「君は誰だ」・1

その男は初めうつむくように下を向いて、何か考えるような素振りをしていた・・・が、なぜかこのように沢山人がいる場所でそこだけ微妙にスポットが当たっているように見え、エイブラハム・リンカーン第16代アメリカ合衆国大統領は歩みを止め、その男の様子を伺った。
おかしい・・・、着ているものから背格好・・・何から何まで自分そっくりだ・・・、しかし顔が見えない・・・、1865年4月10日のことだったが、警護のその後ろに方に立つ見慣れない・・・、いやある意味一番見慣れているのかもしれないその男は、しばらくすると廊下を左に曲がり、消えていった。

それから4日後の朝、仮眠を取っていた部屋から外に出たリンカーンは、ふといつも自分が執務に使っている部屋に目をやると、誰かが中から出てくるのが見えた。
変だな、自分はここにいるのに、自分の部屋から出てくるとは一体誰だ・・・、と思ってそのまま静観していると、中から出てきたのは何と、紛れも無い自分自身だったのである。

そしてその自分自身は一瞬こちらを見ると無表情なまま、さして慌てた様子もなく踵を返すと、落ち着いた感じで廊下を歩いていく・・・、「おい、君は誰だ・・・」リンカーンは右手を差し出してその自分自身を制止させようとした・・・が、その自分はそこからやはり慌てることもなく歩き続け、やがて壁のところまで辿り着くと、壁の中へ吸い込まれるように消えていったのだった。

「誰か私を暗殺しようとしている者はいないか・・・」リンカーンはいつも周囲の者にこう尋ねていたが、南北戦争が終わる頃から、彼の周囲には連日脅迫の手紙が届き、暗殺予告の噂などは日常茶飯事となっていた。

1865年4月14日、その日は北部軍を勝利に導いたグラント将軍が帰還した日だったが、奴隷解放や経済的仕組みの違いから戦争にまで及んでしまったアメリカ南部と北部は、リンカーンたちが率いる北部軍が勝利を収め、1865年4月3日に南部が首都としたリッチモンドが陥落、同年4月12日には降伏の調印が取り交わされた・・・・、これでアメリカはまた1つの国として再スタートを始めた直後のことだった。

この日はリンカーンにとって不思議な日だったに違いない、この数日間ずっと気になっていた男の姿が、なんと「自分自身」だったことが分かったうえに、帰還してきたグラント将軍とは久しぶりに夫婦同伴での観劇の予定だったが、当初グローバー劇場で上演される劇が、その日の昼過ぎ、突然フォード劇場へと変更された連絡が入り、ついでに夕方グラント将軍と話をしていると、今度はグラント将軍にメモが届く。

「何か重大なことでも起こりましたか・・」、と尋ねるリンカーン・・・、しかしメモをポケットにしまった将軍は「いや、何も・・・、ただ先に子どもに会いに行かねばならなくなりました」と答え、汽車は6時に出発するので、今夜の観劇は難しくなりました・・・と慌てて帰り仕度を始めたのだった。
「それは翌日と言うわけには行かないのですか」、リンカーンは将軍の慰労と言う意味もあって考えた観劇の予定だったことから、グラントを引き止めたが、これに対してグラントは、「大統領、申し訳ありません」とだけ答えて部屋を出て行った。

だがここでリンカーンがグラントを引きとめたのはもう1つ訳があって、それは夕方6時の汽車だが、この汽車は各駅停車で夜の間に2回も乗りかえがあり、結局のところ4月15日朝の急行に乗っても、到着時間が変わらない・・・か、僅かに急行の方が早く着くのだ。

リンカーンはグラント将軍が帰ってしまったので、仕方なく今度はヘンリー・ラズボーン少佐と彼の婚約者クララを護衛変わりに、夫婦で観劇に出かけることにしたが、この時期になるとリンカーンと彼の妻との関係は最悪のものだったことから、たまには妻へのサービス・・・と言うことも考えたかも知れず、そしてこの4人に、劇場へ入る少し前に顔を出した従者のチャールズ・フォーブスを加えた、5人がフォード劇場へと到着した。

フォード劇場のオーナーは合衆国大統領のお越しとあって、たいそう喜んだのだろう、自らが入り口に立ってドアを開け、みなをホストしていったが、この日リンカーン一行は2階のバルコニー貴賓室の7号と8号へ案内され、そこで観劇を始めていた。
だが、やはりここでもなぜかおかしなことが起こっている・・・、日頃から暗殺の脅迫が絶えない大統領の警護についていたのはジョン・パーカーと言う35歳の警備員1人だけで、しかも彼はアルコール依存症でもあり、これまでも職場放棄は日常茶飯事の男で、この日も劇場の警備をしていたのは観劇が始まる2、3分前までで、劇が始まる頃にはもう近くのバーへ行って酒を飲んでいたのである。

そしてここにもう1人、この劇場を訪れる男がいるのだが、彼は仕事で出かけていたホワイトハウスの関係者から、1枚のメモを大統領に渡して欲しいと頼まれる。
「ナショナル・リバブリカン」編集長、ハンスコム氏・・・、彼は急いで欲しいと言うホワイトハウス関係者の言葉に従い大急ぎでフォード劇場に向かったが、2階まで上がったときに大統領はどの席かを、やはり観劇に来ていたクロフォード中尉と、マクゴワン大尉に尋ね、貴賓室7号室の前までたどり着いた。

しかしそこには警護をしていなければならないはずのジョン・パーカーの姿はすでになく、なぜか7号室の前には従者のチャールズ・フォーブスが立っていたのだが、ハンスコム氏はチャールズにこのメモを渡し、そのまま帰宅した。

そしてこの直後、アメリカ合衆国最大の悲劇、リンカーン大統領の暗殺事件が起こるのである。

「君は誰だ」・2に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。