「宗教改革と資本主義」

中世ヨーロッパで起こった宗教改革、それは乱れ堕落したカトリック教会に対する反発から始まったものだが、同時にそれまでの「神」の概念から新しい「神」の概念への変革でもあった。
新しい概念で捉えられることになった「神」、その考え方は清新で、厳格、かつ華美を嫌い、質素をその信条としたが、一方で現代社会がその統一的経済観の1つとしている、資本主義の考え方がこの思想的背景に多く含まれていた。
今夜は最も相容れない関係であろう、神と金について、その親密な在り様を考えてみようか・・・。

形式化し堕落した信仰を捨て、聖書に復帰しようと言う宗教改革運動は、一般に16世紀の前半にルターやカルヴィンなどから始まったとされているが、その背景には十字軍の遠征の延長線上かどうかはともかくとして、大航海時代の到来とともに、まず地球が丸いとする地球球体説がこうした航海によって証明されたこと、ヨーロッパ以外にも高度な文明があることが分かったこと、中国やインドなどから今までヨーロッパでは知られていなかった物産などが多く流入し、生活が豊かになった者が現れて来たことなどから、今までのキリスト教的世界観が打破され、人々がキリスト教から解放されて行った経緯と、こうした新しい世界観に見合う宗教観を当時のヨーロッパが求めつつあった・・・と言うことだろう。

この中でもカルヴィンが行った宗教改革はその後、イギリスでは「ピューリタン」・スコットランドでは「プレスビテリアン」・フランスは「ユグノー」・ネーデルランド(後のオランダ)にあっては「ゴイセン」と呼ばれたが、こうした傾向を称して「カルヴィニズム」または「プロテスタンティズム」とも言い、根本は同じものだ。

カルヴィンはその激しい思想ゆえに本国フランスから迫害され、スイスのジュネーヴに逃れたが、そこで新しい教えを唱え、多くの信者を獲得・・・一時ジュネーヴを追放されたものの、1541年改めてジュネーヴに招かれ、やがて彼はジュネーヴの市政をも委ねられるようになり、原始キリスト教精神を理想として厳格な道徳の実行を中心とする「政教一致」の「神裁政治」を行った。

彼の思想は聖書に基づかない全ての教義、儀式を廃止しただけでなく、法王を長とするカトリック教会の制度をも全面否定し、信者は聖書に従って勤勉で道徳的な生活を守るべきだ・・・と言うことだった。
また人間は平等な状態において創造されず、ある者には永遠の生命が約束され、ある者には永遠の定罪が予め定められているともしたが、こうした説を「予定説」とも言い、カルヴィンの著書「キリスト教綱要」には彼のこうした厳しい考え方が詳しく示されている。

またカルヴィンは「職業は神聖にして平等、そして倹約は義務である」とまで教えていたが、職業を重視し倹約による富を肯定する職業倫理は、当時起こりつつあった資本主義と道を同じくするものであり、封建制度の崩壊と共に、大航海時代の到来により富を蓄えつつあった新興市民層の利害と一致、カルヴィンの思想はこうした人々の間に急速に広まり、イギリスやフランス、スコットランド、ネーデルランドに広がっていったのである。

こうしてカルヴィンの思想は資本主義の成長、民主主義の発展とかたく結びついていった。
ルネサンスと言う時代区分はかなり曖昧な区分であり、本来18世紀近代ヨーロッパの市民社会と言う形態が無ければ、単に中世と区分されるべきものだが、近代の市民社会と言う思想があればこそ、そこに中世からの流れを見て取れるからで、その意味においては近代の市民社会の思想と、このルネサンスから始まった民主主義の思想は車の両輪とも呼ぶべきものなのである。

では最後、少し長くなるが、カルヴィン思想(プロテスタンティズム)と資本主義の接点を詳しく解説しておこう、この関係を始めて指摘したのは、ドイツの社会学者マクス・ウェーバー(1864~1920)である。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神において、人間の奉仕すべきなのは「神」か「金」かと言う点で、両者の理念は完全に対立するが、カルヴィンにとって人間のために神があるのではなくて、神のために人間が存在しているので、この世のあらゆることは神の栄光の為の手段としての意味しか持たない。

この人間の内だれが神の救済にあずかるよう選ばれた者であるかを知ることはできないし、互いに神に選ばれるよう助け合うこともできない・・・、したがって孤独で不安な人間は自己の救済を確信するために、できるであろう最善の方策として、絶えざる職業労働を命ぜられるが、この自分の為でも、同胞のためでもなく、もっぱら神の栄光を増すために行われる職業労働への専念によってのみ、宗教的疑念が除かれ、救いの確信が与えられる。

つまり労働と節約の生活を、現世における禁欲として救いの証明とするプロテスタンティズムの倫理は、プロテスタント的信仰の必然的結果とも言えるが、職業労働に対して積極的な倫理的根拠を与えた点で、資本主義を宗教的に裏付けた結果となり、このことで資本主義が「神」に容認・・・いやもっと言えば、唯一救いの道・・・ともなった訳で、カルヴィンや他の宗教改革者達が望むと望まざるとに拘わり無く、これ以後資本主義的精神の成立を推し進めるものとなったのである。

何やら敵の敵は味方・・・のような話だが、
働いて節約し、その結果「金」を蓄えるのは悪いことではないらしい。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. ヨーロッパは、ギリシャ~ローマ時代も含めて、相当長い間、際涯~塞外の地、文化果つる所。気候も冷涼で食物生産も低位だった。中世まではアラビアなどとは比ぶべくもない蛮人の領域、一握りの領主とそれ以外の農奴の地~~♪
    それがたまたま、中世以降自然発生的に宗教改革と必然的にやや合理的な資本主義が発生、最も貧困で遅れていたイギリスが、柵がなくて、産業革命を成し遂げて、後は、歴史を全く勉強しない日〇人(笑い)も良く知る現代の西欧となった~~♪

    勝ち残りには、敵の敵は味方かも知れないが、大抵は長続きせず、敵の敵はさらなる敵で有ったりする。利益が共有出来る内は、まだしも大抵は身内から、乃至は手っ取り早い、近所の持てるものから奪うのが、最近の流儀の様で、特に文化的にあまり伝統の無い所は、変転極まりなしで、要注意(笑い)
    働いて節約して「金」を貯えることは良いことだが、一回も成功していない、成功の秘訣は、今はやりの他人の褌で相撲を取って、仮初の価値を持ったもの、例えば創業者が持っている株、売り抜ける事(笑い)、但し自分は、少しだけで良いから、死んだら社会に使える「金」を残しておきたいものだと希望しているが、無理そうだ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      宗教と資本主義、この2つの相容れないものの実態は、根元が一つだったと言うことであり、資本主義の始まりも本当は弱肉強食や、或いは種の拡大と言った生物が持つ基礎的な原則に基づいているだろうと思います。
      つまり資本主義は本能だろうと思うのですが、同時のこの本能から宗教も逃れられていないのだろうと思います。
      何が価値観化は難しいところですが、結局生きる為の努力には例え神と言ってもこれを遮ることは出来ないと言う事なのかも知れません。
      人がいなければ神もまた存在できないと言う事なのでしょう。

      コメント、有り難うございました。

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