「仏教の成立」後編

およそ1つの宗教はそれのみが突然に発生してきたものでは有り得ない。
仏教を見てもその前にバラモン教があり、キリスト教、ユダヤ教に至ってもそれ以前にバビロン、メソポタミアの宗教観の中から一つはそれを取り入れ、一つはそれに反発する形で自身の宗教を創造して行ったに過ぎない。

だから宗教と言うものの本質はその流れにあり、いつの時代も普遍な価値観を与えるものではなく、時代によってそれは変化し、また個々の人間においてもその概念は決して安定してはいない。
すなわち自身の概念としてある「無常観」と他が概念として持つ無常観は同じように見えて違う・・・、そしてその違いを人間は決して確かめることができない。

ガウタマ・シッダールダが興した仏教、しかしインドは決して安定した勢力が統一を果たすと言うことがなく、仏陀の死後マガダ国が仏教とジャイナ教を保護したこともあって、仏教はこのマガダ国を中心にして幾つかの教団に分かれて活動したが、紀元前3世紀、マウルヤ朝のアショカ王が仏教を強力に保護し始めると、飛躍的に発展していったが、このアショカ王が仏教を保護し始めたのは理由があった。
インド東海岸地方にあるカリンガ王国を滅ぼした際、その戦い方は残酷を極めた・・・、アショカ王はこの戦いをひどく後悔し、そのために自身が仏教を信仰するに至ったと言われている。

そしてこのチャンドラグプタが起こしたマウルヤ朝が勢力を弱めると、今度は南インドにアーンドラ朝が興り、その自由な空気の中でナーガールジュナたちの「大乗仏教運動」がおこったが、大乗の思想自体は紀元前からあったもので、新仏教と呼ばれる性質のものだが、利他主義の立場から人間一切の成仏を説き、戒律にとらわれず菩薩信仰を中心に、広く衆生の救済をはかろう・・・と言うものだった。

仏教教団は、シャカの死後多数の学派に分かれて論争をしていたが、この大乗の精神はそうした中から改革運動で起ってきたものであり、それまで仏教としての個人は厳しい戒律を守り、苦行してその悟りを開こうとするものだったが、こうした古典形式の仏教を、大乗仏教側は小乗仏教と呼び、区別した。
したがって、小乗仏教という呼び方は大乗仏教側の呼び方であって、古典仏教が小乗仏教と呼ばれる根拠は明確ではない。

紀元前6世紀から紀元後3世紀ほどまでのインドは正確には小国の乱立状態で、その中の勢力の強いものがインドの大部分を征した形で、その入れ替わりは激しく、それぞれの為政者が仏教を保護した為、仏教は栄えたが、こうした為政者がイスラム勢力の干渉を受けるに従って仏教の衰退が始まった、この背景には宗教的復興精神が新興宗教の仏教では無く、古典宗教であるバラモン教に及んだ点にある。

だがこうした傾向は現在も同じで、およそ人間とはこうした思考形態の動物である・・・と考えたほうがいいだろう。
すなわち、同じものなら古いほうに価値を見出し易いからであり、これはどう言うことかと言うと、例えば皿にしようか、土の中から明治時代の皿と飛鳥時代の皿が見つかったとすると、人間は明治時代の皿がいかに優れていても、飛鳥時代の皿により大きな価値を見てしまう点にある。

一つ前の時代に流行っていた仏教よりは、その前のバラモン教により大きな価値を見出す動機はここにあるように思えるが、インドの地理上の位置からしても、異文化の侵食を受け易い土地柄から、その地域の独自性と言う観点でも、より古典的な思想が尊重され易い下地を持っていたと見るべきだろう。

仏教は紀元後3世紀にはバラモン教の復刻版とも言える、ヒンドゥー教に押され少しずつ衰退していったが、チャンドラグプタ2世のグプタ朝、その後紀元6世紀の北インドで興ったヴァルダナ朝まではインドでその信者の活動を見ることができるが、その後7世紀には諸国王が乱立して争い、数世紀にわたる暗黒時代を迎えることになり、やがてイスラム勢力の支配を受けるに至って、インドでの仏教は消滅した。

しかしアショカ王の時代、王は仏教を統治の根本精神と定め、広く布教に努め、仏教は非常に発達した、また王は諸外国にも仏教の布教に努めたが、ことにセイロン島の布教が大成功を収め、このルートから東南アジアへの仏教伝来が始まった。
そしてこのアショカ王が信仰していたのが小乗仏教だった経緯から、東南アジアでは同じ仏教でも小乗仏教が伝播し、この後紀元2世紀、マウルヤ朝が衰退してクシャーナ朝が起ったときには、カニシカ王が大乗仏教を信仰していた為、今度は大乗仏教がクシャーナ朝の出身地だった中央アジアへ伝わり、中央アジアの道路網(シルクロード)を通して中国、朝鮮、日本へと伝わるのである。

大乗仏教の経典の多くはこのカニシカ王の時代に編纂されたものであり、こうした伝播ルートから大乗仏教を北伝仏教、一方東南アジアルートは南伝仏教とも呼ばれ、大乗仏教の原典はサンスクリット語で書かれ、チベット訳、漢訳の大蔵経があり、小乗仏教の原典はパーリ語で、南伝大蔵(邦訳)などがある。
またこうした仏教の教義が分裂化、細分化して混乱する為、時の為政者は「仏教結集」と言う教義の統一的見解をまとめる為の宗教会議を開いているのもまた面白い。
こうした宗教会議はキリスト教にも見られるからである。

仏教結集とはシャカの没後、仏教経典の整理統一を行ったもので、彼が生前語った法話が失われるのを防ぎ、また異説が生じないように弟子たちが集まり、各自の記憶するところを述べて、同異を正し修正したのが始まりで、4回の結集があり、第1回はシャカ入滅直後、紀元前5世紀半ば頃、マガダ国の首都ラージャグリハ付近の洞窟に、約500人の弟子たちが集まって開かれた。
第2回はその100年後の紀元前4世紀、マガダ国のヴァイシャリーで、700人の比丘が集まり戒律の問題で討議した。
そして第3回の結集は紀元前3世紀、アショカ王が開いたもので、この時はサンスクリット語で総合的な結集となった。

またクシャーナ朝の首都プルシャプラを中心とするガンダーラ地方にはヘレニズム文化の影響を受けた仏像彫刻がおこり、ギリシャ式仏教美術が栄え、その栄えた地域にちなんで、これをガンダーラ美術と言うが、インドでは始め信仰の対象を人間の像で表すのは恐れ多いと考えて、仏像は作られていなかった。
しかしバクトリアのギリシャ人がガウタマ・シッダールタを人間的に彫刻したのがその始めで、そのためこの仏像はギリシャ神像に似ていることになったが、ガンダーラ美術は大乗仏教とともにシルクロードを通って中国に伝わり、更に朝鮮半島から日本にまで影響を及ぼしたのである。

宗教は唯見ていると皆がそれぞれに違っているように見えるが、実はその根底を流れるものはそう相反したものではなく、むしろ同じような側面を持っている。
つまり1つの考えがあって、これに賛同する者も反対する者も、結局原型となるものがあっての話で、こうした意味ではその時反対側にいた者が、将来の改革や復興でまたまた反対の反対になる可能性も秘めている、しかもそのことは年々歳々移り変わっている。
宗教は決して止まった状態のものではないのである。

ネアンデルタール人たちはその生活の中で「死生観」を持っていた・・・、その後クロマニョン人は音楽を楽しんでいたようだ・・・、現在互いに争い、憎しみ合っている宗教は元々兄弟の関係にあるものだ、もしかしたらすべての宗教を辿っていくと、本当は1つの観念から始まっているかも知れない・・・・。

シャカは晩年老いたわが身を引きずり、故郷の丘に立った・・・、しかしそこは戦争と混乱で幾多の亡者が積み重なり、男も女も乞食のように身をやつし、生き地獄の有様だった。
シャカはこの有様を見てこう言う・・・、「ああ・・・生きていると言うことは何と素晴らしいことだ、この世は何と甘美なものなのだろう・・・」

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。