「クレオパトラ7世」後編

プトレマイオス13世の死後、クレオパトラは一番下の弟、プトレマイオス14世と結婚、共同統治者とするが、この間、紀元前47年にクレオパトラは子どもを生むが、その名がカエサリオンだったことから、後世この子はカエサルの子どもだったように言われているが、実はカエサルの子どもだった根拠はなく、もしかしたらダナエウス・ポンペイウスとの間にもうけられた子どもかもしれない。

また共同統治とは言え、殆どカエサルが背後にあるクレオパトラの政治は、プトレマイオス14世を使った傀儡政治であり、紀元前46年、カエサルのローマ凱旋に伴いローマを訪ねたクレオパトラは、紀元前44年、カエサルが暗殺されるまでローマに滞在した形跡があり、この間の代替統治者としてプトレマイオス14世を選んだのではないかと言う憶測も発生してくるが、その根拠はカエサルが死んですぐにエジプトに帰国したクレオパトラと入れ違いに、プトレマイオス14世が原因不明で死亡したいるからで、こうした背景からプトレマイオス14世はクレオパトラによって、毒殺された可能性が否定できないのである。

さてこうしてここまででも波乱に満ちた人生だが、このときでもクレオパトラは25歳なのである。
クレオパトラはかねがね、息子のカエサリオンを後継者にしてもらいたい旨をカエサルに申し出ていたが、しかしいくらなんでもエジプトの愛人の子どもであることから、さすがにカエサルもそこまではできなかったと見えて、死期が近いことを薄々感じていたカエサルは、後継者を縁戚から向かえ養子とし、それを後継とするよう遺書を認めていた。

カエサル亡き後、クレオパトラはエジプトに帰るが、絶妙なタイミングでプトレマイオス14世が死亡、幼いカエサリオンを共同統治者にしたクレオパトラは、その後紀元前42年、カエサルの死後また権力闘争になったローマでは共和派のブルートゥスを支持するが、これを共和派の対立勢力である三頭政治派のマルクス・アントニウスが破り、敵対勢力に加担したクレオパトラは、アントニウスから出頭を命じられる。
クレオパトラはまたしても薄絹をまとい、その上からエンジ色の布をかけ、そして高価な香を焚いて体のにおいを消し、アントニウスに謁見、また自身も宴を開いてアントニウスを招き、その席でも体が透けて見える衣装に身を包み、そして豊かな話をしたと言われている。

カエサル同様異国の刺激的な装束、そしてその知性にすっかり虜になったアントニウスは、すぐにクレオパトラを愛人にし、以後まったくローマを顧みなくなっていった。
またこうした背景からローマではオクタヴィアヌスの勢力が台頭してくるようになり、このオクタヴィアヌスの姉がアントニウスの妻だったのだが、アントニウスはオクタヴィアヌスの姉とも離婚してしまう。
そして紀元前39年、クレオパトラはアントニウスとの間にアレクサンドロス・ヘリオス、クレオパトラ・セレネの双子の男女をもうけ、紀元前36年にはプトレマイオス・フィラデルフォスを産んだが、この間一番最初の夫であるプトレマイオス13世とともに自身に反抗した、妹のアルシノエ4世をアントニウスに頼んで殺害させている。

2度に渡ってエジプトの雌猫に指導者をたぶらかされたローマの怒りは大きかった。やがてギリシャ、アクティウムでクレオパトラ・アントニウス同盟とオクタヴィアヌスは海戦となったが、この海戦のさなかクレオパトラはなぜか戦線を離脱、それを追ってアントニウスも戦線を離れたため、オクタヴィアヌスは何の苦もなく勝利を収め、こうしてアントニウス対オクタヴィアヌスの戦いが、いつしかエジプト対ローマの戦いになってしまった「アクティウムの海戦」はローマ勝利で幕を閉じた。

そして海戦で敗北したクレオパトラは自殺した・・・と言う噂を信じてしまったアントニウスは、クレオパトラの後を追おうとして喉を短剣でついて自刃・・・、それをクレオパトラが救い出したものの、アントニウスは彼女の腕の中で息絶えた。
クレオパトラは最後の朝、プトレマイオス廟の前で、侍女に用意させたイチジクを入れた籠に潜ませた、「アブス」と言う毒蛇に自分の左乳房を噛ませ、眠るようにこの世を去っていったのである。

クレオパトラ7世フィロバトール、彼女の短くも激しい、生きることの闘いはこうして39年でその終わりを迎えた。
後世、次々と指導者をたぶらかされたローマ市民の怒りは大きく、今でもローマではクレオパトラの評判は良くない。
またローマに残るクレオパトラ像やドイツでもそうだが、残っているクレオパトラ像はどれも、こう言う言い方してはどうかとも思うが不美人である。

歴史上の美人が本当の美人だったかどうかの議論は諸説あると思うが、どうもその後のローマを考えるとき、造形的クレオパトラは意図的に不美人に作られていった経緯があるように思えてならない。
だから今日、クレオパトラはそれほどの美人ではなかった・・・とする言い方もそれが真実だとは言えないことをここでは記しておこうか。

しかし凄い女性である。
弟2人と結婚して両方とも殺害し、妹も殺し、その上に愛人は3人、そのうち2人は帝国ローマの指導者である。
だが私たちは彼女の何を分かるだろうか、結婚相手は兄弟、しかもその兄弟と結婚するのは自分だけではなく妹や姉であるかも知れない、そしていつ敵になるかも分からないのである。
こうした状態が幼い頃から当たり前となっている女性が持つ「性」は、おそらく肉体的関係と精神が切り離されたものだったに違いない。

すなわちここで考えられるクレオパトラの「性」は相手が男性であれば、また権力者であれば、そこに肉体的関係が持つ意味など全くなく、呼吸をするように当たり前のことだったのではないか、そしてこうした当時のエジプト王朝の背景があって、今日われわれが持つモラルが存在しない状態だったのではないかと思える。
だが初めて兄弟以外の男と肌を合わせたクレオパトラは、そこで始めて肉体の繋がりが持つ意味と「言葉にできない気持ち」を、例えそれが理解できなくても感覚的に感じたのではないだろうか。
だから最後アントニウスの時には、自らも命を絶ってしまったのではないかと思うのである。

つまりクレオパトラは、王家の血で血を洗う歴史の中で、女であることを躊躇なく武器として最大限使わねば生きてゆけない、またそれが当然の社会の中から、最後に本当の女としてのよろこび、そうだ「愛」を勝ち取ったのではないか、そしてだからこそ最後に「死」の選択があったのではないか・・・、と私は思う、いやそう信じたい・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 男性にとってファムファタールというやつですね⁈
    クレオパトラ、光り輝くように美しく、豊かな知識やユーモアを持ち合わせていたのでしょうね !翻弄される男性は大変…面倒なことになる、わかってはいるけれどどうしても抗えない、本当に大変だ(笑)。
    非情にも見えるクレオパトラですが、人生の最期に「愛」を知り、微笑みながら命を終えたのではないかと私も信じたいです。

    1. Christina様、有り難うございます。

      クレオパトラ、彼女は一国の女王として、国家存亡を賭けて必死だったのでしょうね。
      そしてそれは自身が生きて行く事と同義だった。
      むかしの王族は日本もそうでしたが、王になれるか殺されるかのどちらかしかない。だから生きる為に闘えば王になり、そして王になっても生きたければ他国と何とかやって行かねばならない。
      何と壮絶な一生だったかと思いますが、最後そうした全てから解放された。
      闘いはまた愛だった、かも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「クレオパトラ7世」後編

    美貌と各種才能も豊かで政治的行動力・知力も十分に与えられていた稀代の女傑で、人類の歴史で初めて現れて、それ以来現れていないかもしれない。
    もしかしたら、エカチェリーナI、II~マリア・テリジアは、資格が有るかも知れない気がするが、ちょっと閃いただけ~~♪

    今は、まさにサイコパス的勝ち組らしき人が、ありきたりの才能と大きな勘違いで、社会を闊歩している。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今とむかしは基本的に同列には語れず、そもそもが同じ土俵ではないので何とも言えませんが、時代を追うごとに覚悟のない者が増えてくる事は確かで、その背景は民主政治と言う事かも知れません。
      権威と責任の分散は、事をいい加減するかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「そんなに女が恐いか」・1

    雲水が永平寺に入山して修行を願う時、罵詈雑言を浴びせかけられて、3日も4日も、或る意味、試験をされて、一端許可になれば、継続すればできる世界を見て、体験を得られて学問もなって、修行はそれなりに成就する。
    今は様相が変異して、偏差値35の大学に三顧の礼を以てして入学する若者も多く、いずれ卒業~退学して社会の厳しい実相に対面するのであるが、いまだ夢は冷めず、1/10000の可能性を吹き込まれて、さらなる混迷に迷い入るのであるが、現代の平等主義と民主主義は、それに手を差し伸べない自由を謳歌している風にも見える~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      自分が事を為すに全く逆風のない事はありえない。
      そしてこうして見るとどこかでは今より明治の女の方が拠り深く男の概念の中に入り込んでいる事を思います。
      不自由そうに見えて実は自由、自由そうに見えて実は不自由、これがむかしと今の差と言えるかも知れません。
      そして今は閉塞の時代、隠の時代です。
      あらゆるものの基準が止り、虚実の入り乱れが大きくなっていますから、「信」は失われ、事を為す前から絶望が広がる事になります。

      コメント、有り難うございます。

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