「月夜の怪」前編

富山県押川に住む中川武雄さん(仮名)の長女、芳江さん(19歳、仮名)が東京へ行きたいと言い出したのは、ちょうど1年半前のことだったが、初めはなれない都会暮らしを心配した中川さん夫妻、一度は反対しては見たものの芳江さんの意志は固く、仕方なく親戚を頼りに、港区金杉の食堂で住み込み女店員として働く口を世話して貰い、芳江さんはそこで働き始めたが、最初の1年はお盆と正月に実家へたくさんの土産を持って帰省していたが、次の年からどうした訳か実家へ帰省してこなくなった。

それで少し心配になった芳江さんの母親タカさん(仮名)は、富山の「昆布かまぼこ」の詰め合わせを食堂の主人宛に贈り、それとなく娘の様子を教えてもらおうと思ったのだが、なぜか港区の食堂からは何の返事もなかった。
「いったい芳江はどうなっているのか・・・」と武雄さんとタカさんは首をかしげていたが、やがてそこへ食堂の主人から手紙が届く、そして「芳江さんは富山の実家へ帰ると言う理由で先月、暇をくれと言って店を辞めた」とその手紙には書かれてあった。

単刀直入に言うとこれで芳江さんは消息不明になってしまった訳だ・・・、武雄さんとタカさんの心配は想像に難くないが、しかしこうした田舎のことである、捜索願いでも出して、妙な噂でも立つと芳江さんの結婚も難しくなることから、2人はどうしようか・・・と思案に暮れる毎日を送っていた。
ところがそこへ今度は芳江さんから手紙が届き、「食堂の仕事は辛いので別の仕事にした。今度の仕事は楽で、しかも給料もいいので心配しないで下さい」と書かれていて、住所は川崎市木月町となっていたが、どんなところへ勤めているのか、その内容についてはまったく何も書かれていなかった。

しかしまあ取り合えず連絡もあって、仕事もしているようだから・・・と思った中川さん夫婦は一応安堵したものの、一抹の不安は拭い去れずにいたが、それから2ヶ月もしないうちに、今度また別の仕事に変わったという葉書が芳江さんから届き、その住所は横浜の黄金町と言うところになっていた。
さすがにここまで来ると、娘とは言えどうしても不審に思わざるを得ない・・・、都会生活の実態がつかめない母親のタカさんは特に適齢期の娘を心配し、一度実家へ帰るよう手紙を書いたが、その手紙と入れ違いにまた芳江さんから手紙が届いた。

「凄く良い話があって、ちょっと外国へ行くかも知れません・・・」そこにはそう書かれていたが、これに驚いた武雄さんとタカさんは、どちらにしても一度家に帰ってきて自分たちと相談して欲しい・・・と手紙をしたため、横浜の住所に送った。

それから一週間ほどした頃だろうか、中川家では何となく不思議なことが起こってきていた。
月の出が早い晩のこと、夕食の支度をしようとしていたタカさんは、農耕用に飼っている馬が異常な鳴き声を出して騒いでいる物音を聞き、急いで馬小屋へ走ったが、馬が何に驚いたのか前足を上げて棒立ちになり、そのあと後ろ足でしきりに馬小屋の羽目板を蹴って鳴き続けていた。
「何かきたんじゃないか・・・、どうしたんだ」、武雄さんも駆けつけ、芳江さんの弟の正人さん(16歳、仮名)も駆けつけたが、付近には犬一匹いなかった。

武雄さんはひどく興奮している馬を、「ドウドウ」と声をかけて気を静めさせようとした、しかしいつもなら素直なこの馬がこのときばかりは盛んに暴れ、それはなかなか収まらなかった。
結局犬か何かが来て馬が驚き、みんなが来たら犬が慌てて逃げたのだろう・・・騒ぎが収まってから武雄さんはそう言ったが、この馬は仔馬から育てたもので6歳馬だが、そう言えば芳江さんがひどく可愛がっていた馬でもあり、そのときタカさんは何となく娘の芳江さんに何もなければいいが・・・と思ったと言う。

その後食事の用意も終わり、家族みなで食事をしていたときのことだった。
近所の村田乙松さん(仮名)が珍しくこんな時間に訪ねてきた、そして開口一番この村田さんが言うことには、中川さんの養殖池で養殖している鯉が、どう言う訳か凄い勢いで跳ね上がって暴れているというのである。
「おかしなことがあるものだな・・・」
中川さんは急いで養殖池に駆けつけた・・・、が、そこでは月明かりに照らされて鯉が水面を激しく泳ぎまわり、盛んに跳ね上がっていた。
「誰か毒でも入れたんだろうか・・・」、呆然と池を眺める中川さん、しかし不思議なことにその後30分ほどしたら、あんなに暴れていた池の鯉が、まるで何もなかったかのように静かになったのである。

それから4日後、母親のタカさんはどうしても娘のことが心配になり、富山から上京、手紙に書かれていた横浜の住所を訪ねてみたが、そこはいかがわしいサービスの店・・・、つまり売春宿であった。
「この間まで芳江は家にいたけど、どこへ行ったか知らないわ・・・、それに男もついていたからね・・・」、年齢には不釣合いな、荒い花模様のミニスカート姿の女将は、タバコに火を付けると、チラッと横目でタカさんを見て、そっけなく答えた・・・。

ところで1965年8月、N商船会社の貨物船S号(7000t)が横浜港を出航し、予定より少し遅れてアメリカ・サンフランシスコ港に到着したのは9月7日のことだったが、そこで積荷をし、食料や水も補給、次は一路ロスアンゼルスに向かって航行していた。

この船の乗組員、木村正二君(当時19歳、仮名)は船乗りになってまだ1年にもならない見習い船員だったが、彼は夜中に便所に行きたくなって目が醒めた・・・が、ここは船首部分の大部屋だから、他の乗組員を起こさないように気をつけないとな・・・、木村君は足音を忍ばせて大部屋のドアを開け、デッキへと向かおうとした。
だがその途中おかしなこともあるものだ・・・、この船は貨物船で女は乗っていないはずなのに、なぜか数人の女がぺチャクチャ喋っている声が聞こえてきた。
(後編へ続く)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「月夜の怪」前編

    ん~ん、次回が楽しみですね~~♪

    今、ピエール○という売れっ子の歌手・俳優が、麻薬取締法違反で、逮捕拘留中で、報道によると、20代から使っていたらしい、違法行為なので、それなりの罰は受けるのだろうが、道交法の猫の子一匹いない田舎の集落内の制限時速30Kmのところを、45Kmで走った位の事にしか思えないが・・世間は喧しい~~♪

    自分としては、彼が20年以上も止める機会が有ったにも関わらず、止めなかったことについて、人が「転落」する様を見るようで、やや切ないかも~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      昭和30年代の話で、怖くて陰惨な事件なのですが、どこかで情緒と言うものが感じられるところが不思議です。
      皆が生きる事に必死で、これから伸びて行こうとする日本らしい力強さ、或いは一種の粗雑とでも言いましょうか、そんな部分がどこかで懐かしい気持ちにもさせられます。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「女性の肺がんについて」・2

    癌治療では当面無理そうと思われていた免疫療法で本庶先生がノーベル賞を受賞という事で、或る画期と思われる。まだ費用の面のみならず、多様な問題は有るだろうが、人類の生存に一歩を示した物と思われる~~♪

    確か乳がんの発生率は、女性の看護師など、夜間に活動時間が長くなる人が、高いらしい、人間の進化のある1局面の現象かとも思われるが、医療に携わる方に関わるので、今より一層の、研究がなされて、発生率が、一般人と同等になるまでの勤務体制に早急にした方が宜しかろうと思われる。

    人は生きる「権利」を有すると信じるが、それと同時に、いろんな意味で苦しまなくとも良い権利が派生して、その究極の一つは、死ぬ権利で有ろう、とすれば、先進国では今、オランダなど5か国のみが、可能であり、日本人はその国へ行っても、門前払い(笑い)、日本政府から、殺人の訴追を受ける可能性が有るかららしいが、こういう時に「人権派」は弁護士もそういう運動家も恐れて手を出さない「偽善派」に早変わり、つまりは全体としては18番、問題先送り、年金とか少子化とか同じで、対処する臨界点は疾うに超えた~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      一概に長生きだから良いと言う問題でもないのですが、生物である以上生きたいと願う事は悪い事ではない。
      ただどうでしょうか、私としてはやはり臓器移植までしては望まないかも知れません。
      一昔前では癌は経済的に苦しい状況に追い込まれる病でしたが、現在は保険などの整備も出来て、ある程度の治療は受けられる。
      しかし依然として特効薬はなく、それらしきものはとても高額であるなら、やはり金がなければ生きられないと言う部分は避けられない気がします。
      生物の基本は「力」、この力の質が今は経済力と言う事なのだろうと思います。
      それにしても自身が年を取ると言う事が今までは実感できませんでしたが、実際にこうした年齢に達してしまうと複雑な心境が有ります。
      まだ為していない事や、思っていたことで出来なかった事ばかり、これで死んでしまっては余りにも情けない気がする昨今です。

      コメント、有り難うございました。

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