「我、礼を以って・・・」

その名前を「丘」あざなは「仲尼」(ちゅうじ)と言い、今から2500年ほど前の中国で「仁」を説き、それを形態として現す「礼」をして国を治めることを世に問うた者・・・・。

孔子が現れた時代は「夏」「殷」「周」と続く王朝の最後「周」がその力を失い、やがて来る戦国時代の幕開けの時期で、こうした周王朝の没落から次の「秦」に至るまでの混乱期にあたり、約500年の前半を春秋時代、その後半を戦国時代としているが、国が荒廃し、あちこちで下が上を殺してのし上がっていく、下克上が始まりかけていた紀元前551年(推定)に、孔子は生まれたとされている。

春秋戦国時代には、力を失って支配力が弱まった周に変わって、周王朝時代の諸侯がそれぞれに国を作り、争っていたが、その各国は富国強兵を競って才能ある者を登用しようとし、また古い身分制度も崩れ、庶民階級にも立身出世の機会が与えられた。
こうした背景から、人々は学問に励み、さまざまな思想家や策士達が現れ、互いに論戦し、自身の意見を採用してくれる君主を求めて各地を遊説したが、彼らを保護し育成する君主も現れ、この相乗効果で「諸子百家」と呼ばれる思想家群が現れ、中国思想の黄金期となっていったのである。

諸子百家の内、もっとも早く現れたのが孔子の始めた「儒家」と呼ばれるもので、その教義を「儒教」と言ったが、春秋時代末期に現れた孔子は、親に対する「孝」と兄に対する「悌」と言う家族単位の道徳から始めて「仁」(人、倫理としての愛)と「礼」(人の守るべき秩序)に基づいてその身を修め、家をととのえることによって国を治め、しいては天下の平和を実現できると主張した。
これは明らかに政治と倫理とを相関させた説であり、彼は始め魯(ろ)に仕えて政治を改革しようとしたが失敗し、諸国を巡り持論を説いたが、結局用いられることなく魯に帰り、「詩経」「書経」「春秋」などの古典の整理と弟子の教育に専念したが、孔子の言動を弟子たちが集めたものが「論語」である。

またこうした孔子の思想は、実は孔子のオリジナルと言う訳ではなく、紀元前11世紀から紀元前8世紀まで続いた「周」王朝の政治姿勢からも同じ思想が見られ、孔子は周王朝時代の「礼政一致」を基に、周王朝時代の思想的復活を目指したと言うのが、初期の姿勢だったのではないだろうか。

ではその周王朝時代の思想とはどのようなものだったかと言うと、歴史上最も古い「封建制度」を引いていたとする「周」はしかし、現実には主に同族の者を諸侯として地方要所に配置し、支配させていたもので、これは血縁による団結力であって、周王朝と諸侯の関係は君臣関係と言うよりは本家、分家の関係に基づくものだった。
したがって中世ヨーロッパや日本における封建制度とは明確に異なるもので、ヨーロッパにおけるフューダリズムは血縁ではなく土地をめぐる契約であり、この場合は君主と個人との契約を指し、こうした形態は日本でも同じだが、農耕経済的には封建制度に見えても、政治的には周の政治形態は封建制度とは区別されるべきものだ。

こう言う背景から周では、政治的に家族、親族をその秩序によって支配することが、重要な政治基盤となっていったことは確かで、「礼政一致」はまさに欠くことのできない思想だったのである。
そして礼政一致とは、こう言うことだ・・・、周が滅ぼした「殷」王朝は信仰として、自分たちの氏族のみを守る神として自然神や祖先神を祭祀し、その神意を占って政治を行ったが、これを「祭政一致」と言う。

これに対して周王朝では氏族の利害を超えて正義の味方をするものとして「天」と言う至上神を崇拝した・・・、従って周の人は道徳的実践としての「礼」を重んじ、礼によって政治を行った。
これを「礼政一致」と言うのだが、礼には精神的な面と儀式的な面があり、後には儀式的な面が重んじられるようになり、これが発展して法律制度が整備されるようになる。

そして孔子が目指した周の礼政一致の思想原理はこうだ・・・、天とは、唯1部族のみを守護するような神ではなく、正義の味方として人の行為の善悪によって賞罰を行う支配者であり、この「天」が人格化したものこそ天子であり、行いの善悪によって、またその徳の高さによって天意すらも動かすことができる・・・。
道徳の実践的表現である「礼」を重んじ、そして政治にこの道徳が形になったもの、「礼」を一致させることで、王は天子と一致し、天すらも味方につけることができ、その結果国は安定し、民の暮らしも豊かになる・・・と言うものだ。

天と神・・・、こうした考え方は後に日本でも大いに広まる考え方で、戦国乱世では「天」が時の覇者を決める・・・従って覇者になれなかった者は、天がそれをはじいたのであって、もともと天意に見合う器ではなかったからだと考えられた。

武力に対して武力では余りにも芸が無い・・・・
こう言う世界だからこそ徳を説き、礼を知らしめる国が1国くらいあっても良いのではないか・・・。
孔子の「礼」は敵も味方も関係ないものだったように思うが・・・どうかな。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 以徳報恩 出鱈目な蒋介石も日本に対して言っていましたね~~♪ 
    論語にも引用されていて、丘のお爺さんは、以直報恩、と言っているようですが、これは結構重要なことかもしれない。
    罪を憎んで人を憎まずとか、言っている本人も意味が分からない言葉が、日本では時々流行して、分かりやすいことを分かりにくくしている。

    支那では、武力だけでは説得力がないので、「天」を持ち出して「天命」として「易姓革命」と称して、自己を正当化。これだけでは、後世にばれるので、自分で勝手に歴史を書いて、正史として残した。始皇帝もそうだし、出鱈目な孫文も毛沢東も勿論習近平も全く同じ、日本が騙されるのも、全く同じで、双方とも進歩なし。
    100年ぐらい前からは、これにアメリカが加わって、話がややこしい。今は似た者同士で、自己主張中、近隣や世界は大迷惑。
    日本は話せば、分かる・・と犬養毅は、言ったが、ちょっと信用がなかったかも知れない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      孔子の試みは失敗に終わった事は歴史が証明するところですが、基本的には孫子と入り口と出口の関係に有るだろうと思います。
      ただこうして歴史的に失敗したからと言って、それが失われて良いものではなく、自由や平和などが求められ続けられながら与えられず、しかし人類はこれを求め続ける事に鑑みるなら、孔子の「礼」は失われて良いに値するものではない。
      むしろ人心がおごり高ぶり、人々が信を失ったとき、これが次の秩序の希望になって行く「種」であろうと思います。

  2. 日本の野党は、この理屈も分からず、「多数の横暴」とか言って、少数の無責任を享受している。国民は結構面倒くさい。10年ぐらい前に、多数になっていた時に、彼らの主張が画餅だと判明したのに(笑い)今はお気楽に、また美味しいと言っている~~♪

    孔子は、結局は終生浪人で、目的を達しなかったが、ゴッホのようなもので、その存在は、現在でも善悪は兎も角、大きな影響を持っている。当時から文明は進歩したが、脳内状況はさほど変化が無いように思う~~♪
    もしかしたら、最後の砦は、日本文化かもしれない、とも思う(笑い)

    1. 惜しむらくはその発祥の地である中国では共産党革命でこれらが全て失われ、その在り様は無邪気に凶暴化した習近平政権に象徴されるだろうと思います。
      2500年前に花開いた中国の大切な思想は日本が受け継ぎ、そして日本が預かり、やがてこれをして世界を動かすときがきっと来るだろうと思います。
      混乱と無秩序、暴力と策謀が横行する中で生まれた人の世の至宝、これから混乱の極みを迎える日本、秩序を失いつつある世界だからこそ、この乱世が生んだ人の世の知恵がきっと役に立つ、そんな日が来る事を思います。

      コメント、有り難うございました。

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