「あなた様の意には従いません」

「これはしたり・・・、我は何も頼んでまで舞を見たいとは思うてはおらぬ、嫌ならそこまでのこと、たかだか白拍子(しらびょうし)の1人や2人、会うて見たところでいかほどのことやあろう・・・」
北条政子の進言にもかかわらず、いや病気だ具合が悪いとほざき、一向に言うことを聞かぬ白拍子、しかもその女はかの謀反人、源義経の妾ともなれば、政子の口添えでもなければ殺しても良いくらいのものだったが、どこかで同じ境遇の静御前に自身の姿を重ねたのか、政子は夫、源頼朝に対しなぜか静御前への恩情を訴えていた。

その色男ぶりは有名な源義経、彼は兄源頼朝との対立が決定的になってから、九州へ逃げ延びようとはかるが、嵐に遭って船は岸に戻されてしまい、その後吉野の山中にて同行していた愛人の静(しずか)は、義経と生き別れになってしまう。
義経一行は逃げ延びるが、家来の1人を護衛につけられ別行動になった静は、途中でこの家来の造反に会い、金品を持ち逃げされて山中を彷徨っていたところを、吉野の僧によって捕らえられ、源頼朝のもとへ送りつけられる。

そして1186年(文治2年)4月8日、頼朝と政子は鶴岡八幡宮に参拝するを以って、この義経の愛人であった静の舞いを奉納するのだが、これをしきりに勧めるのが妻の政子であり、頼朝は「別に嫌ならいいぞ」と言う姿勢、また静は病気だ、気が乗らないなどと称し再三再四断り続けていた。
しかし政子の取り成しもあって、仕方なく鶴岡八幡宮で舞を奉納することになった静御前、意に反してその舞は見事なものだった。

京で後白河法皇が雨乞いの式を行ったとき、100人の僧の読経でも一向に雨が降らず、美麗な白拍子100人に舞を舞わせたが、それでも99人まではだめだった。
しかし静が舞を始めると、一見にわかにかき曇り、雨が降ってきた・・・、そしてその雨は三日三晩降り続き、これをして後白河法皇に「日本一の白拍子」と言わしめ、その力はまた「神の力か・・・」とも後白河を呟かせたのも無理からぬものだった。

過ぎ去りし日、時代をときめく勢いの義経は、吉野でこの静の雨乞いの舞を見て一目惚れし愛人にしてしまうが、その後義経の落日とともに静も囚われの身になり、今はこうして宿敵夫妻のために舞を奉納させられているのだった。

「歌いをこれに・・・」
源頼朝は静に何ぞ歌を詠むように命じ、これを下から睨むようにして唇を噛んだ静はこう歌う・・・。
「吉野山みねの白雪ふみわけて、入りにし人のあとぞ恋ひしき」
「しづやしづしづのをだまきくりかへし、昔を今になすよしもがな」
つまりこうだ・・・、前の歌は激しいばかりの恋の歌、そして後ろの歌は在りし日の義経を懐かしむ歌となっている。
静は愛しい義経を討った頼朝に対して、これ見よがしに「義経を愛していた、あの人との思い出が懐かしい・・・」と歌っているのだ。

これを聞いた頼朝は思わず席を立って、激怒した・・・、「この八幡宮でめでたい歌をうたうならまだしも、謀反人の歌をうたうとは何事ぞ」
今にも刀を抜きかねない頼朝・・・、これを政子が諌める、「ここはめでたい八幡宮、そこを殿は血で汚すおつもりかえ・・・、してみれば女子(おなご)の想いは私とて同じこと、静の身の上であれば私も殿に同じ歌をうたいまする」

静はまたしても政子に助けられた。
しかしこのことがあって、6日後のことだった・・・、突然静の宿所に頼朝の家来が何人かして酒を持って訪れ、静に舞を所望する。
この事態に静とともに囚われていたやはり白拍子で静の母親、「磯禅師」が娘をかばって舞いを披露し、何とかことなきにしようとするが、この場で静は頼朝の家来から卑猥な言葉を浴びせかけられ、泣きながら叫んだ。

「およそ下賎な者たちよ、世が世、義経殿がご存命なら同席することすら叶うまいに、ましてやこのような辱めを受けるなど・・・・」静は頼朝の家臣に対してこう言っているのである。
また静はこの時、義経の子供を懐妊していて、これについても政子の取り成しで、男子なら命は助けられないが、女子なら命は助けて静とともに京都へ送り返される事が決まっていたが、7月29日に生まれた子どもは男の子だった。

泣きながら子どもを渡そうとしない静、これを見ていた母親の磯禅師は、そっと娘の手から生まれたばかりの子どもを引き離すと、安達新三郎に手渡し、安達はその子を由比ガ浜で溺死させて亡きものとした。

そして同年9月16日、子どもが生まれて、その子が男か女かを確かめる為に留め置かれた静と母親の磯禅師は京都に帰されたが、その後静の消息はようとして知れなくなってしまった。
一説には母親の生まれた里に戻ったとも、北海道で身投げしたとも言われ、日本各地にその終焉の地が伝説として残っているが、どれも伝承の域を出ないものばかりである。
多分若くして死んでしまったのではないだろうか・・・。

だがこの静御前、何となく印象としては弱々しいイメージがあるが、どうしてどうしてなかなかの女傑である。
白拍子は水干(すいがん)と言う衣装を着けて、金色の烏帽子(えぼし)をかぶって舞を舞うのだが、これは原則男の衣装であり、現代で言えばさしずめ宝塚の男装の主役のような感じである。

またこの薄幸の麗人は天下を取った頼朝に対して徹底抗戦をしている。
素直に従えば違う扱いも受けただろう、身分卑しき者どもから辱めを受けることも無く済んだに違いなければ、場合によっては生まれた子どもの命も助かったかも知れない。
だが、静は敵に媚を売ることをしなかった。
現代で言えば中国で共産党批判をしているようなもので、そうしたことから一歩も引かなかった、大変な意志の女性で、子どもの命も、自分の命も犠牲にしてでも決して自分の心を裏切らなかったのである。
つまり「愛していたことを」終生裏切らなかった人だと言うことである。

静御前の記述には随所に北条政子と、頼朝の長女「大姫」がそれを助ける場面が出てくるが、これは後に北条政子が源家を乗っ取り、北条執権政治を開く基になることから、反源家となった静を擁護することで、北条政子を正当化しようと言う意図が伺え、どうも胡散臭い。
もしかしたら静御前をそれとなく助けたのは頼朝だったかも知れず、頼朝は静御前のことが好きで、政子の手前、仕方なく冷たくあしらっていたかも知れない。歴史とはそうしたものだ・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「あなた様に意には従いません」

    外房には、今は無用と化したらしい、集会所のようなものが、多数残存している。適当な推測だが(笑い)、戦前に田舎では若衆宿が有って、夜な夜な集まっては雑談をしていたらしいけれど、その名残かも知れない。
    薩摩藩でも下級藩士の子弟が、そんな所で手習いや剣術・武道の稽古もしたようだ。
    そこで昔話や世上についての話が共通認識として育まれたかも知れない、捉え方は、心の問題だから、自由はあっただろうけれど。歴史の真実は概ね杳として計り知れないものであるが、記録に残ったもの、残らなったもの、その他様々なものから、それなりの解釈が有ってしかるべきだが、科学的手法(!?)で、存在するものからだけでは、計り知れないものが有るように思う。

    明治政府の要人にも、下賤な(笑い)職業の者を正妻にした者も多いが、多分、日本では、人そのものを見て評価した人は多いのだろうし、西欧諸国の人権・男女観と違う思想が連綿と脈打っていたのだろうけれど、明治維新以降、特に戦後、得たものも多いが、それ以上に、日本人を日本人たらしめた物を失ったかも知れない。
    今、流行りの能天気な脳学者や、司馬〇太郎のような一事で全人格を否定するような、バ〇が、支配する、国になり下がったのかもしれない。

    日本のハイク(俳句)はそれなりにヨーロッパでも人気が有るらしいが、多分まだ彼らは、1500年の和歌の歴史のさわりに辿り着いただけで、それは日本人が誰でも身分に関わりなく心情を吐露し社会的にも大きな意味が有ることに気付いて居ない様に思う、日本人でも多いけれど(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      歴史は現実に自分が見たわけではないので、基本的に主観な訳ですが、あらゆる歴史観は、そう言う考え方もあると言うスタンスかと思います。
      その時代に生きて何を考えたかなど、本人ですら解っていないだろうと思いますが、それを結果から逆算してこうだったのではないかと考えたと言う領域を出ないだろうと思います。
      静も晩年はもう消息すら知られなくなっていきますが、こう言う女がいたと言う記録だけは残っている訳です。
      そして後はそれぞれの人の希望な訳です。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「二つの需要」

    日本が見本と仰いでいる、米国式大規模農業は、次々に破綻して、馬鹿にしている東南アジアの小規模自作農は、自足余分を輸出して、大きな量の外貨を稼いでいるのに、机上の論理で、理想的な、実は現実に合っていない農業を推し進めていて、一個¥2000のリンゴや一粒¥500のイチゴを、輸出して、将来可能性を論じている、多分、脳味噌が、何かのヒステリーに遣られて、字は読めても、現実の風景は見えなくなっているのだろう(笑い)~~♪

    動物園にいる、大多数の子供は一生涯自然の中で暮らしている状態を、見ることのない動物の名前や生態に詳しく、遠い昔に滅び去った恐竜どもの名前や分布に対する知識もすこぶる多い。ベトナムやフランスの有名店の情報にはやたらと詳しい、適齢期を疾うに過ぎた○○も多いらしい。

    野山を跋渉して自然や対人関係の各種経験や学習はしたことが無いので、自己の絶対的・相対的身体能力その他知らないが、小学生からスマホを持って、検索とゲームには強い。

    かと言えば、牛を放牧して暮らしている伝統的なマサ〇族の子弟に小学校へ通わせようという運動も有るらしい。

    人を不幸せに導く色んな発明が目白押し(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      日本人は何かで真実とか基本的な原理を考えますが、この世の中で何か一つの理由で動くものは無く、あらゆる事象は全ての関連性の中で動いていきます。
      消費と言う概念から逃れられなければ、消費を中心とした社会しか考えられず、ここでは生産は消費の道具になって行く訳です。
      金融だけを考えて取られる政策は、その他の現実を無視する為、その他の方が大きければその政策は破綻する。
      今の日本経済は成るべくして為っていると言えるだろうと思います。

      流石に疲れました・・・。
      今から父親の食事の後片付けに行ってきます。
      4月1までは雪が降る可能性があるとの事で、まだまだ寒い日が続いています。

      コメント、有り難うございました。

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