「そして誰もいなくなった」

アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス近郊の町アズサ・・・、この近くに総面積6万エーカーにも及ぶロサンゼルス国立公園があり、広大な原始林の公園にはウィルソン天文台、美しい人造湖、キャンプ場などがあり、人々のレクリェーションの場として親しまれていた。
緑の山々が連なり、とてもきれいなところだが、この公園には緑の海と呼ばれる原始林地帯があり、1956年8月、事件はここから始まった。

その日の朝、13歳の少年ドナルド・リーは隣の家の娘ブレンダ・ハウエル(当時11歳)を誘って、近くのガブリエル貯水池へと出かけたが、こんなことはしょっちゅうのことで、2人にとってはほんの朝の散歩がてら・・・と言う感じのことだったが・・・・
「8時までに戻ってくるのよ、今日は9時に教会へ行くことになっていますからね」
「オーケーママ、大丈夫自転車で行くからすぐ帰ってくるよ」母親の言葉に元気よく答えたドナルド・・・、そして2人は自転車に乗って山道を走って行った・・・が、これが2人をこの世で見ることができた最後の姿になってしまった。

2人はそれきり夜になっても帰って来なかったのである。
家族から知らせを受けたアズサ警察署の捜査隊は、急いで2人の捜索に向かったが、貯水池に近い森で2人の自転車とドナルドのジャケットを発見したものの、肝心の2人はどこにもいなかった。
「2人は貯水池に落ちて溺れたかも知れない・・・」
今度は警察の連絡でアメリカ海軍、フロッグマン部隊が駆け付け、貯水池の捜索にあたったが、貯水池は長さ2km、深さは20mもあり、捜索は困難を極めたが、フロッグマン部隊はその殆ど全域の水中をくまなく捜した。
しかし2人の遺体はおろか着衣の1部すらも発見できなかった。

また陸上ではアズサ警察署が総動員で、他にも森林保安員、山岳警備隊なども加わり、総勢数千人規模で、森の中をそれこそ隅々まで徹底的に捜索したが、結局何1つ発見することはできなかったのである。
この事件は当時ロサンゼルスの多くの人達の知るところだったことから、連日新聞が書き立てた為、かなり有名な事件となってしまい、ついには「人喰い森」のうわさまで出てきたが、この翌年さらに不可解な事件が起こってくるのである。

1957年4月25日。
「そんなに急ぐな、もっとゆっくり歩いたらどうだ」サン・ガブリエルに近い森を行くピクニックの二家族・・・、その先頭に立って走り回るトミーに父親が声をかけた。
「そうよ、お兄ちゃん、少し早すぎるわよ」妹もぶつぶつ言う、そしてその下の弟は既に疲れ切った様子だった。
総勢7名のこの一行はトミーの家族に、叔父のゴードン一家3人が加わっていたが、父親の声にも耳を貸さず、「おそいなー、もっと早く歩けないの」と、じれったそうに先頭のトミーは歩き始め、その先ほんの数メートルの小道を曲がり、生い茂る木の葉に隠れて一瞬姿が見えなくなった、そのときだった。

この距離ほんの数メートル、時間にして2秒ほどだが、トミー以外の家族も遅れてその道を曲がった・・・が、「あっ、お兄ちゃんがいない」弟のジョンが叫んだ。
その場所はさっきの緩い曲がり道を過ぎると、後はほぼ直線の道が続いていて見通しがきく場所だったが、トミーの姿はさっきまで彼がいた所に家族が追い付く、ほんの2秒ほどの間に忽然と消えてしまったのである。

家族はトミーの名前を呼んで、あたりを探しまわったが、トミーは煙のように消えてしまい、二度と再び戻って来なかった。
アズサ署はこの事件でまた大捜索活動を始め、400人の捜索隊、数百人の警官と森林保安員、ヘリコプターや犬まで動員して捜索するも、トミーの姿だけではなく、何の手がかりも得られず終ってしまうのである。

そして1960年7月13日、今度も「人喰い森」の名前に恥じない恐ろしい事件が発生する。
場所は初めの事件でドナルドとブレンダがいなくなったガブリエル貯水池の近く、YMCAキャンプ場だった。
「ブルース、気分でも悪いのか、顔色が良くないぞ」リーダーのマコーミックが心配そうに、その少年の顔を覗き込んだ。
ブルース・クレマン・・・、Tシャツにジーンズ姿、胸にはYMCA夏季クラブの花文字が付けられていたが、キャンプに参加したのは7歳になったこの年が初めてだった。

「僕、気持が悪い」
「ああ、そうだな、ここは海抜2000メートル地帯なんだ、そのせいで気持ちが悪いんだよ、戻って休みなさい」
リーダーのマコーミックはブルースをキャンプ場の入り口まで連れて行ったが、ブルースはどうも力ない足取りで、1歩、2歩・・・と歩いて行く・・・が、後ろから付き添っていたマコーミックは、このとき信じられない光景を見ることになる。

先を行くブルースの姿が少しづつ薄くなったかと思うと、やがて半透明になり、そしてマコーミックの眼前でスーッと消えてしまったのである。
マコーミックは夢かと思い、自分の目をこすったが、そこにブルースの姿はなく、この日を最後にブルースは忽然と消えてしまったのである。

後にアズサ署で事情を聞かれたマコーミックは、「まるでロウソクの炎が風で吹き消されるように、フッと消えて行ったんです」…と語っている。

これ以後ブルースの姿を見たものはいない。
また1963年にはこの上空で飛行機が事故を起こし、墜落したがこれも消失してしまっている。
何人も目撃者がいて、大体どの辺に墜落したかもわかっていたのだが、その墜落場所付近には、機体の破片1つ落ちてはいなかったのである。

ちなみにこのガブリエル貯水池付近の事件は、その後すべて迷宮入りになり、人々は「人喰い森」と呼んでこの付近には出入りしないようになったが、今でもガブリエル貯水池にはきれいな水がたたえられ、穏やかで美しい景色が広がっている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「そして誰もいなくなった」

    アインシュタインの(特殊)相対性理論が宇宙を説明していて、矛盾が無い、とか言って居るが、自分はよく理解も出来ないが(笑い)、全く信じていない。神が創ったとも全然思っていないけれど、全く別の、人類から見えれば、数次どころか、何十次も上の論理で構成されている、と言うか、永遠に誰によっても解き明かされることのない、神秘によって宇宙は構成されているのだろうと思う。
    ま、これは簡便に言えば、時空の切れ目、割れ目が、そこらに有って、遠くに行っちゃった、と言うしかない。

    本邦にも古来より神隠し、と言うものが有り、日本人は現象については知っていたが、深遠で理解できないという事を多分知っていて、解き明かそうともしなかったのだろうけれど、そういう現象は勿論地球上のみならず、宇宙のどこでも大小様々だろうけれど、人類的頻度で言えば、頻発しているのだろう、宇宙的は余りのも宏大で、いつもどこかで起きている、それは塵一個だったり、銀河一個だったりもするが、人類的に見れば、大きさに大変な開きが有るけれど、宇宙から見れば、差異は殆ど無いという程度の物であろうと思う。

    人類如きの、宇宙から見れば、原子一個分も無い様なものが気にする事じゃない(笑い)~~♪

    勿論、人類は、人類の基準で、人類は生まれ、いきて、悩んで、喜んで、そして死んでゆけば良い~~♪
    自分は全然興味ないけれど、86になって、南米の最高峰登頂を目指したかったら、目指せばよい~~♪

    先日、何気でラジオを聞いていたら、Never find another you. I love you forever and the day. と言うのが聞こえてきたが、翻訳しにくいが、これを信じて生きて行けるのは、可能か不可能かは知らないが、心惹かれるものが有った~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      Never find another you. I love you forever and the day. は確かに日本語に直すと難しいかも知れない。ひどく形而的宗教用語に陥るか、或いはもっともらしく聞こえるか、それで無ければ延長線上には「いいじゃないか、人間だもの・・・」が出てくるかも知れない。

      ちなみに私はこの「いいじゃないか、人間だもの・・・」が嫌いかも知れない。
      山頭火に通じる怠惰と不徳の肯定、これは実は微妙なところなのだけれども、「いいじゃないか・・・」と言った奴は自らの意思で塀から堕ちている。
      してみれば山頭火も「あいだみつお」も出発点は武者小路同様、左的諦観を始まりとした時代の風だったのかも知れない。
      だが、今はああした事を言っておられるほど優雅な時代ではなく、「いいじゃないか・・・」では死んでしまう。
      今の世の中はこの「いいじゃないか・・・」を通して来れた者を「いいじゃないかでは死んでしまうんだよ」と思っている者が支えている。

      夢は大切ですが、その失った事を時代のステータスとした時代が存在し、失ったことがステータスであれば、それもまた「夢」だったと言えるかも知れません。
      ただ、自分が目指している夢はアインシュタインやハイゼンベルグと同じものでありたい、そう信じたい次第です。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「アカデミズムと現実の衝突」

    調整:
    と言う事では、天皇だったり、藤原氏だったり(笑い)、それを少しは代理する聖職者だったりでしょうが・・
    維新後、特には戦後、民主主義になって、本邦の伝統的調整能力は失われ、西欧並みになって、多数決~~♪
    1月22日の報道では、国民民主党と自由党と参議院選までに合併(!~笑い)するらしいと言う事で、調整どころか、選挙に勝つためだけの作戦~効果は逆のような気もするが~~♪

    毛色は違うけれど、20世紀の大バ〇の1人のポルポトとこれまた20世紀を代表するおろかも〇のシアヌークが組んで、自国民の大虐殺、みんな目的を忘れて、手段に、それも使ってはいけない手段を実行することに邁進、彼の国は、今外国資本がちょっと入って、あぶく銭を稼ぐ特権の連中が出てきたようだが、近隣の国に伍して行けるようになるまで、最低、100年は掛かるでしょう。大悪人のフンセ〇が死んだら、これまた大混乱するでしょう。大失敗したら、深刻な反省をしなければ、表面を取り繕ってもダメ~~♪
    とはいうものの、本邦も、実は色々似ているが、かの国に比べたら、まだましだろうとは思っているけれど(笑い)~~♪

    あえの事:
    テレビで何回か様子を見ましたが、神事、で在る事を理解しない、西洋的な思考に支配された先生に、益々駄目にされているようで、同情・慙愧に堪えません。多分日本中で起きている事でしょう。

    こういう事は、日本のほとんどの事で発生しているようで、相撲は、勿論神事で、戦前までは、興行は有っても神事の精神は力強く脈打っていただろうに、スポーツになって、商売になって、外国人が入ってきて、見世物になって仕舞った、野球じゃないんだから。
    勿論そういう事で、大鵬が引退してからは、興味なし。今、人気第一の〇鵬なんて、大嫌い、全く見る気がしない。
    柔道は神事では無いけれど、様式美・肉体の鍛錬・精神の修行から、これも又スポーツになって競技会になって、講道館も我を忘れて、普及に努めて本機を忘れて点数になって、全然面白くない、勿論全く見ない。手遅れになってから多少は気づいただろうけれど、もう遅い。今少し可能性が有るのは、剣道ぐらいかな~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      悪意の無い善意の恐ろしさを思い知る気がしますが、こうして見るとやはり為るべくして為って行く、定めなのかなと言う気もしてきます。
      事の始まりは「愚かさ」と「傲慢」ですが、人間はこれから完全に逃れる事は出来ない。だから日々努力する必要が有りますが、この方向性は常に失われ易い。
      アカデミックとは最先端の現場からすればアマチュアであり、このアマチュアゆえに大衆の理解も得易い。
      言葉ではないものに多く包まれた現場や現実を、或る程度わかり易くするのはアカデミックが必要ですが、反面アカデミックは現実を壊していく。
      貞要は接触しない事なのかも知れません。
      その意味では接触しながら言葉ではないところまでも残した柳田國男や宮本常一は偉大だったとしか言いようが無い。
      現在の大学機関などが絶対出来ないところまでも入り込んでいる事が伺えます。
      またこうした観点からすれば、我々が持つ報道や専門誌の在り様も似たようなもので、現実は反映されていないとするべきで、人は自身に都合の良い事は知らせようとするが、自身に都合が悪い事は知られないようにしようとする。
      つまり我々は誰かが知ってほしいと思っている事しか、知らされていないと言う事で、
      テレビや新聞、ネットの情報はそのまま信じない方が良いだろうと言う気がします。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「そして誰もいなくなった」 第二弾

    山頭火は芸術家で或る意味仕方ない気もするが、自由律は、彼にとっては、稀代の才能の持ち主だから良いけれども、そうじゃない大部分の人は、定型でもどうしようもないから、倣わない方が身のためだ~~♪
     彼の遍路は58で最期を迎えた。

    武者小路も相田も自分から見れば、お金持ちのボンボンでもない、カ〇です~~♪
    今はそんな事も考えない連中が増えた気もしますが、彼らは、考えを弄んでいるだけで、それこそ最先端で現実を見ている人々への共感が薄い。
    あと数日で、収穫できる作物が洪水や台風で、全く取れないとか、最前線の兵士が、知らぬうちに予見不能だった地雷原に迷い込んで、敵兵から狙撃されている状況に思いが至らない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      自分の心を偽らない事と、開き直りは近くて遠いものがあり、貧しい者は貧しさを正当化してはならないし、豊かな者は豊かを正当化してはならない。
      常の現況に疑いを持つ事が大切であり、尚且つその現況に正直でなければいけないだろうと思います。
      しかしこれらがどちらかに傾きすぎると、やはり違和感は出る。
      己の怠惰が人に迷惑をかけないものなら、それは範囲に入るかも知れませんが、人に迷惑をかけながらの「いいじゃないか」は違うだろうと言う気がします。
      諦めの雰囲気と何かを悟ることの違いは、「今」しかないか、「未来」かの差と言えるかも知れません。
      そして現在の我々はきっと、「今」以下に在る。「いいじゃないか」と少し恥ずかしげな言葉が在るだけまだかわいらしい。
      現在の世界はそれすらも思わなくなった。これが当然になっている悲しさを思わねばならないような気がします。

      コメント、有り難うございました。

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