「妖精の偽造」

 

小学生、おそらく5年生くらいだっただろうか、私は学校の図書館で面白いものを見つけたが、それは魔女の本だった。
魔女は殆どが挿絵で、たまに不鮮明な大昔の写真が載っていて、大体が頭巾をかぶった怪しげな女性がなにやら手に持っている写真だったが、この手の怪しさに興味を覚える癖はすでに子供のころから備わっていたようで、それからと言うもの暫く、私は毎日授業が終わると図書室へ入り浸り、おかしなもので、それまではまったく話したこともなかった、どちらかと言えば大嫌いだった図書委員の1年上の先輩と仲良くなった。

そして彼女もおそらくこうした話が好きだったのだろう、それから自分が持っている本まで図書室に持ってきて私に見せてくれたが、その中で衝撃を憶えたのが妖精の写真だった。
「コティングリーの妖精」と言うその本にはイギリス・ブラッドフォード近くのコティングリー村に住む2人の従姉妹、フランシス・グリフィスとエルシー・ライトが1916年から1920年までに撮影したとされる、5枚の写真が掲載されていた。

このとき1916年の段階でフランシス9歳、エルシーが15歳だが、フランシスが踊るような仕草をしている脇で、体長15センチ前後、背中にトンボのような4枚の透明な羽が生えた、きれいな女の人が草の上に座っていたのである。
この衝撃は半端ではなかった。
正直、夜も眠れず、あんなものがどうして存在するのか、自分なりに考えてみたが、どれだけ考えても結果など出ようはずもなく、それからと言うもの、私は毎日魔女や妖精について調べ始めたが、どうも本の後書きにもあったように、捏造写真ではないか・・・と言うことで決着したのだった。

やがて高校生になったころ、叔父さんから使い古したキャノンAE-1を貰った私は、初め景色や家族などを写していたが、同じ高校に小学生のときの図書委員の先輩がいることを知り、彼女の友達3人と私のSF仲間である友人の5人で、美術クラブを結成し、本格的に写真や絵画を勉強することになった。
そして写真好きの顧問、この男性教諭は物理の先生だったが、合計6人で最初に取り組んだのが「偽造写真」だった。

この成り行きは勿論、小学生のときに妖精の写真を絶対に本物だと信じて疑わなかった先輩と、これは偽造では・・・と疑った私の対決から始まったのだが、ファッション雑誌から女性の写真を切り抜き、この背中に死んで落ちていたオニヤンマの羽を貼り付け、それを草むらの上に置き、これを撮影するのだが、どうしても切り抜きらしさが残ってうまく行かなかった。

だが、かろうじて逆光と半逆光での撮影、曇り空で露出不足気味の撮影で、どうにかこれが妖精らしく見えることが分かったが、それにしても被写体の切抜きのクォリティーがやはりうまく行かなかった。
そしてここで問題になったになったのが、当時15歳と9歳の少女が、ああしたクォリティーの切抜きができたのか・・・、と言う疑問と、やはりエルシーの写真の妖精には圧倒的な存在感があることだった。
彼女たちが最後に撮影した妖精は、半透明だったが、これも多重露出を使えば簡単にうまく行くが、フランシスに話しかけるように飛んでいる妖精の動き、その表情はどうしても同じものが写せなかった。

またこうした機会だからと、当時流行っていた未確認飛行物体、UFOの写真も偽造を試みたが、こちらは比較的簡単にうまく行った。
ガラス窓の内側にプラモデルのUFO を貼り付け、PLフィルターをつけて写す、円盤を何回か投げてもらってそれを写す、夜空を背景に線香花火を動かし、シャッターを開けたままにしておくと、見事に星の軌跡に逆らう謎の光が撮影できた。
ついでに、先輩にモデルになってもらって多重露出撮影で「心霊写真」まで偽造してみたが、この場合、写した写真、それをもう一回写真に写せば、怪しい角度になってよりリアリティーが出ることが分かった。

そして大人になった私が金を貯めて最初に買ったのが、ニコンFAと言うカメラで、もちろん新品ではなく中古だったが、このカメラは当時ニコンの技術の粋を駆使したカメラで、レンズがオートフォーカスとマニュアルに分かれていて、互換性がなかったニコンでは唯1機種、マニュアルもオートのレンズも使えるカメラだったが、相変わらず諦めが悪く、このときもまだ、たまに妖精の写真に挑戦していた私は、1980年代後半だと思うが、新聞の記事でコティングリーの妖精写真が偽造だったことを知った。

晩年まで写真の偽造に関して、これを否定していたエルシーとフランシス、しかし死を目前に偽造を告白した・・・とのことだった。
しかし彼女たちは妖精を見たことは事実だとしていたし、フランシスは最後の写真、半透明の妖精が写った写真だが、あれは本物だといい続けていた。

私は確かに高校生まではこの妖精の写真を偽造だと疑っていた。
だが、おかしなものだ、写した当人たちが偽造を告白してしまっていても、今は逆にあれは本当に妖精の写真だったのではないか・・・、と思っている。
それはどうしてか・・・、今自分が持っているカメラや他の機材、写真歴30年の未熟ながらもその技術、それをしても当時15歳と9歳の少女たちが撮影した、あの妖精たちを偽造できないからである。

もちろん今のデジタル技術であればこうしたことも可能かもしれないが、1916年では無理だ、しかも使われたカメラは、おそらく私が1980年代に手に入れたカメラより、はるかにとり回しが難しいカメラだったに違いない・・・、にもかかわらず、どうしてあのように見事な妖精の写真が撮影できたのだろうか・・・。

もしかしたら本当に妖精はいるのではないか・・・・、私は年々その疑いを深くしている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「妖精の偽造」

    ウン十年前に少年雑誌にネッシーについて、何回か特集が有り、当時は、偽造だ、と言う感じの記事は無かったように記憶している。ヒマヤラの雪男、ビッグフット、南米の○○人、鹿児島のイッシー、沢山居た。
    ヨーロッパでは、小さな湖に、氷が張った時に、妖精が数人出て来てスケートを楽しむ、等と言う話なども紹介されて、我が郷里にも有る、沼が結氷すると、場合によっては渡って、近道をしたが、妖精がスケートをする、と言う事などを思い出す事も有った。未だにUFO愛好家が、その写真や、宇宙人を捕まえた話など、そんな話は尽きない、夢が無いと生きられないらしい~~♪

    結局、ネッシーも、偽造者が、告白(?)して、或る程度は、こんな話も少なくなくなった。

    最近は、意図的誤報~捏造話~牽強付会が、或る地方地域に頻出しているようだ、その名は国会議事堂・国際的権力争いの場~~♪

    動機は洒落じゃなく、本当にそのように見えているらしい、ところが怖い~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      1970年代は多感な少年の頃でしたが、実に楽しい時代でしたね。こうした怪しいものがたくさん出てきて、本当の事を言えば今の私の基本はこうしたところから始まっているのかも知れません。
      そして今の時代は窮屈です。こうしたものを笑って楽しむ余裕が無い。それは偽者、これは本物で偽者は許せない。騙されたという理論の発展しかない。
      騙し方も綺麗で見事なら、「あ~やられちゃったよ・・・」でもこの騙し方は見事だ。と言うような展開もまたあっても良いと思いますが、風船を針でつつくように他者を崩壊させてしまう事ばかり考える社会は面白くない。
      「どこかでとんでもない大ばか者がいて、日本は沈むと言っておいてくれたら、こんな事にはならなかった」(日本沈没より)
      金目当ての者、僻み根性の者、こうした者たちは大ばか者にはなれない。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「聖徳太子の和」

    大抵結論は単純だが、それへの道のりは険しく、全身全霊を捧げても、思う半分も出来ずに斃れる事が多いけれども、その積み重ねで、或る程度の成果を齎しているので、知らざる人々の、生活はそれなりに保たれている事が多い様に思うが、察する能力のない者を責める気はしないが、能力が十分に付与されているように思えるのに、勉強不足かバカで(笑い)、経験も無いのに「私がやれば、すぐできる」みたいなコメンテーターが、本当に信じている風で、眩暈がする~~♪

    「簡単な」プロジェクトでも、習慣~気候~社会基盤など、全く違う所を机上の観念だけで洞察することなく、或る程度、形を以て終了し、大きな欠陥が無く無事終了したのは、幸運と全身全霊の投入が有った事は、想像されず、低評価。何か大ドジこいて、二倍の時間を掛けた方が高評価~~♪
    評価者が遣れば、ノイローゼ(笑い)

    昔、某国の参謀本部や軍令部には、大雑把な地図に定規を宛てて、進軍の速度を計算するというバカも多かっただろうけれど、そう言う夢想家が、ネット仮想でこれまた大増殖~~♪

    孔丘は、不惑、知命、耳順、従心とか言われているが、これは希望であろうが、努力もした・・
    今は、40で迷い益々多く、50で目標を失い、60でストーカーになって(笑い)、70で道を踏み外して、って珍しくない。
    世の中は便利、っぽくなったが、ヒトの進化は困難で発展してきた風だが、便利になればそれが、高進するかと思えば、豈計らず、バカになる方に大きく舵を切った、だから不便を託っているわけでは無くビンボ○でだが(笑い)~~♪

    佐藤初女によれば、『今、ここ:天国は、遥か彼方に有るものではなく、私にとっては、苦しみが有っても、“今、ここ”が天国です』だが、他人から、有りもしない天国を与えられるべく、真正不作為犯(不登校‐笑い)~不真正不作為犯(働かない‐笑い)が、当人は無自覚の様だが、大増殖中~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      平和と言う概念は戦争の無い時期をのみ指し示す言葉だった事は洋の東西を問わぬ概念でしたが、「平和」とはこの様に左右とも戦争をしない状態を言い、だから「和」の上に「平」が付いているのかも知れません。
      日本人は同じ席で酒を呑み、そして親しく歓談していながら「和」ではない状態が多い。
      勿論始皇帝以前の張魏が活躍した頃の秦国では斬り合いにならなければ、殴り合いにならなければ「和」とした部分も在ったのですが、これと比較しても日本のそれは中途半端です。
      ならぬ堪忍をするのが「和」であり、酒を酌み交わせば少しは理解も深まり、以後は愚痴を言わぬのが「和」であり、笑っていても後に愚痴を言うなら「和」とはならない。
      そして元々戦争や対立の無いところには「和」は必要とされない。それは「過」であり、無駄であるかも知れない。
      「和」を多く語る者は「和」を知らない。
      それが必要な人には最も遠い所に在るのが「和」と言う事になるのかも知れません。
      また「和」は状態であり、決して思想ではない事を忘れてはならないだろうとも思います。

      コメント、有り難うございました。

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