「赤い茗荷」

そんなに驚く程のことではないが、少し変わったものを見た・・・、と言う連絡が留守番電話に入っていたので、今夜はその話をしておこうか・・・。
連絡してくれたのは能登地方に住む74歳の男性だが、たまたま昼間は稲刈りで留守にしているため、折り返しこちらから電話で事情を聞いたのだが、どうも「赤いミョウガ」が発生してるようだ・・・。

ミョウガと言うのは6月頃と、9月後半の今のような時期に2度生えてくるが、通常だとあのコロコロした可愛いスタイルが一般的だが、生えてきたミョウガを採らずにそのままにしておくと、ミョウガの先から鉄砲百合状の白い花のようなものが出てくる。
そしてこの白い鉄砲百合状の花を、多くの地方では「ミョウガの花」と呼ぶが、この花の色は白が普通だ。
しかし20年に1度、一部地域の伝承では50年に1度、ミョウガに血のような真っ赤な色の花がつくとされている。

今回連絡してくれた男性が見たものと言うのはこの伝説の「赤いミョウガ」であり、自分が耕作している畑で昨日の朝、3個の赤い花を付けたミョウガを発見したというもので、遠目には地面に血の塊が落ちているように見えると言うことだが、例年ならこの季節になるとミョウガが生えてくるので、採取しようと出かけたところ、今年はまったくミョウガが生えておらず、たった3個生えていたミョウガが真っ赤で、これはおかしいと思ったらしい。

だがこれは以前取材したので記憶しているが、能登地方では平成16年の秋、そして同じ能登地方でも南部では、平成18年に「赤いミョウガ」が大量発生した事実がある。
当時現地取材をおこしているから間違いないが、あたり一面血に染まったようになって生えているミョウガは、限りなく不気味で禍々しいものだった。

そしてこうした現象の理由を現地の古老に尋ねたのだが、古老曰く、ミョウガは50年に一度ほど赤い花をつける・・・、そしてその花が咲くのは大抵秋のミョウガであり、これが咲いたら翌年には大きな地震が起こるか、何か大きな災いが起こる・・・と言うことだった。

しかしもしそうだとすれば、少しおかしいではないか・・・、50年に1度しか起こらないようなものが、なぜ数年の間に2度も3度も起こってきているのだろう。
気候のせいかもしれないと思ったが、平成16年はとても暑い年だったが、今年は割りと冷夏だった・・・、このことから気温が原因ではないことが分かるが、では地震との因果関係と言ってもどうだろう、そこまで因果関係があるようにも思えない。

後考えられるのは磁場と紫外線、空気成分の変化だろうか、例えば今年の太陽は黒点活動が大変弱かったことが知られている、また紫外線量もこの20年の間には劇的な変化をしているが、CO2などの増加もこうしたことに影響しているのだろうか。

「何かまた悪いことでも起きるのですかね・・・」男性は電話の向こうで心なしか元気がないような声でそう言ったが、それに対して「大丈夫ですよ」と言いながら、私もまた何か得体の知れない、嫌な感じがしたのも事実だった・・・。

 

※ この記録は2009年のものだが、後日他の府県でも赤い茗荷(みょうが)の発見事例が報告され、その中で赤い茗荷の中には赤い線状の虫がいる場合があるとの談話を聞くことが出来た。

それゆえ可能性として一番高いのは虫や菌に拠る感染で茗荷は赤くなっているのではないかと言う事で、この赤い線状の虫は茗荷だけに感染するものなのか、また全く離れた地域で数十年に一度発生すると言う形態をどう説明したら良いのかは解っていない。

 

今のところ解っている事は、赤い線状の虫が寄生する事に拠って発生すると言う事だけで、ちなみにこうした赤い茗荷の虫を除去して食べた事例も報告されているが、それに拠る二次感染や二次宿寄生、体調の不良はなっかたと言う事で、味も変わらなかった事が報告されている。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「赤い茗荷」

    現今、豚コレラが時々発生し、今のところ、猖獗を極めるという事もなく鎮圧されているが、ここに来てアフリカ豚コレラが侵入する危険が高まっているとの事。

    どちらも感染豚を食べてもヒトには伝染しないし、危険も無いという事だが、すべて殺処分、事後地中埋設処分、これに動員された特別職国家公務員には、同情している。毒殺したのか電気かどうかは知らないが・・緘口令が敷かれているのだろうけれど・・

    なんの影響もないのなら、トンカツにして食いたいが(笑い)、鳥インフルエンザなら焼き鳥。ま、色々議論が発生しないように無難な選択という事であろう。

    論理的には良いのだろうけれど、豚肉消費量の中ではごく少量だろうし、焼却処分が妥当ではないかと思う。
    今の知見で無害と判断されていても、何世代も経つうちに、何かしらの影響が有るやも知れないし。輸入の検疫では、例えば牛の口蹄疫、BSEその他の場合は、すべて焼却処分というという事であったが、時間費用も大変という事であった。

    茗荷好きでも、赤い茗荷を特に食いたいとは思わないが、白いイチゴは食いたくない、マスカット系のブドウは好きだ、全く矛盾した好み~~?

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      赤い茗荷は2006年から2010年にかけて能登半島のあちこちで出現しましたが、2007年には能登半島地震、中越沖地震、そして2011年には日本海溝地震と連続して行きましたから、赤い茗荷は天変地異と言う古老の話も当たらずとも遠からずだったかも知れません。その意味ではやはり2006年から10年にかけてサトイモの花も日本各地で出現しました。
      特に私は2010年の夏、自分の畑でそれを目撃してしまいました。
      どこかでは気温との関係が大きいのかも知れませんが、それだと暑さは巨大地震と言う昔からの言い伝えの方が正しいのかも知れません。
      いずれにせよ生きている間に1度か2度しか見れない事象と天変地異を重ねる事は危険ですが、全く関係がないとも言えない所が自然の深遠なところと言うべきなのでしょう。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「地球環境と言う幻想」1

    ヒトには生まれた時に、或る一定の仕事をすることのできる能力・気力・活力が与えられている~~♪

    ある一定の範囲内で、例えばお金を儲ける組織で見てもよいが、応分の何十倍も稼ぐ人もいれば、そこそこの人もいるし、他者に依存して、漸く存在や生存が可能な人もいる。
    だからと言って、依存するものを排除すれば、何十倍も稼ぐ人からの分配が大きくなり、「豊な」生活が実現するわけでは無い。

    尊厳は同じでも、「能力」はそれぞれ、与えられたものを発揮すればいいのであって、又それしか発揮することができない。
    兎角、「何十倍も稼ぐ」人が社会を支えているわけでは無く、全体として、支えているのであって、謙譲と自尊を以て、それぞれの役割で社会に「貢献」すればよい(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      件の記事は熱力学第一、第二法則を書いたものでしたが、エネルギーは使っていくほどに再生が困難なエネルギーに移行していく。
      つまり人間が熱エネルギーを使えば使うほど、次は人間には使えないエネルギーに換わっていく事を考えるなら、エネルギー総量の等価性は有っても、そこには人間には使えないエネルギーが増えていく事になる。
      電気は再生可能なエネルギーではない事を、皆が自覚する必要が有り、これを再生可能エネルギーと考えていると、人間はやがて有害エネルギーに周りを囲まれる事になるだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「地球環境と言う幻想」2

    最近、インドに関する動画良く見ているが、相当日本的に見れば不潔で散らかっているらしい。
    良く考えれば、人の営みで、出るごみや排せつ物の総量はそれほど違わないだろうから、万遍にあるか、偏在して、つまり秘匿して存在するかだけの違いかも知れない。
    文化・歴史的経緯の違いで有って、善悪の問題ではないが、或る程度分離した方が、生活は快適かも知れない。

    部屋からゴミを掃き出して、外を汚くするより、実はゴミ屋敷で、外を衛生的に保った方が、社会に貢献しているかもしれない(笑い)
    福島第一原発の放射能を含んだ水を貯めておくか、ウラジオストックの廃棄原潜の様に知らんぷりして、海洋に薄めて出すのと、どちらが、何万年視点で見るかによって評価は大きく違うかもしれない(笑い)。

    先日、ジビエの様子をSNSに投稿したどっかの町議が、「正義の生命尊重派」からバッシングを受けていたが、胡散臭い話だ。
    後進国の人権不尊重を攻撃・非難する国は、先住民や占領地の住民の虐殺をしてきた連中が多い。

    ついでに、キョウサン党のコイケ書記局長が、ジミン党の党首が、長期党首をやっているのは、「人材がいないから」~~♪
    自党の委員長は選挙もなしで、つまり民主主義的手続きなしで18年間も党首をしていることは、「余人を以て代えがたいから」~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      時間経過に伴う劣化と言う点では人間もその範囲を出ることが出来ない。
      人間は文明や社会と言う外に対する壁のおかげで得られたものは、怠惰と虚弱、基本性能の遺失であり、社会や文明で得られたものはいずれも人間の劣化に繋がり、生きる事を一義とする生物が持つべき能力を退化させてきました。
      臭覚は猫の7000分の1、聴覚に至っては低周波、高周波共に、犬の12000分の1、生体全体が総力で持つ総合判断力、これは「勘」の事ですが、自然危機回避機能に至ってはタヌキが100なら人間は殆ど0でしかない。
      人間は多くのものを怠惰や遊興に使って来たおかげで、もう引き返す事のできない劣化の道を辿っている。そしてこれから先も人間が進む道は変わらない。
      ここで他者に期待するのは間違いで、自分が間違いを犯さない事に専念すべきだろうと思います。
      人間はもう少ししたら「生物」ではなくなる可能性が高い気がします。

      コメント、有り難うございました。

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