「遠い日の食卓」

ロンドンの東、緯度もロンドンよりは少しばかり上がるかもしれないが、コルチェスターと言う都市がある。
ここで知人の家の夕食会に招かれた私は、彼ら夫婦の4歳になる娘のプレゼントにと思い、可愛らしい人形を買って奇麗にラッピングしてもらい、家を訪ねた。
10月頃のこの地方の気候は日本からみるとかなり寒い、また心なしか日が落ちるのも早く感じるが、そんな中で窓からこぼれるオレンジ色の灯りは何かとても暖かく、そしてどこかでホッとさせてくれるものである。

ドアを叩くと、そこに現れたのは懐かしい友の顔だった・・・、「お招き頂き、ありがとう」・・・、「何を言ってるんだ、早く入れ」形式ばった挨拶に、肩を抱くようにして友人は私を室内に招き入れると、ブロンドが美しい彼の妻と娘を私に紹介し、私はプレゼントを彼等の娘に差し出したが、彼女は大喜びですぐに箱を開け、人形を取り出すと両手で抱きかかえ、何度も何度も高くかざして嬉しがった。

通常こうした時代、まだ日本ではヨーロッパの夕食と言うと、まるでフルコースのディナーでも出てくるように思っていたかも知れないが、一般家庭の食事などはバブリーな日本から比べれば質素なもので、パンにスープ、ポテトにハムか、薄く切ったステーキなどがあれば、それでかなり上等なものだった。

私たちは友人の妻が作った料理を前に一通りの挨拶を終えると、祈りを捧げ、さっそくスープをすくったが、暫くして彼の妻は私に話しかけた・・・、「何かお気に召さないことでもあるのですか」、どうも彼女は私が食事中全く喋らずに食べているのを見て、怒っているのかと思ったようだった。

これに対して私の友人は妻に笑いながら「彼はサムライだから・・・」と言い、「サムライは食事中に喋ってはいけないことになっているんだ」…と説明した。
適当な説明ではあるが、ある種言い得て遠い友人の説明に、まったく理解ができない彼の妻・・・、私は日本の話をした。

私のグランドマザーはサムライの時代の次の時代(明治)の女で、私は彼女に育てられた・・・・、そうそこでは食事中に喋っていると殴られるか、厳しく怒られる。
しかも食事を長い時間かけて食べているのは非常にだらしないとされ、できるだけ早く食べることが良いとされ、不味いとも美味いとも言ってはいけなかった。
そもそも食事を作るのは、その家では食事を作るプロである母親か祖母が作るのであり、こうしたプロの仕事に文句を言うのは言語道断だが、これよりもっと悪いのは自分が作りもしないのに、それに批評を加えることだった。

特に養われている身分の子供が美味いなど言うのは100年早かった、またさらに怒られるのは食事中に笑うことであり、汁物やおかず、ご飯などは残すことなど恐ろし過ぎてやったこともなかったが、多分やれば次の食事はさせて貰えなかったに違いない。
また、男子たるもの厨房に入るのはご法度でもあったが、そこはやはり女の聖域、子供であっても男がそんなところでウロウロしていると、「男がこんな所にいるものではない」と怒鳴られたものである・・。

友人の妻はこの話に目を丸くした・・・、多分とても大きなカルチャーショックを受けたのだろう、だがその反面少し面白かったのか、もっと日本のことを聞きたいと言うことになり、私は更に話を続けた・・・。

日本では笑うことは恥ずかしいことであり、人を馬鹿にしていると思われるので、男は特に歯を見せてはいけないことになっている。
また笑うと言うことは、自分に自信がなくて相手に媚を売らなければならない状態でもあるとされることから、海外で日本人が言葉がわからず、ただニヤニヤ笑っていれば何とかなると思うのは大きな間違いだ・・・、そんなものはただの馬鹿者だ。
そして日本では多くを語るものは信用がない、ぺらぺら喋っているとそれだけで警戒され、決して人の心をつかむことができず、不信感から理解しあうどころか、人が離れていく・・・。

友人はさらに大きな笑顔になり「クラシックな男だからな・・・」と呟くとともに、妻の方に顔を向けたが、彼の妻はまったく唖然とした様子だった。
「まるで軍隊みたい・・・」、また彼らの娘はこう言った、「グランマザーはクイーンなの」・・・、これは良い意見だった。
「日本では年を取ると、みんなからクイーンやキングのように尊敬されるんだよ」、私は椅子に深く座り直して、誇らしげに答えたが、ついでにこうしたことを子供に教えてくれるのは「女」の人であることも付け加えたものだった・・・。

あれから、かれこれ20年近く・・・、わが身を省みれば、日曜日にはしっかり女房子供のために昼食を作り、ついでにその際各人にオーダーまで聞いていたりする。
周りを見れば、みんな同じように取って付けたような軽薄な笑顔で囲まれ、ぺらぺら喋ることは自己主張と名前を変えてまかり通っている。
年寄りは後期高齢者と呼ばれ、保険証ですら差別を受ける社会・・・、私が祖母や母と言った女たちから「男はこうあるべき」とされた男はどこに行ったのだろう。

優しいと言う言葉は危い、それは裏を返せば自信がないことの表れであるかも知れない、私などもう少し稼ぎが多ければもっと家族から尊敬され、その結果オーダーを取って食事を作ることも無いだろうが、悲しいかな稼ぎが少ないから、こうしてご機嫌を取らなければならない現状を鑑みるに、実に男の責任を果たしていない結果として、この姿があるのである。

また自分に自信があれば、そんなに無理して笑顔を作らなくてもみなが必要とするだろうに、それ程の力がないから、こうして引きつった笑顔でも見せて愛想をしておかなければならない・・・、子供の頃、そんな者は男のクズだと言われた、そんな者にしっかりなってしまっているのである。

いかん・・・だんだん落ち込んできた、これ以上こんなことを考えるのはよそう、悲しくなる・・・。

 

※ 本文は2009年7月、他サイトに掲載した記事を再掲載させて頂いいたものです。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「遠い日の食卓」

    17世紀初頭と20世紀初頭の本邦は、多分単独国家としては世界で一番戦争の強い国の一つで有ったように思われる、今は昔。

    武士道は遠くに去り、人は相対的にしか、自己を発見できないし、能力を発揮できない事さえも忘れて、今、或る一点だけで、優位性を示すために汲々として、本義を失っている。
    伝統を失って、自分が誰か分からなくなっているのに、根本が全く違う白人キリスト教的価値観で物事を判断して、益々の混迷に陥って居る様だ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      もう既にこの話自体が遠い昔の事になってしまいましたが、日本もこの40年ほどで随分変わってしまった気がします。
      私が子供の頃に大切にされてきたものが、今ではやってはいけないとされているものもあり、その中で思う事は男が男を忘れ、女が女を忘れている部分ではなかろうかと思います。
      その覚悟が足りないようにしか見えないのですが、これが平等社会と言うものなのでしょうかね・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. 「1000円札」

    今、外食でも、直接飲食出来る製品にも、カロリーが計算されて、成分も詳細に記載されているが、それを計測。表示している事の多大な努力には敬服するが、それは実験室での計測であり、人間の体内でいかに作用して、どんな影響を及ぼしているかについては、殆ど考察されていない。
    いつかも言った気がするが、ナットウキナーゼを試験管内に有る血栓に作用させれば、確かに溶解させる機能は有るが、ナットウキナーゼは、分子量が大きく、体内に取り込んでも血栓の発生する、血管内には侵入出来ない、アホらしさ~~♪

    今も、ヒッチハイクと言うものが有るのかどうか不明だが、多分、会社だと、コンプライアンス、とか何とかで、出来ない様になってきているだろうとは推察する。
    苛めやその他も、規範は内なるものに基本を置くべきだろうけれど、武士道が廃ったように、内なる規範も育っていないだろうから、マニュアルと言うものが出来て、それに合致するかどうかが判断基準のすべてで有り、反対方向から見れば、コンプライアンス、という事に成り、違反が無ければ責任は無い~~♪

    お笑いの冗談のように言えば、憲法9条を守って武装しなければ、戦争は起きない、起きても責任は「自分」には無い(笑い)~~♪
    確か25条だと思うが「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と言う事で、通常の癌などの病気が発見されれば、それは憲法違反~~♪

    実は2千円札の贔屓だったのだが、この十数年見た事も無い、表の守礼門は特段の感興は無かったが、紫式部~光源氏~冷泉院の意匠はちょっと気に入っていたのに~~♪

    その内、福沢諭吉の1万円札、伊藤博文の千円札にも、「けしからん」とか「傲慢だ」とかK国は言い出しそうで、楽しみだ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      熱量形態の話を書きながら、何故か昔の事を思い出してしまいました。
      しかし考えてみれば、あの時代は若い母親が見知らぬ男に車に乗せて欲しいと頼める時代だったんだなと言う事をしみじみ感じます。
      今ならそんな事をすれば殺されるかも知れない時代になってしまったことを悲しく思います。
      してみれば治安は国と「信」の要なんだと言う事が解ります。
      日本はまた昔のように、女が男に平気でものを頼める時代を取り返す事が出来るでしょうか。
      先進国と言われながら、その実態は非合法地域と何ら変わりない意識で暮らさねばならない現実は、益々人々を硬直化させ、個人が社会との関係性を控えるようになって行くと、政治への無関心が始まり、やがて本当に無法地帯となって行く。
      唯一度、冷たい雨の日に家まで送った子供、彼か彼女はそんな話は知る由も無いでしょうが、そんな本人すらも知らない私は、どこかで生きているだろうあの時の子供が、健やかで良い人間になってくれている事を願っている訳です。
      逆を考えるなら、人は有り難いものかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

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