「マニフェスト・デスティニー」

大西洋沿岸の13植民地から出発したアメリカ合衆国は、1783年独立、ミシシッピー川から東の地を得たが、1803年にはフランスからルイジアナを、1819年にはスペインからフロリダを買収して1840年までには独立当事の2倍の領土、その人口は3倍に増加したが、1845年にはメキシコから独立していたテキサスを合併し、その後メキシコ戦争の結果ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアなど広大な南部、西部地方を獲得していった。

更に1857年アラスカをロシアから買収し、1860年には33州に及ぶ大陸国家となっていたが、このような領土的発展は急速な西部開発運動と結びつき、フロンティア(開拓線)の西進と言う現実を生み、絶えず未開の土地を開拓して西進するアメリカ人の中に、自由で不屈の個人主義を養うとともに、アメリカ社会の固定化を防ぎ、「膨張はアメリカ人が神から委ねられた天命である」と言うマニフェスト・デスティニー(膨張の天命)と言う思想を植えつけた。

またフロンティアと言う言葉はここでは開拓線と訳したが、単なる境界では無く、マニフェスト・デスティニーと深く連動したものであり、アメリカ人の精神と生活をきたえ、独立、自由にして進歩的な人間と社会を生み、民主主義の発展を支えた精神でもあり、こうした西部の開発に伴い北部と南部は政治体制、政治組織、貿易政策、奴隷制度などで利害関係が対立していった。そしてともに西部を味方に付けようと言う動きになり、例えばミズーリの連邦加入を巡って南北が対立したが、ミズーリ協定(1820年)によって、南部の主張どおりミズーリ州を奴隷州として認める代わりに、同州以北を将来自由州に編入することを協約して、決定的衝突は一時的に回避された・・・。

この自由州と奴隷州と言うのはアメリカのフロンティアが西進するに連れて、将来州となるべき地域で黒人奴隷を認めるか否かに関して、北部と南部の利害が対立、ミズーリ州までは奴隷制度を認めるが、メイン州では奴隷制を認めない自由州とするとともに、将来北緯36度30分以南を奴隷州、以北を自由州とする協定が結ばれたが、1854年カンサス・ネブラスカ法案の成立によって協定は破棄され、奴隷州か自由州かの決定は住民投票にゆだねられることになった・・・、この結果奴隷州の拡大の可能性が高まり、南北の対立は更に激化していった背景を持つ。

もともと南部は植民地時代からタバコ、米、藍などの生産が盛んだったが、単純で過激な労働を必要とするため、17世紀末から黒人奴隷が多く使われるようになっていった・・・、こうして単一作物を奴隷の労働によって生産するプランテーシュンが発展し、特にイギリス産業革命による需要の拡大に伴って綿花栽培がめざましく発展、黒人奴隷数も1790年には65万7千人だったものが、1860年には384万人に増加していた。

このように奴隷制と自由貿易に基礎を置き、自由な州権分立を望む南部に対して、早く、1830年代に産業革命を迎えていた北部は、原料、食料の供給地、生産品の市場として西部と結びつき発展していた。
そのため国内市場の安定と生産物の保護貿易を推進する中央集権的国家統一を望んでいたが、こうした南北の対立は特に南部の黒人奴隷制度の存在が、北部の発展にとって必要な労働力の確保と、国内市場の拡大を妨げる要因となったとき、破局は避けられないものとなっていったのである。

ストウ夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」(キリスト教的人道主義の立場から黒人奴隷の悲惨な生活を描いた著書)の出版など、北部における奴隷制度廃止の気運は次第に高まり、1854年北部産業資本家を中心に「共和党」が結成され、奴隷制廃止運動が全国的規模で拡大、1860年、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選するに及んで、この南北対立は決定的なものになった。
熱心な奴隷制廃止、中央集権論者であるリンカーンの当選を機に、1861年民主党の地盤である南部諸州(11州)は合衆国から離脱し、ジェファーソン・デヴィスを大統領に「アメリカ盟邦」を形成し、首都はリッチモンドに定められた・・・、そしてこの対立はついに武力衝突となり内乱「南北戦争」(1861年~1865年)が起ったのである。

戦況は、はじめ南軍(司令官リー)が優勢で、一時はゲティスバーグに侵攻したものの、激戦の末北軍に撃退され、リンカーンは北部の有力な産業と人口を背景にしぶとく戦争を継続するとともに、1863年1月奴隷解放令を発し、300万の全奴隷を解放して戦争目的を明確にした。
その後、北軍の司令官グラントは勢力を回復し、海軍で南部を封鎖、1865年4月南部のリッチモンドを占領して南北戦争は北軍の勝利となり、合衆国は統一を取り戻した。
これによってアメリカは実質的な連邦国家体制を完成させ、著しい資本主義の道を開いていくのである。

難解な説明であったかったかも知れないが、現在アメリカにある2大政党の民主党と共和党は、こんな時代からの歴史を持っているのであり、アメリカ社会に根底的に眠る拡大思想は、西部開拓時代から培われてきているものなのである。

では最後に1863年11月、ゲティスバーグで行われた、リンカーンの戦没者を葬る式典での演説を聴いて、この話を終わりにしようか・・・、ちなみにこのときのリンカーンは、我々が知っているような立派なあご髭をまだ生やしていない、彼があご髭を生やすのは、この後1人の少女の「髭を生やしたほうがカッコいいわよ」・・・と言う勧めに応じたものであった。
ご静聴・・・ありがとう。

生き残っている我々こそ、むしろここで戦った人々が、かくも雄々しくおし進めてきた未完成の事業に、この地で献身すべきであります。
むしろ我々こそこの地で、我らの眼前に残された大いなる責務に献身すべきであります。すなわち、これら名誉ある戦死者より一層の献身を受け継いで、彼等が最後の全力を挙げて身を捧げたその主義のために尽くすべきであります。
これら戦死者の死を無駄死に終わらせないように、ここで固く決意すべきであります。
「この国に、神の恵みのもとに、自由の新しい誕生をもたらし、また人民の、人民による、人民の為の政府が、この地上から消え去ることのないようにしなければなりません」

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 世界で最も自国を飾るのが上手いのは、新興国アメリカでしょう。他の大部分の国家は、飾る必要も無かったし、そんな事は考えもしなかった。
    アメリカの大統領は、常に演説と行動は別で、二重基準でその国力でもって、本音を通していながら、綺麗事を言ってきたが、今のトランプになって、本音を露骨に言うようになって、他国は妥協点を提案し難くなって、混乱が増しているように思える。多分アメリカの上流階級は良いのだろうけれど、多数派の支持は薄い。
    もしかしたら、トランプはアメリカの独立当時の指導者の再来かも知れない。それは、世界を敵に回す、史上最低の勇名を勝ち得る名誉ある地位を占めそうだ。
    所が残念ながら、心は失われ、名は自由主義だが、共産主義以下の唯物論者で有り、心のない兵士は、一見強うそうであるが、実は脆い、ベトナム戦争を始め、WWII以降は、実はアメリカの戦争は、内実は負け戦。

    今やや話題の朝鮮戦争も、日本人を動員して、朝鮮支那連合軍の正面と戦わせて米軍は、後援軍を目論んだが、敢無く失敗、多大な犠牲を払ったが、マッカーサーは解任。
    今でもその手法は変わって居ないが、それこそ自国の存亡をかけていない軍隊は、木偶の坊化し易い。支那軍は常に後方に督戦隊が居ないと戦えないし、正面軍は現地強制徴募兵に同じ。
    米陸軍は、徴兵制から志願制に変わって、人種構成が著しく変化して、良し悪しの問題では無いが、国家の人口構成とは、違う人種構成に成った。敵の数倍の圧倒的物量で、戦いには勝つが、収拾の着かない戦いを続けないと、地位を保てない隘路に入っているように思える。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      リンカーンが闘っていた相手はヨーロッパ、その影響力を亡霊のように引きずった「旧」との闘いだったと言えますが、日本では簡単に使っている「マニフェスト」も実際はかなり恐ろしい考え方の背景を持っている事を知らねばならないと思います。
      そして現在もアメリカはそう大きく変わってはいない。トランプ大統領などはある種最もアメリカらしい大統領と言う側面が有ります。
      中華思想が中心を描いて同心円状の考え方を持つ事と比較すると、合衆国のそれはアメーバーのように侵食して広がって行くような嫌なものが出てきます。後には何も残らない形となる為、ただ浪費の為だけに広がっていくような感じがあります。
      世界情勢は相変わらず不安定なままですが、こうした混乱が続くと、そこからやがて秩序を求める動きが始まり、その秩序を築く者こそ、次世代の世界を牽引する事になるでしょう。
      残念ながら日本は衰退する一方ですが、今のような時に現れるものは間違いなく「偽り」に終わるでしょう・・・。

      コメント、有り難うございました。

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