「最も尊い国」

物質のみならず生物、自然の摂理や運動の法則、社会の誕生と崩壊、男女関係から人間関係、気象、政治など、この世のあらゆる事象は混沌に向かい、この混沌に向かう速度や形態には一定の法則がある。
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混沌に向かう為の最小単位を一番理解し易いモデルが「量子カオス系」理論だが、現代でこそミクロ構造が見つかっているものの、大まかな点では「プランク定数」で充分なのであり、自然や物理、生物の「ゆらぎ」の最小単位、この世界の原理と言えるものが「プランク定数」(h)である。
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そしてこの「プランク定数」から、同じドイツの物理学者アインシュタインが量子力学理論を構築、「werner karl Heisenberg」(ヴェルナー・カール・ハイゼンベルグ)が「不確定性原理」を導き出したが、「Max karl ernst ludmig planck」(マックス・カール・エルンスト・ルードヴッヒ・プランク)やハイゼンベルグが歩んだ道は決して平坦なものではない。
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「第二次世界大戦」と言うカオス(混沌)の極みに有って、ヒトラーの独裁政権から逃れ祖国を棄てるのも決断なら、その崩壊して行く祖国の崩壊の後を考え、弾圧に耐える事もまた祖国を逃れるよりも更に重い決断だった。
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「プランク定数」の発見者「マックス・プランク」は、ヒトラー率いるナチス政権下でユダヤ人で有るが故に迫害され、追われるようにドイツを出国した「シュレディンガーの猫」で有名な物理学者、「エルヴィン・シュレディンガー」や「相対性理論」の「アインシュタイン」の為にヒトラーに直接抗議を行っている。
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また1943年のベルリン大空襲では、住んでいた家から焼け出され、命からがらローゲッツに避難し、その翌年の1944年には次男の「Erwin Piank」(エルヴィン・プランク)がヒトラー暗殺計画に加担した事で処刑され、彼自身も国賊と蔑まれ、石もて追われていくのである。
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1933年、ナチスの追求を恐れてロンドンに渡ったアインシュタイン、以後ユダヤ系科学者が次々ドイツを去っていく中、「マックス・プランク」はこの前年の1932年、31歳と言う若さでノーベル賞を受賞した天才「ハイゼンベルグ」にこう言っている。
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「今は生きる為にあらゆる事を我慢しなければならない」
「そしてこの国は必ず崩壊する」
「だが、この国が崩壊した後、誰が新しい国を創りなおすことが出来るだろう、君は残ってその責務を負うべきだ・・・」
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黙って下を向くハイゼンベルグ・・・。
それから後プランクとハイゼンベルグは周囲から「ユダヤ傾倒者」の烙印を押され、事有るごとに激しい言葉の攻撃に晒されながらもドイツ科学界に留まり、ドイツが開発しようとしていた原子力爆弾の開発を故意に遅らせていく。
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更にそうした情報や技術を、かつてその下で学んだコペンハーゲンの「ニールス・ボーア」にハイゼンベルグが流し、ボーアを通じて連合国側がドイツの原爆開発の進捗状況が遅い事を認識していたのである。
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ハイゼンベルグが日本への原爆投下を知ったのはイギリスの仮設収容所の中だった。
彼は一言、「有り得ない」、若しくは「馬鹿な・・・」と言う意味の事を呟いたと言われているが、この解釈は原爆が作られたと言う技術的な事に対するものか、或いは原爆が使われてしまった事に対するものかは明確になっていない。
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彼が科学者だった事から、後年技術的な事に対する言葉だったと解釈されている場合が多いが、私はむしろ両方を含んだ言葉だったと考えている。
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第二次世界大戦が終った1947年10月4日、マックス・プランクは89歳の生涯を全うし、この世を去った。
1930年、カイザー・ヴィルヘルム研究所の所長となったマックス・プランク、第二世界大戦終結後プランクの功績を讃え、カイザー・ヴィルヘルム研究所はマックス・プランク研究所と改名された。
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そして2011年現在、このマックス・プランク研究所はドイツの学術振興機関として、81の多分野研究機関を持つ学術機関として発展している。
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73年前の明後日、8月9日は長崎に原爆が投下された日である。
遠く離れた同盟国、ドイツの地でも原爆を巡って科学者が闘っていた。
祖国の為に原爆が作られる事を阻止しようとしていた者達がいた。
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原爆は人類が持ってはならない兵器だった。
奇しくも彼等の奮闘によりドイツより先に連合国のアメリカがその開発に成功、先に敗戦となっていたドイツではなく、日本にそれが投下された事を彼等はどう思っていただろうか・・・。
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自国でなくて良かった・・・と、そう思っていただろうか、否、違う。
そのエネルギーを頭の中で換算できた者たちは、原爆がいつか人類全体の脅威になる事を思っただろう。
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そしてそれが日本と言う国に投下された事を知ったとき、彼らはこう思ったはずである。
「主よ、我々人類を許し給え・・・・」
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アインシュタインは第二次世界大戦終結後、日本の地に立った時、「この国はもっとも尊い国です」と述べている。
この言葉の意味はとても深い・・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 沖縄への戦艦大和特攻を指揮した第二艦隊司令長官伊藤中将が配属されたばかりの海兵上がりの士官を駆逐艦に移乗させたのは、彼は開戦直前に軍令部次長であったし、もうその時は、日本の敗戦は決定的であることを知っていたであろうから、敗戦後の日本の再建復興の一助の為に、彼らを後世に残したかったのだろうと思う~~♪

    戦争末期に小沢中将指揮の空母艦隊が囮となって、米国の機動部隊を北方に吊り上げ成功した時に、無線もあまり良くなかったし、状況判断・作戦に混乱も有ったのだが、栗田中将指揮の主力艦隊がレイテ湾突入していれば、敵の主力不在の輸送船団に大打撃を与えて、終戦の形も変わったかもしれないとも言われるが、「謎の反転」をして、結局は敵と戦う事も無く帰投した。終生、その理由を話さなかったが、終戦後の人材を残したかったという判断も成り立つ、戦後も小沢とは親しく、お互いに気持ちは分かって居たのかもしれない~~♪

    最も尊い国も今は箍が外れ掛かっており、どこから始めたら良いかは不明だが、歴史をしっかり学び直す事と世界中にある「道徳的教育」から、地道にやった方が良いのかもしれない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      日本が戦争に負ける事は、比較的早くから多くの軍人たちが解っていただろうとおもいます。
      栗田艦長の反転は太平洋戦争の中でも今でもその理由が解らないミステリーですが、晩年小澤が栗田を見舞い、その折2人で小声で何かを会話しながら泣いていたと言われていますので、おそらくこの2人しか理解しようも無い理由がそこに在ったのでしょうね。
      国を棄てるも地獄、残るも地獄、場合に拠っては生き残る方が死ぬより辛い事もある。
      アインシュタインの最も尊い国と言う言葉は、きっと原子爆弾に被爆した国家である事と、恐らく無関係ではなく、それを最も尊いとしたアインシュタインの気持ちが何となく解るような気がします。
      そしてその尊い国の元首が、核廃絶宣言を避けている訳ですが、流石に凡庸な岸の子孫だなと言う気がします。

      コメント、有り難うございました。

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