「お母さん・・・」・2

わざわざ自宅から50キロメートルも離れた産婦人科医院へかかったのは、それなりの理由があった。
近くの産婦人科だと誰が見ているとも限らない、そうしたことを恐れてのことだったが、帰宅途中、母親と隣り合わせに座った弥生さんは、こうした昼間の時間帯で、そう混んでもいない電車の中、奇妙な光景を目にする。

おそらく5歳ぐらいだろうか、男の子が弥生さんの前方5列目ぐらいの座席から、ジーっと弥生さんを見ているのである。
そして次の瞬間、その男の子は電車の開いていない窓から、まるで透けるようにして体を出したかと思うと、なんと走っている電車の外へ、スーッと飛び出してしまったのである。
弥生さんは一瞬我が目を疑ったが、隣の母親も同じ方向を見ていたので、母親に今何か見なかったか・・・と訪ねたが、母親は何も見ていないと答えた。

「やはり少し疲れているのかしら・・・」弥生さんはそのときはそう思い、これ以上考えなかったが、思えばそんなことは現実にはありえないことだった。

そして帰宅した弥生さん、何となく暗い雰囲気が続いたことから、部屋に戻ってもそうした沈んだ感じが収まらず、カーテンを開いて窓を開けたが、ここでまた彼女は不思議な場面を目撃する。
なんと電車で見かけたあの男の子が、弥生さんのいる2階から少し離れたところに見える道路に立っていて、こちらを見ているのだが、その背後には黒塗りの車が迫っていて、しかも男の子がいるのにスピードを落とさない・・・、「あーっ、轢かれる」思わず目を閉じてしまった弥生さん、しかし次の瞬間目を開けると男の子の姿はなく、ただ道路を黒塗りの車が走っていくだけだった。

また翌日には、まだそれほどお腹も目立つほどはなかった弥生さんは、気晴らしも兼ねて大学の講義を受けに出かけていたが、そこでも講義が終わって家へ帰ろうとした彼女が、何気なく大学の建物の上のほうに目をやると、だれかがそこに立っていて、なんとその人影はいきなりそこから飛び降りてしまったのだ・・・、あーっ、またあの男の子だ・・・。
弥生さんは直感でそう思い、その人影が落ちていった場所まで駆け寄るが、そこには人の痕跡はおろか、ごみ1つ落ちてはいなかったのである。

こうして弥生さんはそれから同じ男の子を1日に2、3回は目撃するようになり、そのどの場面でも男の子は飛び降りたり、川へ落ちていったり、車に轢かれたりしたが、不思議と悲惨な光景であるにも拘らず痕跡は残らず、どうやら男の子が自分にしか見えないことも分かってきていて、ここへきて弥生さんには「あること」に気づき始めていた。

それは老医師に返事をしなければならない日の2日前のことだったが、やはり講義にでかけて行った帰りのことだった。
歩いている自分を後ろから誰かが走って追いかけてきた・・・、そしてその小さな人影は弥生さんを追い越し、10メートルほど先にある川にかかる橋の欄干に立ったかと思うと、こちらを振り返り、声に出さない言葉を発し、おもむろに橋から下の川へ落ちていったのである。
それは間違いなく、これまで何度となく弥生さんの前に現れたあの男の子だった。
そしてこのとき男の子の口元がはっきり読み取ることができた弥生さん、それからある決心をしたのだった。

「そうですか・・・、それは良かった、大変かもしれないが頑張って下さい。私もできる限りのことはします」産婦人科の老医師は弥生さんに優しく語りかけると、今度は出産についての話を始めた・・・。
そうだ弥生さんは堕胎することなく、大学も辞めることになったが、子供を産むことにしたのだった。
初めて電車の中であの男の子を目撃したときからそれはある意味分かっていた、これはお腹の子供だ・・・、そして私に言っているのだ、「殺さないで・・・」と、それはあの橋の欄干のときに確かめられていた。
あの時男の子は「おかあさん・・・」と言っていたのである。

そして出産を決めたときから、あの男の子は弥生さんの前には姿を現さなくなっていた。
弥生さんは両親の反対を押し切って出産、その後は実家にも居辛くなり、子供が3歳になると家を出て親子で暮らし始めたが、事務の仕事も見つけ、苦しいながらも自立した生活の中で頑張っていった。

弥生さんはある日、この日は休日で会社も休みだったが、息子さんの健一君(4歳、仮名)に昼食を食べさせると、お腹が一杯になったことからふと眠気に襲われ、うたた寝をした。
そして夢を見た・・・、まだ大学へ通っている頃の夢だったが、その夢の中で彼女は、むかし自分の目の前で男の子が川へ飛び込んでしまうあの夢を見ていた。
「待って、落ちちゃだめだ・・・、落ちないで・・・」彼女は夢の中でそう叫んでいたが、その瞬間はっと目が覚めた、そして目を開けた弥生さん・・・、だがそこには何と今夢の中にいた男の子が、自分を心配そうに覗き込んでいるではないか・・・。

そう育児ですっかり忘れていたが、あの出産を迷っていた時に自分の目の前に現れた男の子は、4歳になったときの自分の子供だったのだ。
弥生さんは思わず健一君を強く抱きしめると、「ごめんね、ごめんね・・・」と涙を流していた・・・。

この話はある超常現象を研究をしていた、無名の人物が1984年に取材した話によるものだが、どうやらこの話を使った小説や脚本を書いた者が他にいるようで、その信憑性は低いかも知れない・・・が、私は何となく信じている、と言うよりは信じたいと思っている。
そして世の中には多くの人に祝福されて産まれてくる子どももいれば、こうしてただ母親だけの信念によって、誰にも祝福されずに生まれてくる子供もいるが、長じてどちらが凶悪犯罪を犯すか、どちらが社会や人のためになる生き方をするかは、その祝福の大小で決まっていないことが、私には嬉しく思える。

またもし弥生さんが出産前に見ていた男の子が、4歳の頃の健一君だったとしたら、人はどこまでが「自分」でどこまでが「他」なのだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「お母さん」・2

    座敷童も連想させるし、仏教説話も連想させるが。

    人の幸せは、生まれた子供とその環境によってだけ決まるわけでは無く、母とか父とか、血筋とかで決まるわけでも無い。偶に卑近な~作り話のような、子供を出生時に取り違えて、十数年後に分かって、苦悩が始まる(笑い)
    本人は深刻なのだろうけれど、老年に差し掛かって、生みの母を求めて苦悩する。自分と引き当てては考えられないが、一般論でバッサリ切り落とすことはできそうもない。
    戦争孤児、戦災孤児、残留孤児などを考えれば、その変相は多様性に富む。

    東南アジアの女系家族が色濃く作用している地域では、数人の子供の父親が、全部違うってことも、多いようだが、男系家族とは、考え方が大いに違うようにも見受けられる。
    アメリ〇人は、バ〇が基本の様に思えるが、人種が違う子供やショウガイの有る子供を養子にする人が結構いるらしく、これはそれなりに、学ぶべきことなのかもしれない。

    猛禽でもペンギンでも、環境受容力でほとんど1羽しか育てられないのに、卵が二個孵化する種は多い。猫は時に、父親が違う子供を一緒に産んで、子だくさんで子育てに猫生を掛けるが、ヒトは、進化途中で獲得したらしい子殺し・虐待も盛んだし(笑い)、大人になっても出自に悩む~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      こうした話に近い話で、やはり呉服行商を営んでいた男性が、不景気から全く売れず、既に4日も何も食べずに歩いていて峠に差し掛かります。
      もう体力の限界で少し休もうと道端の草藪で寝てしまい、気が付いたら朝になります。
      男性は心に決めます。この峠を越えて一番最初に入った家の人が何も買わなかったらもうこの商買は辞めようと・・・。
      そして峠を越えて一番最初の家に入った男性、意外なことにその主人は男性を待っていたと言い、色んなご馳走を振舞ってくれます。
      男性は不思議に思い、何故ここまでしてくれるのかを主人に尋ねます。
      すると主人は、夕べ夢の中に白い人影が現れ、今朝一番最初に訪ねて来た男に、飯を食べさせてやって欲しいと頼まれたと言う訳です。
      男性は涙を流して礼を言うと、家に帰って、それから一生懸命働き、呉服店を経営するまでになる、そんな話ですが、一杯のかけ蕎麦とは明確に違いが有ります。
      もしかしたら作り話かも知れないが、そんな事が有ったら良いな、いや、有って欲しいなと思える部分があります。

      コメント、有り難うございます。

  2. 「あー苦しかった」・3

    脊椎カリエスだったのでしょうかね。今だと、かなり治る可能性が有ると思うが、夏目雅〇は、白血病で亡くなったが、今だったら、骨髄移植とかで治ったかも知れない。
    呉承恩の西遊記、七五調の翻訳のが贔屓だったのですが、テレビの夏目の三蔵法師もよかった(笑い)
    競泳の池江璃花〇の病気は詳細は不明成るも型がちがっているようだが、復帰して東京オリンピックに参加できることを祈念している。

    自分も○○をしているところを、目撃通報されない様に、自重した方がいいのかも知れない(笑い)、最近は自分の悪事を、ネットに投稿する人が多くて、これはこれで、なんだかなぁだが、自己承認要求だけじゃ、如何も理解できない。論理がずれているのか知れないし、評価の軽重・順位に錯誤が発生しているのかも知れない、とすれば、根は深そうで、会社が日本国憲法みたいに、一週間で書いた、行動規則・指針では、到底対処できそうもない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      どこで人が見ているかは解らないものですね・・・。
      こうして犯人は判明してしまいますが、タクシーの運転手の証言まで付いているところにこの話の凄い部分が在ると思います。
      そしてタクシーの運転手は何か訳ありだなと思っている点、案外色んなケースに遭遇している感じが伺えます。
      世の中には不思議な事が沢山ありますが、昭和と言う時代はこう言う話が出てきても、平成にはこうした話が少ない、次の時代には更に渇いた話しか出てこないかも知れません。
      こうした怖い話も時代に拠って変わってくるものだと言う事なのでしょう。

      コメント、有り難うございました。

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