「明日天気にな~れ」

1994年と言う年を憶えている人はいるだろうか、この年日本はかつて無い経験をしているのだが、その1つは未曾有の猛暑と大干ばつだ・・・、水田にヒビが入り、日本全国の気象台で記録をとり始めて以来の夏季平均気温の高さとなり、最高気温も軒並み40度を超え、各地で給水制限が始まり、農業用水を巡っては流血事件まで発生していた。
この干ばつによる農業被害は100憶円を突破したが、その反面エアコンやビール、氷菓などの消費が伸びて、推計だが国内消費が1兆円近く伸びたとも言われている。

そしてもう1つは前年1993年の冷害による大凶作だ・・・、この年日本の米の作況指数は74、大東亜戦争敗戦の1945年の作況指数が67だから、戦後生まれの人にとっては、生まれて始めて米不足を経験したのが、この翌年の1994年だったのではないだろうか、政府は慌てて中国やアメリカ、東南アジアから米を輸入し、それに対処しようとしたが、民衆がパニック状態となり、国内産の米の価格は倍以上に高騰していったが、パニックの背景は米を扱う業者の扇動だったことが後に発覚してから米の値段は下がっていった。

過去江戸時代に発生した飢饉でも、こうした米を扱う業者の買占めや扇動によって、飢饉の被害が拡大したことを考えると、人間の行う所業はその良しにつけ、悪しきにつけ、そう変わらず、その対処のまずさも相変わらずのものがある。
1994年の猛暑では1兆円の国内消費押し上げ効果があったと書いたが、実はその前年には冷害による大凶作で、農産物の被害総額は1兆2566億円にまで達していたのである。

1993年、歴史的に凶作をもたらす冷夏には「ヤマセ」と言う風が吹く形態と、北西風が吹く形態の2種類があるが、これが重なっていた・・・、6月から8月までの平均気温は1954年に次ぐ過去4番目に低い気温、40年ぶりの冷夏と言うことだが、1898年気象庁が統計を取り始めて以来過去最低の日照時間だったこともあり、7、8月の東北地方の平均気温はなんと、19・1度しかなかったのだ。

だがこうした傾向は1991年から既に始まっていた・・・実は日本の気象はこの1991年を境界にして大きな変動期を迎えていったのだが、まず1991年、この年は大型台風が多く発生し、特に台風19号は1954年の洞爺丸台風と同じコースを辿り、死者62人、負傷者1499人を出したが、りんごなどの果物の落果、倒木、電力塔の破損、家屋の倒壊、火事などで、この年損害保険会社が支払った保険金はそれまでの20倍近くに達し、農産物の被害は2128億円に上った。
また台風が上陸したときの勢力だが、1991年の台風19号が941hp、1993年の台風13号は930hpで、こうした台風の瞬間最大風速は台風19号のとき、風速計が秒速62メートルで壊れていたことから、その風速は竜巻並みだったのではないかと推測されている。

また1993年に日本に上陸した台風は6個、これは1990年の記録に並ぶもので、西日本はこの年7月25日台風4号が徳島に上陸、7月27日台風5号が鹿児島県に上陸、7月29日に台風6号が長崎県に上陸と、僅か4日の間に3個の台風が上陸すると言う過去に例の無い異常な気象になっていたが、こうした台風により活発化した梅雨前線により大雨となり、1993年7月31日から8月7日にかけて九州南部地方を中心として大規模な水害が発生した。

死者、行方不明者79人、住宅の全半壊、流失746棟、がけ崩れ3799箇所、農産物や交通機関、流通などに甚大な被害を及ぼしたが、その後起こってくる日本各地の局地的な集中豪雨による水害の発生傾向は、この時期から始まってきていたのである。
またこの1993年は世界的にも異常気象となっていて、モンゴルは春の寒波、アメリカはミシシッピー川の氾濫、ヨーロッパでも12月に低温と気温の上昇が繰り返され、各国で大洪水となったばかりか、ブラジルでは6月と7月に、なんと霜の被害でコーヒーが打撃を受け、その生産量が著しく減少・・・コーヒーの国際相場は1986年に次ぐ高値になった。

世界的な気象の変動については、とても今回だけでは紹介しきれないので、別の機会に記事にしようと思うが、日本は1991年猛暑、1992年冷害、1993年冷害、1994年猛暑・・・と激変する気象条件下にあったのだが、面白いことにこうした気象の変動は国家の変動と重なっている。

1990年、ついにバブルが崩壊、湾岸戦争が始まってくるのであり、1993年、気象変動が最も激しかった年だが、第40回総選挙で自民党が歴史的敗北を喫して、日本新党始め7つの政党と1会派が非自民で連立した細川連立内閣が誕生している。
そして混迷を深めた細川内閣は羽田孜内閣に変わるが、2ヶ月しか持たず、今度は自民党と社会党、新党さきがけの連立と言う、摩訶不思議な連立により、社会党の村山富市代表が首相を務める村山内閣が発足した・・・、1994年6月のことだ。

この間、1993年、北海道南西沖地震・死者202名、釧路沖地震・負傷者928名・・・が発生していて、1995年1月には阪神淡路大地震が発生している・・・、つまり日本はバブル経済の崩壊、気象変動、地震、政変とあらゆる意味で大混乱のときだったのである。

1994年、長女が生まれた私は、この子にせめて食べることだけは困らないようにと、「恵」の1字を入れた名前をつけた。
そして私がいる限り、どんな時代になろうと、彼女が食べることに困らないようにと・・・私は米を作っている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 気候が乱れると、人心が乱れて、政府が乱れて・・色々重なる、どれが先でも似たようなことが起きるらしい~~♪

    日本は四周を海に囲まれて、塩に不自由する事は無いが、米も今のところ自給している。諸外国の特に、同盟国の(笑い)コメの輸入自由化の圧力は依然続いており、予断を許さないが、断固死守してほしい。買えば済むと言う、自分の懐の事だけを考えている、工場経営者の親玉が、沢山いるが、とんでもない間違いだと思う。
    ハイチは米を自給していたが、自作で苦労するより、当時ダメ国の割には、輸入米は安価で有り、米国から輸入して、米作・農家が、転作してしばらくして、ハイチ大地震が起きて、大国の周辺にある新興国が罹る病である、政治の腐敗と私物化で、国家の体をなくし、あれから未だに立ち直ていない。米と塩が有れば、時間稼ぎができたものを、彼の地は自分でそれを捨てた。
    日本は、米ぐらいは何時でも買えるぐらいにしか思っていないが、米を買わなければならないときには経済も下降しているし、供給国も最盛期の姿であるはずも無く、それこそ、輸出をしたら、政府が転覆、と言う事態も当然ありうる。

    保険には掛け金が必要で、健康だからと言って、収入を全部TDLに注込むと(笑い)、「私には、老後破綻が待っている」ぐらいの覚悟で、苦しい時にも最低限の事は確保できるようする事が大切だろう。人生は良い事ばかりが続くわけではない。

    農水族の言う事を真に受けたら、牛豚鶏を殺したり生かしたり、作物の自給率は下がりっぱなし、ロクな事は無い。
    米作お願いいたします~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      食料政策は国の要ですが、戦後の日本はこれをアメリカに依存し、そして今に至っています。
      防衛と共に国家の根幹をアメリカに握られている訳ですが、どうでしょうか・・・。
      既にこの国の政府は政府としての役割が果たせていない状態なのではないでしょうか。
      他サイトでも記事にしましたとおり、中央銀行があれですから、それを歪めてきた政府、そして今日の虚無感、もはや誰も政府の言葉も日本銀行の言葉も信用できない状態で動いている気がします。
      この状態では何か小さな外因が加わっても既に対応できない状態に在り、全て他国任せの状態になっているだろうと思います。
      日本の農業は輸入や輸出以前に労働人口の減少が激しく、これにTPPなどが動き始めれば加速的に農業は衰退していく事でしょう。
      何となくあらゆる事が絶望に向かっている感じですが、こうした事を思わせてしまう政府や日本銀行こそが、景気回復の道を塞いでいるのではないか、そんな事を思います。

      コメント、有り難うございました。

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