「君は誰だ」・2

劇が第3幕終盤に差し掛かった頃だといわれているが・・・、ジョン・ウィルクス・ブースはまったく警戒されることなく、2階貴賓室までたどり着くと、いきなりドアを開け、リンカーンの後ろ2メートルぐらいまで迫り、何の気配も感じることなく観劇していたリンカーンの後頭部に向けて銃を発射した。
実際はブースの手の長さがあるから2メートルと言っても、発射された銃とリンカーンの距離は1メートル位しかなかったかも知れない、とにかく大きな銃の発射音とともに、リンカーンの右頬の辺りが小さく挫傷し、そのままリンカーンは座席に倒れこんだ。

銃声で後ろを振り返ったラズボーン少佐が見たものは、紫と白の硝煙の中に立つ1人の男だった・・・、が、そこはやはり軍人である、少佐は振り向きざまに犯人と思しき男めがけて殴りかかるが、その男は今度はナイフを取り出すと、それで少佐を切りつけ、少佐の腕からは血が滴り落ちる・・・、しかしそれでも犯人にしがみつく少佐を、犯人のブースは蹴飛ばすと「南部の・・・・」と言って、2階の貴賓室から1階の舞台へと飛び降りた。
このときブースが叫んだ言葉には諸説あるが、実際間違いなく聞こえたのはこの「南部が・・・」と言う言葉だけである。

これを見ていた観客は初めこの場面も劇かと思っていたが、2階からラズボーン少佐の「その男を捕まえろ!」の叫びが聞こえると騒然となった。
ブースは飛び降りたときに足を怪我したのだろうか、左足を引きずるようにして舞台を横切り、追いかける観客を振り切って舞台横のドアから外へ出て行ったが、そこには馬が用意してあったようで、ブースはその馬に乗ると逃走してしまった。

リンカーンはすぐにも寝かされ、そこへ医師も駆けつけたが、すでに虫の息で、呼吸こそは続いていたが、医師も何の手だても講じることはできなかった・・・、やがて皆が見守る中、1865年4月15日午前7時20分・・・、この稀代の政治家はその生涯を終えた。享年56歳である。

そしてここでまたおかしな話なのだが、リンカーンが実際に撃たれた時間が、こんなにも目撃者がいながら、4月14日の午後10時10分とも、11時17分とも言われていて、その実はっきりしていない。
また逃走したブースだが、この当時はまだ戦争が終わって間もない頃だったことから、不足の事態に備えて、南部と北部の境界は夜9時以降は閉鎖されていたのだが、ブースはネィビーヤードの境界で言葉巧みに言い逃れ、北部地域から南部地域へとすでに逃走していたのである。

ブースについては熱狂的な南部支持者で、当時26歳、職業は今ひとつはっきりしていないが、父親が有名な俳優だったことから、「売れない俳優」と言うのが表向きの職業だったとされているが、この後リンカーン暗殺事件を捜査指揮するスタントン陸軍司令官のミス・・・、と言えるのかあるいは共謀だったのかもしれないが、いずれにせよ彼のおかげで、12日間も逃走することができたうえ、もしかしたらその後も生存していたかも知れない・・・と言う謎の運命を辿っていく。

この暗殺事件を捜査指揮したスタントン陸軍司令官には、限りなく深い疑惑をアメリカ国民が持つことになるが、ブースが逃走した直後、彼は捜査隊を北部地域に重点的配備したが、少なくともリンカーンを殺し「南部の・・・」と言っている犯人の捜索で、北部地域の捜索は意味があったのだろうか、また実際にすでにこの頃にはブースはもう南部に逃げ込んでいた。

観劇に来ていて多数の証言があるにもかかわらず、スタントンがブースを犯人と特定したのは4月15日未明のことであり、それから犯人ブースの写真を手配するが、これも実際はブース本人の写真ではなく、別の男性の写真だったことから、結局ブースを捕まえるのに、なんと12日間もかかってしまう。

そしてこの事件はさらにおかしな方向へと向かっていくが、この頃戦争で敗れた南部住民の中では、「南部同盟」と言う北部に激しく敵対する組織が暗躍していたが、1866年に結成されたKKK(クー、クラックス・クラン)と言う白人至上主義者のテロ組織は、この南部同盟の一部過激分子を前身にしているのではないか・・・と言う疑いがあり、KKKのメンバーが南部中心に広がっていったことを考えると、リンカーン暗殺が一つの契機になっていったかも知れないと言う背景を持っている。

いずれにせよリンカーン暗殺の背後には、間違いなく組織があることが捜査の結果分かってきたが、その中でこの「南部同盟」の関与は間違いないこともわかってきた。
暗殺事件を捜査する部隊は、やがてこうした南部同盟のジェットと言う男に辿り着き、これを追い詰め、ジェットからついにブースの隠れ家となっている、ギャレッツ牧場の場所を聞き出すことに成功した。

コンガー中佐とベイカー中尉以下30名の捜査部隊はギャレッツ牧場の納屋を包囲し、中から2人の犯人に出てくるよう勧告するとともに、出てこない場合には建物に火を付けることを告げたが、これに観念したのか、犯人をかくまっていたギャレッツ牧場の息子が中の犯人を説得に行くと言い出し、中からハロルドと言う男を連れてきたが、もう1人は依然出てこない・・・、そして納屋の後ろに回っていたコンガー中佐は、建物の後ろに積まれていた干草に火を付けた。

あたりは炎で明るく照らされ、当然納屋の中にいるブースと見られる男も照らし出された・・・が、そのとき一発の銃声が聞こえたかと思うと、中にいたブースらしき男が倒れ、これに慌てたのはベイカー中尉である、なぜなら彼は捜査本部から「必ず生かして捕らえる」ように言われていたからで、急いで納屋へ入ってみると、その男は至近距離から首を撃たれ、すでに死亡していた。
そこへコンガー中佐も入ってきたが、彼が真っ先に口にしたのは「自殺か?」であった。

おかしなことを言うものだ、自分が一番近くにいて一部始終を見ていたはずなのに、また当然射殺したのはコンガー中佐だとばかり思っていたベイカー中尉は、思わず「あなたが撃ったのではないですか」と尋ねたが、「いや、私は撃っていないぞ」と答え、「それじゃ自殺だな」・・・、このコンガー少佐の軽い言葉でこんなにも異様な事態が片付けられてしまったのである。

「君は誰だ」・3に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。