「舞いは見事でした」後編

猿楽については、その祖を奈良時代に中国から伝わった「散楽」の系譜とするとされているが、こうした意味から見れば前編でも出てきたが、猿女氏が宮廷の舞楽をつかさどったものの流れがここに見て取れる。
鎌倉時代末期の動乱の中、猿楽も田楽同様広く人々に親しまれ、大和では興福寺、春日大社に奉仕するいわゆる「大和猿楽」の4つの「座」、つまり後に金春、宝生、観世、金剛と言う、能や狂言へと発展する各流派の始祖になる「座」や「近江猿楽3座」などが活躍し、その隆盛を極めたが、猿楽は基本的には物まね所作から始まっているもので、こうした名称から猿の物まねと思うかも知れないが、その物まねの範囲はかなり広いものだった。

そして日本でいろんな芸道が成立したのは、鎌倉時代の次の室町時代のことになるが、こうした時代の素地が鎌倉幕府崩壊と言う乱世に作られていったことは、少なからず驚嘆すべきことだろう。
またこのように盛んになった「芸道」には同じような芸に興味を持つ人々が集まり、いろいろな寄り合いが持たれていったが、この寄り合いは武士、一般武士、僧侶、庶民、時には公家まで加わる集団的な「場」となり、共同の楽しみを支え合うようにもなっていった。

禅宗の寺ではすでにあった喫茶の風習が、「茶湯」として一般化して行ったのもこの頃だが、「茶寄合」と呼ばれる茶会が流行し、ここでは集まった人々が飲んだ茶の銘柄を当てて、賭けが行われていたし、香をたいてこれを楽しむ「香寄合」も流行していた。
これらの寄り合いには「立花」が飾られ、すでにこの時期には立花を生業とする者も現れていたが、これらが室町時代には茶道、香道、花(華)道として成立していく基盤になったことは言うまでもない。

そして17世紀には歌舞伎が起こってくるが、これは出雲阿国(いずも・おくに)が創設したもので、この阿国歌舞伎は女性を中心とした「女歌舞伎」であったため、男性見物者でかなりの活況を呈するようになるが、1629年(寛永6年)江戸幕府は風俗を乱すものとしてこれを禁止した。
そしてこうした背景からついで美貌の少年が女装して演目を舞う「若衆歌舞伎」が起こってきたが、こちらは男女ともどもその風俗が乱れるとして、またもや幕府によって禁止された。

その後歌舞伎は成年男子が演ずる「野郎歌舞伎」になり、これを契機に踊り中心の演舞から、能、狂言のせりふや所作、人形浄瑠璃の戯曲、演出方法、その他諸芸能の要素を取り入れ、筋立ても写実的なものになり本格的な総合芸能へと発展したが、芝居小屋も常設になり、この時期の名優には上方では「和事」を得意とした「坂田藤十郎」や女形の「芳沢あやめ」が活躍、江戸でも初代「市川団十郎」が「荒事」で名声をはくしていた。

また同じ江戸時代には浄瑠璃も大きく発展してきたが、浄瑠璃の初期は「節」であることから、独特の語りだけで室町時代末期に盲法師が「浄瑠璃姫物語」と言う十二段草子を語ったのが、その始まりとされているが、江戸時代には浄瑠璃節と三味線の伴奏、それに「操り人形」(あやつりにんぎょう)の所作の三者が一体となって演じられる「人形浄瑠璃」が成立し、民衆に歓迎された。

元禄には上方に「竹本義太夫」が現れ古浄瑠璃を大成し、義太夫節と言う独特の曲調を創始、義太夫は1684年(貞享1年)、大阪道頓堀に「竹本座」を創立、専属の作者「近松門左衛門」の作品を上演して大変好評を博し、その弟子の「豊竹若太夫」も1703年(元禄16年)に「豊竹座」を起こし、作者として「紀海音」(きのかいおん)を置き、竹本座ともども人形浄瑠璃の最盛期を築いた。

ちなみに劇場と「花道」に関して・・・、元禄時代の大衆演劇の特徴として、もっとも大きかったのが、「常設の芝居小屋」であり、従来のように演劇のときだけ桟敷を設ける形式は、あくまでも主催者側に開催日時の選択権があったのに対して、常設小屋では観客にも観覧日時の選択権が発生したことであり、当時芝居小屋が作られた場所は、例えば京都加茂川の河原などに立ち並んでいたのであって、決して良い場所に立っていたわけではないが、そこに庶民は楽しみを見つけ、新しい歓楽の場としていったのである。

また花道は現在の劇場に見るような狭いものではなく、はるかに広く観客の前に張り出していて、花道も舞台の一部になっていた。
役者はそこへしばしば出てきて観客との問答に応じたり、時には商品の宣伝などもしたが、要するに花道は演じる役者と観客とを直接につなぐものであり、演劇の進行につれて劇場が一つの空気に解け合っていたのである。

振り返って現代・・・、歌舞伎、能、狂言、浄瑠璃もそうだが、今では伝統芸能であり、その頂点は「人間国宝」であるが、こうして見ると時代を追うごとに役者と観客の距離が遠のいて行っているように思え、それはまた言い方を変えれば、どこかでこうした芸能がいつかまた古代にあったような、特殊な時の為の、特殊な芸能に帰ろうとしてるように思えないこともない。

家の前の戸を開けて、そこから見える範囲のすべての田は、今は私が作っている。
そしてこの田の稲刈りが終わったら、いつか田んぼの真ん中に舞台を作って薪(たきぎ)能を舞わせ、たった1人で酒を呑みたい・・・が私の1つの夢だが、そのためにかかる費用は最低でも600万円・・・、少しずつ金を貯めて・・・と思うが、子どもが大きくなるにつれて益々金は貯まらなくなって、今では夢が遠のくばかりだ。
こうしたことまで政府のせいだ、とは言わないが、舞いが終わって一言「舞は見事でした・・・」そう言いたいために600万円はどうだろうか・・・・、安いか高いか・・・、
私は例え1000万円かかっても安いと思っている・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

8件のコメント

  1. 「舞いは見事でした」そう言いたいために1000万も高くないとは!
    男の浪漫でしょうか(笑)。女にはなかなか…。でもそういったものに賭られる男性を羨ましく思ったりもします。いつか実現されますように‼︎

    1. Christina様、有り難うございます。

      この記事も今から10年前ほどに書かれたものですが、我ながらこの時期は自分にもまだ大きな気概が有ったんだなと懐かしく思います。
      今となっては、1000万円も惜しくない、そんな男に、人間になりたいと言う感じかも知れません。
      人間が丸くなったのか、限界が見えてきたのか・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

  2. 「舞は見事でした」後編

    比較的近所の大國魂神社には行事が多く、各種催しものがあるが、時に神楽が演じられる。たまたま行ったときにやっていれば、演目がいくつかあるようだが、見ると虜になる。そこで紹介された神楽集団は血縁が主で、確か1000年位、連綿とその芸能を伝えてきているらしかった。それとは違うが、近所の天神社でも時に応じて芸能が有り、一回だけだが、天のうずめの命の踊りを見たことが有って、演者は男性で(多分)太っていたが、踊りは凄かった、古事記の天の岩戸の前と違って、伏せた桶の上で、踊りまくって、段々興が乗って、着物の帯も緩んで胸も裾もはだけがちで、怪しい雰囲気を醸しやんやの喝采というわけでは無かったけれど、大変面白かった。
    日向かどっかの24時間だか連続して上演される神楽演目の中で、天のうずめの命の衣装や面とは趣が違っていて、やや田舎臭かった(笑い)が、年中行事の予定はわかるが、屋台以外の(笑い)予定は分かりづらいので、次に見られるのはいつの日か。

    近所の公園の芝地に舞台と観覧席を作って毎年8月下旬に薪能が上演される。噂では、切符を入手するのは、それなりに大変だそうだ。
    値段は、需給で決まるのも有るし、価値を認めてそれで決定という物も有るだろう、本人が良ければ、それで良し。今の風潮の様に、少しでも安くとか損をしたくない、とかの彼岸にあるものだろう~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      神道の云われは殆どが語呂合わせとも言われていますが、そうした意味では縁起をかつぐことに意味があるのかも知れません。
      ただ、こうした中でバサラな生き方をした者達の事を思うと、今の世のスケールの小ささを思いますし、楽しみ方を知らない感じがします。
      田んぼの真ん中で舞台を組み、舞を踊らせ、それを1人で楽しむ。
      どこかに社会を意識したり、自分をどう見せるかを意識しなければ、やはり高い物は一人で楽しむのが一番風情が在るような気がします。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「自宅で出来る超硬派伝統金継ぎ」・7

    土木系の試験で土壌三軸圧縮試験機というものが有り、自分は試験の手順やその結果の工事その他に対する評価準備については、不知だが、その試験機を作っている技術者から聞いた話では、手順書に従ってやれば、それほど経験と実際について知らないものでも、それなりの試験結果は数値として出るが、大間違いが発生しても、それなりの結果は出るのであり、重大な錯誤が生じるので、注意が必要とのことであった、且つ、その技術者曰く、熟練の建築と試験の双方に通じた者は、そこの或る範囲の試料を見て、手で掴んで見れば、どんな処理・工事が出来るか分かるけれど、それじゃ公官庁に数値を出せないから、ダメだけけれど最も確実らしい(笑い)~~♪

    ついでにもう一つ、各種元素定量分析計でppm~ppb単位で各種分析して、日本の公害はある意味克服されたのであるらしいが、しっかりした試料を注入すれば、正確に分析できるようだが、それに使うための試料は一万倍の濃縮とか、当然だが、前処理がしっかりしていなければならない、実はこちらの方が難しいらしい。
    数年前に、築地~豊洲移転問題で、ヒ素・水銀など、有害物質が色々出て、話が紛糾したが、最終的には尻すぼみだったけれど、強酸党(笑い)やら、他の人たちの分析結果が大幅に違うとか、そんなことより、単なる地下水が、飲用の水道水の基準を満たしていないとか、明後日な議論に終始して面白かった~~♪
    そのK知事が、食のテーマパークを断念した訳じゃない、とか、今度は別の意味で、議論がかみ合わなくて、当事者の脳味噌を、正確に、せめてJISに則って(笑い)試料検査してから議論した方が良い~~♪
    会議に部外者が数%混じることは、良いことだと思うが、90%が、無知のものが議論することが多いのに、何とかなって、一応ご飯が食べられるという日本は素晴らしい(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      金継ぎ講座ももう8・9で終わりますが、
      しっかりやればこれだけを覚えていても、試行錯誤の上に最後は出来るようになるだろうと思います。
      その割れた陶器を本当に修理する必要が有るのか否か、割れたものをそうして良いのか否かは個人の判断ですが、こうして出来上がったものを玄関に飾ってみる、或いは使ってみる事もまた何かを知る事にはなるでしょう。
      私としてはいつも漆ばかりですから、他の事の方が興味は有りますが、こうして書いていると、再確認させられるものも有り、自分で勉強になった部分も多かったような気がします。

      コメント、有り難うございました。

  4. 「自宅で出来る超硬派伝統金継ぎ」・8

    脳が、経験や進化の不可思議の結果として獲得した各種錯視、その意味は、脳が少し壊れた脳学者が色々断定しているが(笑い)、意識などは、化石には残らないのだから、今ある結果はある程度、推測できるだろうが、進化の理由は永久に分からないだろうという、謙虚さが有ってしかるべきだろうと思わる。まるでサイコパスの様に断定して、違っても、なんとも思っていない風である。

    シェパードの錯視と言う、比較的流布している、同じものなのに並べて単に縦置きと横置きだけの違いなのに、左右の比率が全く違って見えるのは、何故か、という問いには、理屈はいくらでも付けられるだろうけれど、本当のことは分からない気がする。

    ある塗装が剥がれたり、修理に因って失われたりしたら、例えば車のペンキなど、塗り直し、という事が行われるが、塗った瞬間と時間経過で、ほぼ乾いた状態では見え方が違うし、収縮その他で、見た感じが違うけれど、これも計測器でというより、人間の経験と脳の認識に関わることで、一筋縄ではいかない。人の経験と勘が、実はものを言っている。もちろんその自働車に塗られていた物と同じく作られたものを使っても、経年劣化が有り、環境によって様々だから、どこでも同じ手法が通じるわけでは無いが、数値化できないことは多いのであり、数値化できないものは信用ならないと信じて居る者を信じられない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      一般的には漆器の仕事は塗るのが大きいように見えますが、実は研ぐ工程が半分でありこの研ぎと塗りは相互補完の関係に在り、基本的には同じものと言うことが出来ます。
      そしてこの何十倍と言う時間と手間が「乾燥」と言う工程にかかるわけです。
      今般、こうした講義をする事で、その事が少しは理解頂けると、漆器職人としては有り難いのですが、これは農業も同じ事で、田植えや稲刈りの何百倍もの時間を毎日下仕事して、その上で収穫があるわけです。
      多分多くの仕事は同じ事なのでしょうね。

      コメント、有り難うございました。

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