「万民が平和を称える都の夢」

京都で夕飯時期まで遊んでいると、「夕飯でもどうですか・・・」と言われるが、これを真に受けて「それでは・・・」などと言ってはいけない、この言葉は「夕飯時期まで人の家にいるとは何と礼儀を知らない奴だ・・・そろそろ気を利かせて帰れ・・・」と言っているのである。
「おっと・・・思わぬ長居をしてしまいました、そろそろおいとま致します」が礼儀らしい・・・。

さて今夜はその京都が都としてどう言った歴史を辿ったのか見てみようか・・・。
781年に即位した桓武天皇は、それまで「道鏡」以後著しくなってなっていた仏教の政治介入を嫌い、仏教界を大きく粛清し、その影響の大きい平城京から長岡京への遷都をはかるが、784年に始まった遷都は翌年785年、遷都に反対する大友、佐伯、多治比氏ら・・・首謀者はこの前月に死去していた大伴家持とも言われているが、彼等の謀略により、造営長官の藤原種継が暗殺され、多難な船出を迎えた。

またこうして遅れに遅れた長岡京遷都はその後、井上皇后が天皇を呪い殺そうとしたとされる事件、これは桓武天皇を擁立しようとした藤原百川らの陰謀説が有力だが、この事件で皇后と他戸皇太子が廃され、その後2人とも獄死してしまったことから始まる怨霊騒動に桓武天皇が悩まされ、788年には夫人の藤原旅子、789年皇太后の高野新笠、790年皇后藤原乙牟漏が相次いで死去するにいたり、その怨霊に対する恐怖は頂点に達し、ついに桓武天皇は長岡京を諦め、和気清麻呂の建議を受け入れ、現在の京都、平安京に遷都を変更するのである。
桓武天皇はよほど仏教支配体制を嫌ったらしく、平城京からの寺院の移転は一切禁止していて、仏教と政治を完全に切り離してしまう。

しかしもともと長岡京でもその造営は捗らず、784年に占定が始まっていながら、791年の段階でもまだ平城京の諸門を長岡京へ移す命令を出しているような有様・・・、35万人の百姓を動員した結果がこれだった訳で、794年、怨霊におびえ平安京遷都が始まっても、この造営は大幅に長引いていき、結局初期の平安京は完成を待たずに805年に一応打ち切られる。

このときの平安京は平城京より少し広い程度で、平城京の外京を除けば、全く大差のないものだった。
東西4・2Km、南北4・95Km、大内裏から84mの朱雀大路を中心に左京、右京に別れ、各京は9条4坊からなり、1坊は4保16町、1町は4行8門の32戸主からなっていたが、都城としての外郭である羅城は完成しておらず、72坊・300保・1216町と言われた京が果たしてどこまでできていたかは疑問で、未完の都だった。

長岡京に続いて営まれた平安京が、それまでのように地名による京名を持たず、平安京とされたのは、京にやってきた民衆が異口同音に平安京と呼んだからであり、その思いの根底には万民が平和をたたえるように・・・と言う思いがあったと言われている。
805年に一度造営が中止された平安京だが、819年の記録では京中を見ても閑地は少なかったことが分かるし、862年にもなると朱雀大路には昼は牛馬が行きかい、夜は盗賊のたむろ、横行した府であった・・・となっている。
つまり平安京は初期の頃から、人は増えたがどこかで秩序が保たれない、荒廃した感じがあったようだ。

そしてこれは982年、慶滋保胤(よししげの・やすたね)が記した「池亭記」からだが、低湿地帯の右京はもはや京ではなく、この頃から白昼の京に強盗が横行するようになってきた・・・、つまり摂関政治は左京で行われていたことを示しているが、969年、「安和の変」で大宰員外帥に左遷された「源高明」の四条大宮の東北にあった邸宅、これなどは左遷後3日目にして殆ど全焼し、「誠に是れ象外の勝地なり」と言われた庭も荒れ果てたと記されている。

やがて貴族の政治が、東国の武者たちによって脅かされてくる平安末期になると、都は一層荒れ果ててくる・・・、1156年「保元の乱」、1159年「平治の乱」が京を舞台に繰り広げられ、1177年には京の大火があり、1180年には「大風」が有って多大な被害を出していたが、それとともに反平氏勢力が勢いを増し、その年の6月には福原遷都が始まって、平安京は廃墟に近いところまで荒廃していくのだった。

中世に入ると平安京は政治都市であるとともに、中世最大の商業都市としての性格が強くなっていたが、しかしこうして性格を変えながらでも、生き続けてきた平安京もようやく終末の時期を迎える・・・、公家の経済的基盤の最後のよりどころだった荘園が崩壊していく中で、1467年から11年に及ぶ「応仁の乱」が起こり、平安京は劫火に焼かれ、燃え尽きてしまったのである。

平安京がその政治的中心であった時期は、我々が思うほど長いものではなく、その成立時期から決して安定したものではなかった。常に不安定かつ、荒廃した時期の方が長い。
「応仁の乱」以降戦国時代が始まり、やがて安土桃山時代、江戸時代と続き、結局都として政治が行われた時期は500年ほど・・・、しかし我々が「日本」を思うとき、どこかで京都、平安京を意識するのではないか、どこかで心のよりどころとなっているのではないかと思う、そしてこれこそが「京都」の意義ではないだろうか。

怨霊に怯え、造営が始まった当初からうまく行かなかった平安京・・・しかしどうだ、万民が平和を称える都の夢は、我々の心の中で見事に花開いているように思うが・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 平安京、名前が良い。
    バンコクは、中国人の呼び名で、正式にはめっちゃ長いですが、略称は「クルンテープ=都、もうちょいだけ長くいえば・・クルンテープ・マナハ・コーン=都・偉大な・天使=偉大な天使の都」、こちらも名前は良い~~♪

    平城京は南に傾斜していて、洪水~下水その他で都全体が不衛生になり放棄~~♪
    勿論これは、「最後の藁1本」であり、いろんな事件の報道でも、この藁がどんな形状で有ったか、種は何であったかなどの詳細報道は有るが、酷いのになると、藁が半分だったら、問題はなかった・・その前の事に関しては、興味なし、それはあたかも大東亜戦争を論じるに東條だけで済ます安易さ~~♪

    9世紀から12世紀中葉まで、3世紀半ほど死刑の執行は概ねなかったようで、これは今日的人道主義と言うより、血の穢れの問題とか、仏教思想の影響、それほど必要性が無かった、論理的法治主義を厳格にと言う事でもなかった、かといって、執行する権力が弱まっていた訳でも無さそう、総合的に、今より全体的に生について、切実な感覚が有ったのかもしれない。

    本邦は政教分離が早い時代から進んでいたようにも思われるが、最近はそうでもなく、個人崇拝するカルト政党が与党だったり、強烈な一神教擬きで、とても政党の体をなしていない強酸党が、政治・社会に深く関与したり、逆に、宗教を冠した政党が国会に議席を持った方が良いかも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      東京は文字通り東の京であり、つい最近、と言っても150年前ですが、それまではやはり平安京が日本の京でしたし、今でも私などは京都大阪方面に向かうと「いざ、上洛や~」と言う感覚があります。
      しかしこの平安京が築かれた当初は、まだ半分しか整備が進んでいなくて、これ以後少しずつ整備されて今日に至っています。
      私などは地震などの事を考えるなら、今でも天皇家には京都に再遷都して欲しい気持ちが有りますし、一部共産主義者は御所をつぶして駐車場と言う話まで出てくるにつけ、この際愚かな政治の世界は東京に置いて、日本の心とも言うべき天皇家は京都と言うありようも悪くなのではないか、などと思っています。
      飛鳥、平安の罪の意識は個人を責めるものではなく、穢れと言う概念が在ったため、比較的刑罰で殺す事を避けて来ましたが、これが武家社会になると秩序維持、見せしめ効果の為に死刑が横行していく事になりました。
      そしてこの命が懸かってくることをして、精神性が高まっていった事も事実です。
      歴史に鑑みるなら、どちらが良かったかは微妙なものが有るかも知れません。
      ただ、政治的には平安京の時代も、今の時代も為政者の在り様は変わっていないような・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。