「漆が死ぬ」

どんな塗料にも使用以前の液体の状態で起こる劣化と、それが塗布され乾燥した後から始まる2種の劣化が存在するが、漆に措ける塗布以前の劣化は乾燥と非乾燥の相反する劣化が有り、漆は乾燥硬化しても使えないが、逆にいつまで経っても乾燥しなくても使えない事になる。

漆の乾燥は基本的に気温と湿度である事から、それを塗布する以前の漆、特に仕上げの上塗り漆の場合、湿度調節によって乾燥コントロールできるようになっているが、これが湿度の高い自然条件、梅雨時期などは人間がコントロールできる以上の湿度や温度が自然の気候によって加わる事になり、為に器物の塗布作業中にも乾燥は進み、仕上がってみれば表面と内部が乾燥誤差によって収縮する「縮み」を発生せしむる事になる。

そこで考えられるのは梅雨時期でも乾燥しない漆の添加であり、ここで液体の状態で非乾燥方向に劣化の始まった漆が必要になってくる訳だが、こうした非乾燥方向の漆を「ほせず」と言う。

漆の劣化は液体状態でも硬化後でも基本的には水分の消失によって起こる。

つまり経年劣化なのであり、水分が飛んでしまうごとに乾燥速度は遅くなり、調合後7年、10年クラスの上塗り漆は極めて乾燥速度が遅くなる。

梅雨時期の湿度70%以上、温度24度以上の条件では塗った漆が全て「縮み」を発生させるが、これを回避する方法が、非乾燥方向に劣化した「ほせず」の添加なのである。

またこうした経年劣化が水分の消失で有る事を鑑みるなら、では非乾燥漆に水分を入れて攪拌すれば乾燥するのではないかと言う考え方も出てくるが、これは「熱力学第二法則」の原理によって成立し得ない。

つまりガスを使ってヤカンで湯を沸かしたとき、その沸かした湯から使ってしまったガスを再抽出できない事に同じである。

そして漆の乾燥速度を遅らせるもう一つの方法は「塩分」の添加になる。

塩分添加は漆の乾燥能力を決定的に失わせるか、それに近い状態を引き起こすが、梅雨時期の気象条件は漆の乾燥能力が0・1%しかなくても、これを乾燥させる気象条件であり、為に著しく乾燥能力が削がれた漆でも「縮み」を起こさない適宜時間で乾燥する。

ただ、塩分添加では塩の結晶を漆の中に入れて攪拌しても結晶は中々溶解しない。

それゆえ漆に措ける塩分添加は「醤油」が一般的であり、漆の中に醤油を入れて攪拌すれば非乾燥方向の漆、「ほせず」と同じ乾燥速度の漆を調合することが出来るが、これはあくまでも「乾燥速度」の遅延効果だけの話である。

漆の中に醤油を入れて攪拌すると一挙に漆の中から細かい泡が発生し、それはあたかも苦しみもがく多くの人間のざわめきにも似た表情になり、やがてどこかでは何かが死んだように静かになってしまう。

漆が断末魔の叫びの後死んでしまったように見えるのであり、こうした漆で塗られた漆器の表面光沢はやはり何かが死んだような表面光沢になる。

ちょうど赤とんぼが死んでいても草に留まっていても、それが静止していれば見た目にはそう大きな違いはないが、何かが決定的に違うのと同じかも知れない・・・。

余談だが昔の漁師は舟が時化(しけ)に遭い、「もうだめだ」と判断した時、醤油を飲んで海に飛び込んだと言われているが、これは塩分によって血圧を上げ、海水で奪われる体熱保護の効果が有るためだと伝えられている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 願わくば、醤油を飲んで、海に飛び込む決断をする刹那が来ないことを望みます(笑い)
    そんな時、気力も体力もなければそれはそれで、情けないが、逡巡して時機を逸するのも又悲しい。

    人は肉体が多分、60歳ぐらいから、かなり急速に劣化して、各種病気を生み、10年前だったら、雑作もないことが呆れるほど出来なくなる。
    勿論、気の方も劣化が酷くなるが、それを感じる機構まで劣化するので、自覚は現実を反映していないことが多い気がします。
    そのために昔は、少し余裕が有れば隠居、という場を準備していた様に思うが、
    現代は、アンチエイジングとか、いつまでも若々しくとか、生涯現役とか、大部分の人には不可能な事を、あたかも努力すれば出来るが如く、錯覚させて、不幸を増幅している気がします。
    又、未だ余力のある内に、後進に道を譲れば良いものを、自分が若かった時、老人に抱いた感情を忘れて、老害を晒し「まだまだ若いもんには負けん」、この時点でもうお終い(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      願わくば春、桜の木の下で眠るように・・・、或いは女の腹の上で死ぬのが良いかも・・・。
      と、古来から男の夢は尽きないものですが、私はどちらかと言えば畳の上で皆に見送られて死ぬは嫌かも知れない。
      「この世で見るべき事はすべて見た、為すべきことも然り、もはやこれまで」と言って錨を抱いて海に沈んで行ったのは平家物語の平知盛でしたが、なんとなく平知盛のような死に方がしたい、と言うより恰好が良いからかも知れません。大きな野望が現実となるその瞬間に矢を射られて当たるのも悪くない・・・、そんな気がしています。
      そして人間引き際の難しさは何千年も前から相当に難しいこととされていて、この意味では適度な時期に体が衰える事は、晩節を汚さない有り難い天の采配なのかも知れません。
      今日は村の春祭りです。
      毎年一番忙しい時期に祭りか・・・、と思いますが、この理不尽さ加減がやはり「神」なのでしょうね(笑)
      有り難く、休まねばと思います。

      コメント、有難うございました。

  2. 多忙時期の祭りは、如何でしたか?
    お金持ちとそうでもない人を平均化する、智恵の一つかも知れません(笑い)

    旅に病んで夢は枯れ野の駆けめぐる(芭蕉)
    まあ、野垂れ死んで、若い頃でも、いつでも良いのだけれど、楽しかった事がちょっと心に浮かんだ瞬間に、サーッと意識が混濁して逝っちゃうのは、割と良いかも知れません(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有難うございます。

      天気も良くて暖かく、良い祭りでした。
      唯、高齢化はやはり決定的で、一番若い者が私くらいの年代、御膳について食事をする人はもう少人数になってしまいました。
      限界集落から消滅集落へ向かっている事は確実で、もう数年もすればすでに出して飾るだけになっている神輿も出せなくなるような気がします。
      また祭りは確かに無礼講ですが、席順や家の格式と言うものは今も残っていて、若いころ私が一番嫌っていたものがこれでしたが、今に至ってはその格式と言う緩い差別の下だったその事が懐かしく、私はそれを大切にしていたりします。
      しかし、観光客が一切来ない、いや知らない祭りと言うものは、昔ながらの匂いがして、やはり良いものだなと思います。

      コメント、有難うございました。

現在コメントは受け付けていません。