「天の怒り」・2

「ジリジリと顔は焼ける、髪の毛は焦げる・・・、たまらなくなったか1人2人と意を決したのか、ザンブとばかり身を躍らせて弁天池に飛び込めば、今はこれまでなりと、周囲にあった男女約1000名、我も我もと池中に飛び込んだ。しかし記憶せよ!この弁天池は実に猫の額大の池に過ぎぬのでる!・・・・その間における救いを求める最後の声のいたましさ、一歩踏み込み、指1本滑らせば泥中に足を踏み入れなければならないのであるから、岸辺にある者は骨も砕けよとばかりに岸辺の何かを握りしめ、その後ろにいる者はその人の肩に手をかけ、そのまた後ろは岸辺に近づき人の胴を力の限り抱きかかえ、中央部に浮きつ沈みつつある者は前の人の髪を掴んで離さない・・・」

「南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏・・・・、ありとあらゆる神仏を声高く念ずる叫び、実にその惨状はこの世のあらゆる形容詞1万語を連ねるとも、なお良くこの凄絶惨絶を描破し得ることはできまい」(吉原弁天池の惨・大正大震大火災より)
資料を読んでいるだけで涙が流れてくる情景だが、これは火に囲まれた吉原の惨状であり、吉原の遊女たち630人はこの池へ飛び込んで死んでいった。

9月1日の夜、麹町、神田、下谷、浅草方面は朱色の炎で真っ赤に染まり、自分の姿にその炎の光が影につくっていた・・・、余震はまだ続いている、あちこちから聞こえる絶叫の声が一つになって、天を破るのではないかと思えるほどだった。

こうした日本の地震を受けて、合衆国大統領クーリッジは「アメリカ政府は赤十字社を通じて震災救済、援助に最大の努力をする」と表明、またイギリス、ソビエト連邦、オーストラリア、インド、イギリス、フランス、中国などからも支援の手が差し伸べられたが、日本政府は横浜に入港したソビエトの救援船を、共産主義思想の啓蒙活動の恐れあり…として退去を命じた。

アメリカ政府は関東大震災救援のため、米百万ポンド、大豆百万ポンドに、大量の建築資材や洋服などを日本に向けて送ったが、このアメリカの対応は当時としてはかなり迅速なもので、その背景には1分早ければ1人多く人が助かる・・・、がニューヨーク市の日本震災寄付金募集の標語であったためで、映画館、劇場などあらゆるところでこうした寄付金の募集が行われ、少女たちが救済金を作るために花売りをし、それが1束5ドル、10ドルと言う法外な値段だったにもかかわらず、飛ぶように売れ、全米各地の新聞などで日本救済の記事を掲載するなどして、アメリカの救済活動が盛り上がったのである。

そして震災後、日本国内でも非常に現実的と言うか、「こんなものか」と思える動きが出てくるが、ひとつは死体運搬の人足が不足してきて、横浜では当初こうした人足の日給が5円と米一升だったが、当時の一般的日雇い人足の給金が1日1円未満だったことを考えると、これがいかに法外なものだったか分かるだろう・・・、だが、こうした人足もその後生き残った人たちが、生活の糧として人足稼業を始めるに至り、横浜でも日給4円と米一升となり、東京では日給4円だけだった。

東京が4円で米一升がつかなかった背景はつまり、横浜よりはこうした人足が多かったと言うことで、それだけ東京の方では死者が多かったにもかかわらず、仕事がなかったと言うことを指している。
ちなみにこの職業は関東大震災によって一時的に現れた職業だった。

また吉原の遊女たちが多く死んでしまったことがその背景にあるとも言われているが、この時代まだ公然と商売として成り立っていた「売春」が一躍脚光を浴びてくる。
それまでどちらかと言えばプロの仕事だった売春が、この震災を機に一般子女にまで波及していくのだが、売春宿が平然と新聞広告で売春婦を募集しているのである。
「芸妓、15より25歳位迄、芸なき素人の方歓迎、住替何れもにても、是非ご相談ください」と言った広告が震災後の「都新聞」に10、20と載せられていた。

そしてこうして買収された一般子女は芸を売るのではなく、体を売るのだが、盛り場では一夜に20人30人の客を取らせ、その料金は1円以上、3円や5円と言ったものまであり、こうした職業に身を転じた婦女子の収入は一夜で十円以上になったと、「宮武外骨」が記している。
ちなみに「宮武外骨」は、いずれのそうした場所も大繁盛で、大震災の騒動で荒んだ心を肉欲の満足で緩和させる者の多い、と記し、さらに現社会制度の根本を解せずして、単に公娼廃止の運動をする連中は、このように私娼の跋扈(ばっこ)するを何と視るのであろうか・・・、などとも記している。

また関東大震災を語る上で決して避けて通れぬところとして、こうした騒動に乗じて朝鮮人や中国人の大量虐殺事件が頻発したことを記しておかねばならないが、こうした虐殺行動は単に政府や軍部だけの行動でなく、9月2日の時点であらぬ噂が広まり、朝鮮人や中国人に対する暴力行為は、半ば民衆化したことも記録しておかねばならないだろう。

実に関東大震災の記録では地震の悲惨さを伝える証言が半分、そして残りの半分は朝鮮人や中国人に対するこうした虐殺に関する証言なのであり、この中には日本における社会主義者たちや、一般市民も含まれていて、なおかつ、この問題には現代社会の日本人を考える上で非常に貴重なものが潜んでいる。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「日本人とルネサンス」

    砂漠で発生した一神教は、「聖書」に書かれていることが、真実であり、まさしく自縄自縛に陥っているように見受けられる。
    聖書に「ジャガイモ」について記述がない事を以てして、「悪魔の食い物」にして、救荒作物にも、主食の一つにもしなかったのに、何も理屈は無く必要で主要作物になった。一方宗教界は腐敗に満ちていたにも関わらず、宗教の権威を維持しようとしたし、未だにしている。
    イスラエルでは安息日に、労働をしてはいけない、という事で、エレベーターを止めればいいのに、各階止まりにして、火を使ってはいけない、という事で前日までに調理をして、その日は冷たい物を出す、やや落ちこぼれの仏教徒から見たら、偽善でしかないのに、真面目風に遣っていて、隣人を愛せよ、と言っておき居ながら、戦争を始めるのは彼らだし、新大陸やアフリカの人間は、動物以下の扱いだし、全く困ったもんだ(笑い)。

    日本では自分の歴史や習慣を鑑みながら現状を分析すればいいのに、全く異質のキリスト教的史観や宇宙観を以てして、文化・経済・人間性を判断評価して、間違った計画・政策を実施している。
    只、現場は賢いし強力だから、相応の効果を上げている。勿論その理屈と現実は合って居ない~~♪

    日本は比較的、宗教的囚われが少ないだろうし、キリスト教的な観点から自分・人間を再発見する必要は無いように思えるが、例えば男女共同参画社会の構築、日本じゃ実質、女尊男卑(笑い)・・重大な欠点も有る。細部にも配慮が行き届きたゆまない技術革新も生むが、本質から外れ些末な事に熱中して方向を見失う~~♪
    二つだけ上げれば・・
    17世紀初頭は鉄砲の生産量も威力も多分世界最高水準だったが、ちょっと平和になると、象嵌やら蒔絵やらに集中して芸術品は作るが、殺傷力を蔑ろにする~~♪
    今は保育園の子供の弁当では、簡便・栄養を忘れて、キャラ弁とか、他人に見せるために狂奔して、作る方も食べる方も疲れ切っている~~♪

    ついでにもう一個、国防も如何に国家を守り、国民を安寧にするかはとっくに忘れ去られて、議論・審議の仕方やら文言など些末な事に終始して、本質には全然興味は無い(笑い)

    ルネサンスのフレスコをやたら有難がるが、日本にだって、蔵の街には、壁にこて絵が有る~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      既にルネッサンスと言う発音が田舎臭く、知恵の無い者が付けそうな名前ですが、これ以外にも「未来」とか「創造」「創出」などの名前が付いたものにろくな事は無い。
      机上の理論の机上にも行っていないアイディアでもてはやされ、失敗を恐れてデータや業績を改ざんの手法は大手企業から始まって、個人にまで行き渡っている。
      私は本当はルネサンスは無かったと思っています。その現実は魔女裁判の始まるような暗黒の歴史であり、ここの大航海時代が組み合わさって、見てはいけない夢を見てしまっただけだろうと言う気がします。
      そしてこうした流れの結果に位置するのがフランス革命ですが、その結果がどうなったかは歴史が証明するところです。
      またこうした時期、世界的に寒冷化が強まって一般庶民は貧しくなっって来ている。フランス革命はこうした人間の嫌な部分と、寒冷化に拠る世界的なマインド低下が引き起こした理想であり、結実されたものは魔女裁判が社会にも及んでしまった恐怖政治、その反動でナポレオンが出てくる事になったかと思います。
      本当は名前ぐらいどうでも良くて、内容が大切なのですが、一方でこうした名称で安心してしまう人間の心情もまた一方の心理、田舎で見ていると、何やら全てがアホらしく見えてしまいます(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. 「天の怒り」・2

    真実は何処にあるかを見極める事は極めて難しく、事実でさえも、その場に居ながら、人は見たいものを見て、見たくないものは見えない事が多い。それが記憶され若しくは記録されて、残る事は多いが、人間性が変遷するように、現在からみて整合性が無くても、当時は十分に合理性の有った記述かも知れないし、その逆かも知れない。
    検証できない事も多いが、何かにきっかけで人種や地域を越えて、類似する出来事に時代を越えて、文化を越えて、発生して類似する経過をたどったことが分かる事も有ろうし、その逆も有ろうかと思うが、最悪と思われることが、実は回避できたのは人の乃至は文化習俗の英知であることも多い気がする。回避できたことを想起することは困難を極める。

    最近、老齢運転手の事故が盛んに報道されているが、対人口割合で多いのか、それとも人口分で多いのかの報道が無いのは怪しい。女性用のワクチンで副作用が出て、接種中止になって居るのが有るようだが、これで、副作用は止まるのは当然だが、予防しようとする 病気の発生との関係も報道されていない。損失の低減が裨益より少ない可能性もある。

    国連の人権委員会と言う、実態も知らずに調査もせずに賄賂で何でも言う面白いグループより少しはマシでもWHOを全面的に信用している訳でもないが、副作用発生頻度より、予防できる病気の発病が、何倍も多いという警告も有ったように記憶するが、作為による被害は糾弾されて、不作為によるより大きい被害は、不問に付される事柄が、多いように思う。

    家庭内における虐待を都で厳罰(?)にする条例を準備中らしいが(笑い)、原因は概ね貧困、その理由はここでは言及しないが、で有るらしいのに、原因を解決しないで、現象を罰しても意味はない。少し目を良くすれば原因が見えるだろうに、福祉・援護の人々が訪問援助すべきところに、官憲が踏み込んでいっても、問題は可決しない。刑務所が混むだけだ、それで虐待は拡大再生産される~~♪
    より少ない費用で対応できるだろうに、人生の大部分を高い塀の中に入れる方策は再考した方が良い~~♪

    最近は人類が劣化しているようで(笑い)人災が天災を増幅して居る様だ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      空海の「風よ止れと思うな、己が風になれ」と言う言葉が思い出されますね。
      極端に菌を怖がり、その菌を避ければどんどん人間は菌に弱くなる。やがてそうして避けて行った為に何でもなかったものが脅威となってしまう。
      今の社会はこうした事を繰り返しているだけのような気がします。無意味の中で無意味を繰り返して堕ちて行く形ですが、どうも初冬の荒れた気候がそろそろ始まり、そしてバタバタと人が死んでいく能登の田舎では明るい事は考えられない。
      そして関東大震災の記録を読んでいると、人間は災害に対して多用な事を考えている様子が伺えます。現代のように「絆」や「力を貰った」などの通り一辺倒の考え方しか出て来ない時代に比べると、当時の人間はどうしてここまで正直に自分の心を記録して、それを社会が承認できたのだろうと思います。今の時代はある種の自由と言えるかも知れませんが、「心」を記す自由は大きく奪われている事を思います。
      ただ、虚しい・・・。どうしてもこの虚しさから逃れられず、あらゆる事が無意味にしか見えない。

      コメント、有り難うございました。

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