「土下座」

 

「おい何だ、そのすだれみたいな頭は、そんなんで前が見えるのか、椿油でも塗って前髪は上げておけ」
「自眠党の幹事長が来るんだぞ、車はセドリックぐらいじゃだめだぞ、灰金建設からプレジデントを借りて来い、あー、話はつけてあるからな」
40代後半の地元市議は若い者を集めて、今日の指示を出していたが、国政選挙ともなれば地方も大変である。
なにせその地方だけでは既に経済的に破綻していて、どうしても中央から事業を引っ張ってこないと、みんな御飯が食べられなくなる。

そして地方の経済は何だかんだ言いながら、税金を使った公共工事が主体経済だから、土建関係の仕事がないと、どうにもならなくなってしまうのだ。
思わずテンションは上がり、中央の与党幹部が地元衆議院議員候補の応援に来るともなれば、将軍様のおこしか、天皇の勅使のご到来のようなことになってしまう。
そしてこうした中央の政府与党幹部のご到来に合わせて、地元代議士候補の「総決起大会」なるものが開催され、そこには系列県議は勿論、周辺の市町村議会議員までもが参列、地元住民を大量動員しての一種の「祭り」が繰り広げられるのである。

市町村議会議員などはそもそも大方が土建業者や地元の事業主であり、そこに勤務している従業員はすべてこうした総決起大会には、大会ボランティアがその業務になるのだが、男女問わず自眠党指定カラーのジャンパーを着て、有力者をお迎えに行く者、代議士、県議の接待をする者、会場整備や誘導と言った具合に若い者が振り分けられ、美形の女性受付嬢などは1日秘書のお役目を仰せつかり、代議士のカバン持ちをさせられることもある。

こうして開催される総決起大会であるから、中途半端なことでは許されない・・・、1000人入るホールは当然のごとく満員になって、しかも座れない人が大量に出るくらいの盛況ぶりでなければならない、いや絶対そうでなければ地元市町村議会議員や県議、代議士候補の与党幹部に対するメンツが立たなくなるのだ。

暑い夏、ナイロン製のジャンパーを着ていると、下に着ているTシャツなどは一瞬にして絞れば水が滴るように汗だくになり、わがままな議員たちに顎でこき使われ、それでも文句が言えない各事業所の若い者たちは、こうした機会を通じて政治家の馬鹿さ加減を勉強するのだが、ひどいものでは時間が押しているからと言って、20代男性に制限速度を50kmもオーバーさせて車の運転をさせていた県議がいたり、途中食事をすることになって洋食レストランに入ったが、ステーキを注文して箸がなかったため激怒し、しかもその店は本格的なステーキハウスだったらしく箸を置いていなかったことから、何度もそれを丁寧に説明する女性ウェイターをさらに怒鳴りつけ、ついにはそのウェイターが泣き出してしまって、それでも無理やり「箸を買って来い」と怒鳴って、結局箸を買って来させた市議などもいたようだ。

また人集めに駆り出された人は更に悲惨で、自分が住んでいる地域全部を回り、夕方から始まる決起大会に参加してくれるよう頼んで歩かねばならず、しかもこれには1人で何人集める・・・と言う割り当てがあり、大きな声では言えないが、寿司の折詰が出ることを餌に住民を集めるのだ。
そして夕方にはこうして誘った住民の送迎もしなければならないが、いざ総決起大会ともなれば玄関で整列し、「ご苦労様でした」とか「ありがとうございました」と、声を揃えて挨拶もしなければならないことになっている。

そして全員が必勝のハチマキをした会場は人々の熱狂で冷房が利かず、会場へ入れないほどの熱烈な支援者?で埋まり、いよいよ総決起大会が始まる。
地元有力者の挨拶に始まり、市町村議会議員や県議の挨拶・・・、どれも記述するには余りにも情けないものなので削除するが、そうした挨拶の後、いよいよ自眠党幹部の挨拶と代議士候補への激励があり、最後に代議士候補の謝辞と支援者に対する更なる支援のお願いがあって、候補者は来賓1人1人に握手を求め、そこでも激励されるが、この時感極まった候補者は、舞台で両手をついて支援者の皆様に土下座する。

これを見た会場の聴衆からは思わずどよめきが起こり、その後大きな拍手が起こってくる、会場は異様な熱気と感動の渦で満たされ、誰もがこの候補でなければこの地域は絶対繁栄しない、彼こそが我々の希望だ・・・と思えてしまう雰囲気で一杯になる瞬間だ。
だがこのとき裏では、昼間人集めをした若者たちが、どこの町の誰が来なかったかを一人一人チェックしていて、後日そうした家や事業所には再度、別の形での支援要請が行くのだが、そこでも協力的でない、または反抗的な家や事業所はしっかり記録され、後でいろいろ不利益を被らせる仕組みになっている。

ちなみに土下座については、私の知り合いの住職が面白いことを言っていた。
何でも日曜日の午前中、門の前をほうきで掃いていたら、見慣れない黒塗りのベンツが止まった・・・、しかしそのベンツは窓に黒いフィルムが貼ってあり、そこから降りてきた人物は葬式でもないのに黒のスーツ姿、恰幅は良いが目つきは冷たい、一見してヤクザだと分かる人物だった。

そしてこのヤクザは住職に一軒の家を尋ねたが、その家は寺の近所で勿論住職も知っている家だった・・・、だが相手はヤクザだ、借金取りか恐喝か、いずれにしてもその家に迷惑がかからないとも限らない、教えて良いものか悪いものか・・・、住職は返事に窮していた。
その様子を見ていたヤクザは住職の思いを察したのか、ハッとした表情になり、次の瞬間地面に両手をついて土下座した。
「自分がこうしたものだから、たった1人残った姉にもこれまで随分不義理をしてきました。しかしどうも姉が危篤と知って、一目会いたいと思ってきました。どうか家を教えてください」そのヤクザは頭を下げたまま、そう言うのだった。

住職はしばらく考えたが、確かにその家ではこのヤクザの姉くらいの女性が危篤状態だと言う話は聞いていた、またこうして地面に頭をすりつけるようにして顔を上げないこの男には何某かの「真実」が感じられた。
住職はその家をヤクザに教えた。
それから程無くこの女性は亡くなり、数日してくだんのヤクザが玄関に立っていた・・・、そして「おかげで、最後に姉に会うことができました。ありがとうございました」と住職に挨拶していったのである。

近頃土下座も随分軽くなって、議員などはしょっちゅう土下座しておるが、その実選挙で当選すればみんな偉そうなものだ、それに比べれはあのヤクザの土下座は本物だった・・・・とは住職の談である。

ちなみにこの話はフィクションと言う事にしておこうか・・・(笑)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「土下座」

    漫才コンビ「ロケット団」の倉本は土下座上手いですよ、こちらは、投票のお願いではなく、何かにしくじって、土下座する、という設定ですが~~♪

    30年ぐらい前だったか、小笠原に行ったときに、結構求人が有って、常時建設系や飲食系、確か漁業にもあった気がすますが、離島振興の為に、特別交付金が有ると誰かが解説してくれました、今だったら応募して宿舎を宛てがわれて、ダラダラと遣っていたかも。当時は都市も景気が良かったし、それなりに就職も出来たようなので、予定通り本土に戻って、堅気を守りました~~♪
    今沖縄は、与党からたっぷりお金を貰って、希望は全く叶えないという、民主主義の良いとこどりをしていながら、正当性を主張するために、怪しい団体~個人が、何処からか支援されて、活動しているらしいですが、世も末かも、義理が廃ればこの世は闇だ~~♪

    田舎から、優秀な子弟をタダで都市部は取り上げて、会社員や公務員にして一生半奴隷で使うのだから、その見返りに、彼らが貢いだ税金の僅かばかりを交付金として与えて、互恵関係を強固にするのは悪くはないが、有り方としては歪なので、将来的には、人口の再配分をして、無理な社会基盤を一点集中的に作らないで、均衡の取れた人口・産業を配置して行くべきだろうと、そのためには、選挙で頻繁に地位を再確認される衆議院議員ばかりではなく、参議院と言うものが有るのだから、議員の資格変更をして、選挙に煩わされない、終身に近い議員を配して、但し椅子の何倍も同時に存在して、国家の長期の計画を議論策定すればよい、短期は衆議院の専権とすれば良いかも~~♪
    資源と頭と金は、もっと効率的に使った方が良い、形式を維持するために大部分を使うのは、もう過去のやり方だ~~♪

    因みに、インチ女の○○チャンは大好きの反対です~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今から思えば私が若い頃の選挙は楽しかったですね。まるで「祭り」の様相で、それに携わる者、有権者のどちらも楽しめるイベントだった事を思います。
      そして昔から政治家は「馬」と「鹿」でした。浪花節を演じている田舎浄瑠璃のようなものだった事を思いますが、これが現代ともなれば紙よりも薄いペランペランの奴が路上リベートをやって当選するのですから、政治の質は初めから考えるべくも無い話です。まだ浪花節の人情役者の方が見るべきものは有った。この国は既に終わっています。だから私たちは一人一人が自分の為に生きていく道を探る時期に来ています。
      今の日本人はこのヤフーなどもそうですが、昔の暇な年寄りの井戸端会議、或いは散髪屋の政治談議の様相かも知れません。今を生きている者は語れない。私はどちらかと言えば今を生きている人間が好きです。それも生きる為に必死で働いている者がやはりいとおしい。
      高度な知識を持って文節美しい高尚な話よりも、黙って生きている者がいとおしい。
      自分が目指してきたものとはそうしたものだった事をやっと思い出しました。
      利口になっていたり、或いは評価を得られると言う事は恐ろしい事でもあり、今年はこの辺に気をつけて昨年の凹みを挽回したいと思います。

      今年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。

  2. 「ヴァイオ・エシックス」・1

    人類への放射能・放射線及びその類似物による影響の実験をする為の、広島・長崎への原爆投下の大きな理由であろう。勿論、建物や自然、農作物への被害やその経過も綿密に研究されているだろう。
    日本の呑気なカルト的平和論者は、唱えていれば実現し、悲惨な原爆も使われる事には成らないし、使っては行けないのだから、世界のすべての原水爆は、廃棄すべきだと、何の具体的方策も出来ずにいるのに、飽きもせず活動している所を見ると、人類はそれほど知恵が無いものだとは知っているが、その証左の一つであろう。
    又、核爆弾はその内中性子爆弾に取って代わられるだろうが、今は破壊確証によって抑止されているだろうが、そんな力も無いのに、北のデ〇は、それを気取って、金髪の爺と、「交渉」している気分でいる様だ~~♪

    オランダ、スイスなど確か世界5ヶ国程度で、望めば安楽死を行う事が出来るが、今のところ日本人を受け入れてい呉れる国はなさそうだ、つまりは、本人が望んでも国家が認めていないので、日本から犯人の引き渡しを要求されるとても高い危険を冒す気は今のところ毛頭ないという事の様だ。

    多分、キリスト教の白人は、その中でも実際は色々な相が有るのだろうが、全ての考えは、自分達それ以外で考えているだけで、便宜上も実際上も今、その他を絶滅させる能力も無いし、その利益も少ないので、遣らないだけで有ろうと思って居た方が宜しい様に思える~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      バイオエシックスに関しましては、記事自体は7年前に書いたものですが、今読んでもそのまま通用するところを見れば、人類はこの7年間でもこうした問題の答えを見つけられていないんだな、と言う事を思います。
      テクノロジーはどんどん進んでいきますが、そのテクノロジーは制御できなければ禍になって行きます。
      丁度「火」は人が生きる為には無くてはならないものですが、一方「火事」ともなればあらゆるものを失ってしまうに似ているかも知れません。
      命を長らえて何をするのか、どう言った意義を持つのか、これらが考えられていなければ永遠に生きていたところで「無意味」です。
      人類は本当はテクノロジーに追い付いていなくて、テクノロジーとは、究極的にはいつかの未来に出てくる原理や自然の事とも言えますが、人類はやはり自然や宇宙の森羅万象の現実には追い付けていけない生物だと言えるかも知れません。
      この記事は続編が在り、ヴァイオエシックス2ではまた別の視点から「生と死」を考えたものが出てきます。
      そして思うのです、7年前にこうした資料を集めて、自分なりの考えを持った、持てていた事は幸いだったし、それを記録しておいた事は自分にとっても有意義な事だった。
      人の為ではなく、自分の為に書く、この事を忘れないようにしたいものです。

      よもぎの旦那は、今朝大声を上げて鳴きながら家に帰ってきました。
      そして私も迷いから脱しましたが、これは猫が帰ってきたからではなく、迷いが去ったところへ帰ってきたもので、やはり「まず自分が動いて」そこへ道が開けたのだろうと言う気がします。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「ヴァイオ・エシックス」・2

    ヤノマミは、ベネズエラ~ブラジルに住む最大3万人程度の狩猟採集民、他の同様式民族と同じような経過をたどっていて、ガリンペイロ(金鉱探しの荒くれもの)と接触して、アル中や政府依存度が高まったりして、民族の独自性が危うくなっている。又文明人との接触で、伝染病が蔓延したのも、彼らの存続を危機に陥れている。
    子供は女が一人で生んで、育てるか、精霊に返すか(殺す)は、任されている、先天的障害のみならず、環境収容力を越えると判断されれば、精霊に返される。後日女は思い出して夜泣く事があるが、誰も慰めたりはしない。

    数十年前までは、死産するような重篤なトリソミーは、問題が或る意味発生しないが、辛うじて誕生しても、幼児期に死亡がほぼ確定していた障害の重大な、例えば18トリソミーの子供は、その場の延命~緩和治療は多少は為されたようだが、松永正訓と言う小児外科医は深刻なトリソミーの子供を積極的に治療し、命は輝く、と言う事を信じて、出来る限りの手術治療を実施して居る様だ。売名的な臭いはあまりしないが、摂理について、どの様に考えているかは自分は読み取れなかった。

    少年の頃、大人の話が聞こえてきて、昔の産婆は、産屋で一人で妊婦の世話をして、しっかり世話をした。いい方は非常に遠回りで有ったが、重大な障害を以て生まれた子は、例えば、外で待っている人がその産声が聞こえなった、などと言って察したという事もあっただろうが、死産だった、と言う事にした事も有ったのかも知れない、後で考えれば、そんな話だったように思う。

    人が生きて行くことが、今は比較的恵まれた環境にあるだろうが、多分。時代~地域~経済状況その他によって、生命倫理~人間性とはどの宗教でも簡単には正解を出せないものであろう。出す努力や意思を失ってはいけないとは思えるが、永遠に出ないものかも知れない。

    一方、医学が進歩して、重大な障害を克服できるようになったとすれば、それは又両刃の剣で、実際は永遠に不可能と思っているが、極端な話、人間を合成できるようにもなって居ると言う事で有るかもしれない。
    iPS細胞は、ヒトの病気の治療に大きな可能性が有るだろうが、当然の帰結としてクローンも作れるだろうから、人がそれを、ヴァイオエシックスの観点から整合性のある何かを見出すほど、ヒトは高尚な生物とも思えない(笑い)~~♪
    極端な所、サルのお仲間で有った方が良かったのかも知れない~~♪

    よもぎの旦那に猫の♂として、揺らぎが無いのは、全く頼もしい、ご帰還おめでとうございます~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      自然の前に人間の力は非力なように、おそらく人間が完璧を求めるなら、その存在が揺らぐだろうと思います。
      ですからこの世界に完全な思想やシステムは存在できないと思いますが、そこで砂上に楼閣を築いてきたのが人間であり、これらは基本的にその時々、事情と言う現実の前に対応してきたものであり、不完全で流動的で有るが故に常に存在し続ける事が出来ているような気がします。
      時代と言う流れ、自然現象の変化、個人の事情に拠って正義や平和の概念は異なる。完全に一致する概念は1つも存在しない中で、それでも大まかな指標を持つ事に拠って個人の集積は最大公約数が出てくる。これの公約数は必ずしも一人々々の人間に取っては完全ではないにしても方向性を示してくれる。バイオエシックスにしても、概念はまだまだ不完全なものであり、ほんの入り口、表紙が出来ただけに過ぎないかも知れない。だからこれから皆で考えて行こうとするを本旨とするのだろうと思います。
      自分の目の前で繰り広げられない惨事、醜態に対して我々は余りにも無関心であり、他者の事を自身の事として考える事からバイオエシックスの概念は始まる。その道はきっと道など無く、誰も応えは導きだす事が出来ない。しかし、大まかな方向が出てくればその時々、事情に応じて臨機応変なそれぞれの形が出来上がってくる。
      この道筋は社会、政治、宗教などあらゆるシステムが同じだろうと思います。
      つまりバイオエシックスの考え方とは、こうしたシステムを漠然と包括して人間の在るべき姿、その目標を持つ事に他ならないのでは無いか、そう思います。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。