「時を彷徨う者」第一章

ブルボン王朝、その絶頂を築いたフランス・ルイ14世・・・、しかしいかに彼をしても年齢と言う限界は超えることができなかった、今まさにすべての栄光もまた自身のものではなかったことを知り、ただその身を神の御心に委ね横たえていたが、そこへ1通の書簡が届く。
差出人不明、しかしそこに書かれていたことは、ルイ14世を死の縁から呼び起こすようなものだった。

当時オルレアン公フィリップ2世の力を恐れたルイ14世は、僅か5歳で国王に即位することになるルイ15世のことを案じ、オルレアンの力を封じるため、15世の後見として14名からなる摂政諮問会議を置き、ルイ15世が成長するまでの治世を付託しようと考えていたが、その書簡にはオルレアンがパリ高等法院、イエズス会やローマ法王偏重主義に対抗する、ジャンセリスト(厳格主義信仰運動組織)やガリカニリスト(フランス教会自立主義運動組織)にまでも支援を受けている、あなた(ルイ14世)には最後の仕事が残っている・・・と書かれていたのである。

これを読んだルイ14世は枕元にオルレアンを呼んで和睦し、結果オルレアンは摂政としてブルボン王朝を仕切っていくことになる、その数日後1715年9月1日、ルイ14世は栄光に厳しい財政難と言う暗雲が差し掛かったまま、生涯を終えるのである。

またモーツァルトに「レクイエム」を依頼しに来た40代の男はアルメニア風の衣装に身を包み、その言動や物腰は常人ならざるものがあった。
「して、このレクイエムは何か特別な思いでもおありですか」、モーツァルトはその男に誰か特定の対象があっての曲の依頼かを聞いたのだが、その男は少しだけ笑うと「いや、特に・・・」とだけ答え、その場を去って行く。
そしてもう少しで曲が完成する1791年12月3日、この男は病床で明日をも知れぬモーツァルトをまた訪ねてくるのだが、応対した妻のコンスタンツェは夫が病気で曲が完成していない・・・と言うと、なぜかそのことも知っていたような様子で、それでも構わず曲の代金を支払っていくのである。
モーツァルトが死ぬのは1791年12月5日、この2日後のことだった。

時代は遡って1192年、第3次十字軍のリチャード1世はエルサレム攻略の手がかりとして港町ヤッフォをその手中に収め、その勢いを買って1月、エルサレムに侵攻しようとしたが、エジプトの太守サラディーン(スルタン)の軍勢の多さに圧倒され、軍を一時退却させる。

「サラディーンめ・・・」宿所で眠ろうとするが眠れぬリチャード、この遠征も3年を超え、すでに皆の士気も下がってきている、いや事実口には出さないまでも皆故郷に帰りたがっているし、自分だって正直を言えば同じ事を思っている・・・、どうしたものか・・・。
そのときだ、「陛下、ただ今旅のものと称する男が陛下のご尊顔を拝したいと申しておりますが、いかが致しましょう」、そういって外で護衛兵がリチャードに囁く声が聞こえた。
「旅の者・・・、その者はどのようないでたちか・・・」
「はっ、どうにも変わったいでたちではございますが、エジプト人ではないようです」
「そうか、なら通せ、だが油断するな」

「陛下、お久しゅうございます」
その男は正規の挨拶をし、リチャードと距離を置いて頭を垂れたまま「礼」を取っていた。
「そなたは・・・、確か・・・」
「憶えておいて頂き、恐縮です、サンジェルマンにございます」
そうだ、この男は記憶があった、と言うより心のどこかでこの男を待っていたのだが、あれから3ヶ月、確か始めて会ったとき、もうそろそろ戦争を終わらせる方法を考えてはどうか・・・、そうリチャードに進言したのはこの得体の知れない旅の男であり、もしそう望むなら、それに向けた助けをしたい・・・とこの男は言ったのだった。

リチャードは人払いをすると、その男と話し始めるが、そこで男はリチャードに、このままでは交渉は不利であることを次げ、6月か7月にもう一度攻撃し、そこで勝利を収めてから和睦しては・・・と進言するが、これに対してリチャードは、どうして勝利してからもまだ和睦なのだ・・・と訪ねる。
男は恭しく頷くと一言「それは7月になればきっとご理解頂けるものと・・・」

「そなたは何者だ、私の味方か敵か・・・」
リチャードはあらためてその男に尋ねる。
しかしそのおかしな衣装の男は静かにこう言ってリチャードに眠りを妨げたことを詫びると、夜のとばりの中へと消えていった。
「私は、旅の者、それだけにございます」

7月31日、おかしなものだった、リチャードが結局攻める機会を失っていたにもかかわらず、サラディーンのほうがヤッフォ奪回に向けてリチャードに挑みかかってきた。
そして数では劣るリチャードの軍はこれを撃退、何と名目上の勝利となった、がしかし、これでもサラディーン軍を壊滅するには程遠く、部下や兵たちの疲弊や不満は日増しに高まって行ったのである。
1192年9月2日、1年を要したがリチャードは停戦に成功、ここに第3次十字軍の遠征は終結するのである。
(第2章に続く)

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「時を彷徨う者」第一章

    日本にも八百比丘尼というのが有って、色々面白いことをしたようだが、先日、沖縄で発見された、死んだジュゴンを食べても、成れそうにない(笑い)。

    米軍統治時代にはそれなりの数が居たらしいが、簡単に言えば、勝手に取って食っていたらしい。その後保護しようとする動きが有ったが、政権の交代もあったし、保護は等閑視されている内に、生息数も既に、数頭にまで落ちていて、回復不可能な数で有り、最後の生き残りの一頭が死んだようだが、静かに死ねなくて、色々牽強付会の宣伝戦に使われているようで、人魚もびっくり。

    確か平安時代の末期の説話か何かに、畜生道から這い上がって、人間界に戻ったのに、又悪事をして、ほどなく地獄へ舞い戻って、極卒が(地獄の鬼)が涙を流して、這い上がるには1兆1200億年かかったのに、すぐさま、戻ってくるなんて、と涙を流しながら連れて行って、劫火が吹き上がる、扉を開けて、そいつを突き落とした、って話が有った気がする(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      サンジェルマン伯爵は、私が少年の頃からの憧れでしたが、くだんのブログでもアバターに使っていたのがサンジェルマン伯爵の肖像でした。
      今で言えば都市伝説のようなものだったのでしょうが、歴史は時々信じられない展開をする時が有り、後年熟考すれば、誰か大いなる者が意図的に捻じ曲げたとしか思えない時も有ります。
      人々はそうした現実の中からサンジェルマンのような者がいるのではないかと想像して行った。
      そしてこれに肉が付き、血が流れるようになって伝説として歩き始めたのかも知れません。
      そしてこうして動き始めたものと本当はどうなのかは、区別が付きにくい。
      ある種、何を信じるかの違いになって行くのかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「老いとは何か」・1

    十年ぐらい前に、この病気がテレビで紹介されていて、その時は、日本人の子供と、イギリス人の子供だった。各種あるようで、21トリソミー(ダウン症)も大きな範疇では、入るようだった。

    今AI関係の話が多く、或る意味人間の代替が出来るような妄想が逞しいが、生物何十億年の蓄積について蒙昧であるようだし、今を時めく脳学者は、安穏なコメンテーターの地位に満足して、益々、能天気になっているよう。
    ラマ・チャンドランのような研究も勿論読んでいるだろうが、現実的には、洞察が足りないという事も有るだろうが、あまりにも深遠で、説明しにくいというのも有るだろう。ま、テレビ中心社会だから、致し方なしなのだろうが、それに一石を投じる気は、元から無いようだ。

    脳や神経を研究していた、多分アメリカの学者が、胚の時から、鶏の脳の入れ替えをして、各種実験をしたところ、ある一定成長以上になると、体は脳の指令を無視して、死を選ぶ、という報告が有ったようで、脳も勿論体の一部で有って、完全に支配できるわけでは無い。
    公務員も、自衛隊も、全体の奉仕者であっても、国民の一人であるし、甚大災害地では、被災者の一人でもあるのに、報道からはそういう視点が欠けていると感じる事も多い。
    災害だって老いだって、誰にもやって来る、始皇帝にも来たように、小澤征爾にだって、三浦雄一郎にだって、やって来る。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      ここではどちらかと言えば生体としての老いを考えましたが、生体の老いと精神の老いを別のものと考えるのは、ある種の希望的観測であり、生体の老いはイコール脳の老いで在り、この事を考えるなら健全な精神は健全な肉体は、基本原理なのですが、人間は常に何事もなければ老いを正確には見つめない。
      これを文章にすると非常に厳しい事になるので書けませんが、美熟女などは甚だ可笑しい。
      若く見えるから老いていないのではなく、現実にはその機能が使われ、考えも柔軟で有る事を老いの反対の状態と言うのであって、外見をつくろう事と同義ではない。
      オッサン様は偉大です(笑)

      コメント、有り難うございました。

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