、その時に、学業~就職~結婚の年齢を生きた者にとっては、厳しい時代だったかも知れない。何の慰めにも成らないが、戦時で遺体も二度と国土を踏めなかったよりは未だ良かったと思うしかない。
衣食足りて礼節を知るのは儒教的呪縛に毒されていた支那~朝鮮の文化で、日本は、人口も発明も、或る意味停滞していた江戸時代の方が、日本風の美徳が有ったのかも知れない~~♪
ただ、時代は遡れないし、原理主義者のように、論理で100%を目指してはならないだろうに、論理が勝る。良く100%の安全を保証できるのですが、見たいな質問をして、そうじゃなければ、賛成とは、言えないとか言う大馬○者が、跋扈していて、政治家もそんな原理主義者が一定の割合で当選して、世の中を住みにくくしている(笑い)
本朝、五指に入る歌の上手、古今和歌集仮名序を書いた、紀貫之 866~945、の辞世:手にむすぶ水にやどれる月影のあるかなきかの世の中にぞ有りける~~~
蛇足ながら、近年の俳句~短歌などの流行はそれはそれで良いのですが、個人的な好悪では、今風は、カスで1000年後までには1首も残して欲しくない(笑い)~~♪
紀貫之は私もファンで、竹取物語は作者不明ですが、私は絶対紀貫之が書いたと信じていたりするかも知れません。
虚栄と実体験の無い薄さ、自己顕示欲満載の今の俳諧、文壇から比べると紀貫之の普遍性と無常観、ハイレベルな静寂は比較するのも畏れ多いところです。
全くしょーもない歌を作って機関誌で載せ、それで悦に入っている高齢者の暴走と、これから1000年後も、更に残っていくものとでは格が違うだろうと言う気がします。
悲しいですが、今世界から観光客が来ている建物は1000年前、500年前に造られたものであり、今造られている建造物で1000年後に観光地となれる建物は、きっと皆無でしょうね。同様に今書かれている著作物で1000年後まで残るものも恐らく、皆無だろうと思います。
それを思うと古代の人々の偉大さが身にしみますが、出来れば1000年後を視野に入れたものを作って行きたい、500年後にたった1人でも良い、「ああ・・・」と思わせる文を残したいものです。
コメント、有り難うございました。