「正法眼蔵・古徳」

まず表題の「正法眼蔵」・・・これの読み方だが、(しょうほうげんぞう、またはしょうぽうげんぞう)と読み、この教えは道元の仏法の集大成と呼べるもの、その奥義について書かれている・・・これは一般の我々がいきなり学ぶには余りにも深い・・・そこで出てくるのが「正法眼蔵隋聞記」(しょうぽうげんぞう・ずいもんき)と言う道元の高弟が記した、日々の暮らしの中で道元が語った教えを、記録したものから学んでいこうと思う。
正法眼蔵が煌めく閃光のように崇高で確固たるものなら、「隋聞記」は仏の温もりがある、やわらかさがあり、それゆえに我々のような一般人にも親しみ易い日々の教訓となるのではないだろうか・・・。

では今夜はまず「古徳」と言うものから始めようか・・・。

人はそれぞれ大きな欠点がある。その第一の欠点は「おごり高ぶる」ことであるが、このことについては仏典の中でも、他の書物でも同じように注意を与えているが、儒教の書に「貧乏な暮らしをしていても、おべっかを使ったり媚へつらいして、人の気持ちに取り入ろうとするような真似は、決してしない清らかな心の持ち主はあるが、お金や者をたくさん持っていておごり高ぶらない者はいない・・・」とある。

これはお金やものをたくさん所有することを制御し、おごり高ぶる心が起こってこないよう注意し、配慮せよと言うことだ。
自分は身分も卑しく貧しい人間だが、身分の高い人、良い家の生まれの人には決して負けまい、劣るまいと思う、人に勝とう、人より優れようと思うのもまた、おごり高ぶりの甚だしきものである・・・がこれはまだ制御がしやすい。

豊かな財宝に恵まれ、そのような財宝を集めることのできる力、徳分を持った人もいるが、このような人には親戚縁者や一門の関係者などが取り巻き、人もまたそれを許している・・・それをいいことにおごり高ぶるから、側にいる賤しく貧しい人達はこれを見て、きっと羨ましく思い、わが身の在りようを哀しみ不満に思うだろう。
このような人達の心の痛みに対して、富や力のある者は一体どのように気を配ったらよいか・・・、おごれる人には忠告や助言をするのが難しく、仮にそうしたとしても彼らが身を慎み、控えめな態度を取るようなことなど、到底望むべくもない。

また思い上がる気持ちなど少しも無いのだけれど、勝手気儘に振舞えば、傍らにいる貧しい人達は、それを羨み迷惑に思うだろう・・・このところに十分配慮して誤らないようにすることを、「おごりを抑え、高ぶりを控える」と言うのである。
自分の富んでいることに無責任であり、貧しい人が見て羨望したり妬んだり、不平不満を抱いたりする心情のあり方に無神経だったり、これを無視するような粗野な心を「思い上がり」の心と言うのである。

沢山のことを知っている・・・そのことをして人に勝ったと思っている・・・いや勝とうと思う・・・だがそれがいかほどのことか・・・、自分が人より多くのこと知っているからと言って、決してそのことをして誇りに感じ、思いあがってはならない。
自分より劣った人の不都合や間違いを言い、あるいは先輩や同僚たちの過ちを知って、これを悪し様に言い、罵り非難するのは思い上がりも甚だしい行為だ・・・。

昔から物事の真実を心得た人の前では負けても良いが、ものの理をわきまえぬ愚かな人や、その人がいる前で勝ってはならないと言われている。
自分が詳しく知っていることを他人が悪く理解して受け取ったとしても、その人の過ちを言って非難すれば、それはまた同時に自分が間違いを犯すことになる。
古人や先輩達の悪口を言わず、またものを知らぬ愚かな人たちの心を傷つけたり、妬みや不満の気持ちを起こさせるような場では、よくよく考えて発言に注意し、十分に心を配らねばならない。

人は他の悲運を見て内心に安堵し、他の幸運をうらやんで内に妬みの想いをいだく・・・、世に生きるとき、人は必ず他との比較において自身の位置を定め、幸も不幸も多くはそのような意識や構造の中ではかられる。
人の一生は、言うならば自己充足のための果てしない旅である・・・、それは「もの欲しさ」の旅、そしてそれはいつも他との比較においてである。

ここに人の「喘ぎ」があり、人は「喘ぎ」において生きることの喜びを知り、哀しさを知る、喜びも哀しみもこの「喘ぎ」の一様に過ぎない。
しかも人は「喜び」をうる為に喘ぎ、「哀しみ」そのものにおいても喘ぐ、あるときは「喘ぎ」それ自身が力となって「生」を支えることもある。
恥じらいを忘れ慎むを捨て、声高に自己を主張することは、いつの世にも言わば時代の正義として行われてきたに違いないが、しかし己を省みることなしに、無闇に叫ばれる自己主張は、そのまま根源的な人間喪失の主張となり、他との関係を破壊する契機となる。

自己主張にはどこかに「もの欲しさ」が付いてまわり、人の営みには必ず心に願い求めるものがある。
「謙虚さ」とは己と言うものへの限りなき反省と、自己存在の事実についての誤りなき「自覚」をその主としなければ、単に他に対する儀礼の一様式でしかない、固定化し儀礼化した謙虚さは、自己の醜悪さを隠蔽する為の一種の演技とも言えるだろう。

謙虚さの底には、人間的な痛みの共感があり、慎ましさの奥には人間の「さが」の本質的な虚構に直接する魂の共振がある、いたわりや思いやり・・・それを喪失したとき、その行為は傲慢な人間そのもの、凶器となって人の心を傷つけるに違いない。

今夜はここまで・・・。
道元の人間洞察は鋭い・・・そしてやはりわたしは今回も道元が誤りだとしていることに、見事にはまっていた・・・。
私は、僻み(ひがみ)で出来ていた事がわかってしまった・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 明治初年に来日した外交官~技術者~学者で、日本に対して著作を残している人々は、大部分が、日本人の心のあり方に感心している。特に大森貝塚を「発見した」ESモースは、庶民は貧乏であるが、困窮している者は居ないし、アメリカの都市部にいる貧困で凶暴な奴はいない。金持ちは高ぶることがない。立場は平等であり、それぞれの生活を楽しんでいるようにさえ見える、と言っている。

    外交官や政治家は、漸く世界史に顔出しをした日本が、将来強い国家になり、強い軍隊が出来ると予想している。殆ど当たった。それに対する既得権国~植民地を支配している白人社会の軋轢さえも或る程度予想していた者もあった。
    その間に科学技術は、当時誰も想像し得なかった速度で進歩して、人間の古徳と言うべきものが滅んだわけではないと思うが、その経済によって得た勢力の道徳が人類を通して未だ発展しているとは思えない、経済人を見ていれば、金だけが勝者やルールを決めるとだけ思っているらしい~~♪
    世界戦が二度もあり、今は熱い戦争こそ局所的になっているが、経済的成功が世界を支配する原動力で、その獲得を巡って、争いは激化しているのかも知れない。しっかりした智恵が付くまで、人類が滅びないと良いのだが・・勿論滅びるならそれはそれで致し方ないけれど(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      古徳の凄いところは、万民が平等でなければならない、皆が豊かでなければならない事を前提としていない点で、予め理不尽は肯定し、不平等も貧しさも肯定したところから、そのぞれぞれの示すべき姿を言っている訳です。
      この事は今の社会の人間としては充分注意しなければならないところだろうと思います。最初に正義が無ければ話も聞かない、最初に平等が示されねばそれには従えないと言う事ではなく、それは今の状態であって、必ずしも全てがそうだとは限らない事、また正義や平等だからと言って結果が良いとは限らない事で、これを忘れると金にもならない理想と言う妄想に振り回され、何も結果を生まない事になります。

  2. 高知能の人々は社会的に影響力のある場合が多いが、道元にしても空海にしても、ま、彼らはその中でも頭抜けていて(笑い)、だから勿論例外だけれど・・
    現社会では尊敬される地位、例えば医師、弁護士、代議士(士の突く職業が多い~~♪)に就き、社会に貢献もしているが、その知識や経験を語れる機会に恵まれれば、披瀝しないではいられないし、聴衆がそれに知的好奇心が満足させられると思う大きな誤解もあって、その知識へのこだわりが、ややもすれば細部に向い、「重箱の隅突き」に成りやすい。その結果必然的に、大局観を失い、その高知能が社会に有用でなくなるばかりではなく、社会において頭脳明晰バカとなって、本人も影響力を失い嫌われて居るのに、知れされても気付か無いことが多い様だ~~♪
    モリカケを追求している先生方の、前職を見れば、明か~~♪
    反社会的な集団に変質舌者達への刑が実施されたら、それは与党の疑惑隠しだ、とか言った先生が居るらしいが、もうこうなれば、頭脳明晰バカを越えて○人の部類に見える~~♪

    本当に高知能で社会に貢献して、平たく言えば自慢話をしない人々は、淡々としているようにも見えるだろうし、飄々としているようにも見えるだろうし、一般人と何ら変わらない、生活をしていることも良いだろう、しかし・・一旦事が有れば、つまり歴史が彼らの登場を望めば、その瞬間から活躍するのではないかと思われる。日本にはそう言う人が特に明治維新ではキラ星の如く出て来たように、市井に多数潜伏していると思うし、そう言う人々を涵養する社会はせめて続いて欲しい~~♪

    この理屈は、天才にも芸術家にも美人にも当てはまるような気がする~~♪
    世の中の仕組みは複雑だが、原理は単純だろうと思う~~♪

    1. 孫子は策略の至上を策略と気付かないもの、偶然に見える策略こそ一番と言っていますが、これは人の生きるにも同じ事で、凡庸な者、一見愚鈍に見える者は、もしかしたら能力を隠すものだったとしたら恐ろしい事になる。それゆえ古来より凡庸に見える者ほど恐れよと言う話になったのですが、今の世の中で自分を隠して何も拘らずに生きている人間がいるかどうかは解らない。
      いるかも知れないし、いないかも知れない、或いは将来現れるのかも知れない。
      そしてこうした事を考えるなら、今それを思うなら、自分が種を撒いておく事を考えれば良いだろうと思います。
      自身が後進に道を示し、そこから希望の花が出てくるかも知れません。
      何かに期待するだけでは道は開けない。そこに何がしかの種を撒いておく事をしなければ収穫の喜びは味わえないかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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