「弁当と弁当箱」

平安時代、旅をする時持ち歩かれた「干し飯」(ほしいい)は確かに日本の弁当の起源と言えるが、おにぎりは弁当として用いられていなかった。

この時代の主食である米の摂取形態は干した米、或いは蒸した米を水や湯で漬けた、水漬け、湯漬けが主流であり、この点では茶漬けの方が平安時代の食事概念に近く、お粥とは概念が異なる。

主食摂取形態が半液体状である為、持ち歩き用の米は「干した米」が用いられ、それを湯や水で戻して食べるか、若しくはそのまま摂取するのが平安時代の弁当で有り、おにぎりの起源は「赤飯」である。

平安時代のお祭りでは、餅米を蒸して作った赤飯を手で握り固めた丸いおにぎりを作り、それを使用人や下僕などに振舞った、所謂神饌の意味を持ち、神と共に祭りを共有する概念が有り、しかも餅米は夏は傷み易く、冬はすぐに硬化してくる事から、この内冬に腐食せずに硬化する特性を突きつめても最後は「干し飯」に辿り着く。

この事から弁当箱の起源は京都「葵祭り」に用いられる折敷(おりしき・三方の脚がないもの)に桧皮などを被せて蓋をしたものなどがその概念としては一番近く、基本はお供えものを乗せる神社の「三方」が始まりと言え、これが後に茶や花の文化が形成されると、野外に繰り出された際に携帯用として用いられる箱型の弁当などに発展して行き、これを固定型弁当と呼ぶ。

一方旅をする時持ち歩かれた「干し飯」などは、麻の袋や皮の袋で持ち歩かれ、これらは形が不定形で、どちらかと長期間保存が利く事から固定型弁当箱よりはより遠距離、より多くの時間経過を許容する概念があり、移動速度の遅さと中継地点の連携が薄い平安時代には最も理想的な形態で、こちらは「自由形弁当」と言う事が出来る。

しかしこれを一変させたのが「武家社会」の台頭で、地域に横の繋がりや連携が出来ると、長期保存概念より干した米を水や湯で戻して食べるという所作の煩わしさがでて来る事になり、ここに現在に近い炊飯米が出現し、これらは金や人の繋がりさへ有れば3日の単位で手に入らない状態が少なくなって行った事から、おにぎりや餅などと言った神饌が庶民のところへ近付いて行く事になる。

そこで発展していくのが竹や藤で編まれた軽量弁当箱、叉は竹の子の皮や笹などで包んでいく形式だが、ここに至って弁当は3種の概念を持つことになり、茶や花の宴で用いられる「箱型弁当」、旅に使う「軽量弁当」、更には野良仕事などに持ち歩かれた竹の子の皮などで包んだだけの「簡易弁当」の分類が発生するのであり、現代でもこの分類様式は変わらない。

料亭などで食べる「松華堂弁当」(しょうかどうべんとう)、サンドイッチなどに使われる網目風プラスティックランチボックス、昭和の時代には良く使われた新聞紙などに包む方式、或いは紙で包む形式は「簡易弁当」の流れにある。

このように弁当と弁当箱の歴史は、その当初「干し飯」が主体で、それを入れる容器も形が不定形だったものが、やがては神饌を取り入れて行った背景には人間が持つ特殊性への憧れ、他者と自分を比べて優先意識を持つ、或いはそれを尊敬や臣従の形式と考えた、ある種の人間の業と言うものが力となっていて、人や文化の発展とは決して綺麗な思想からは生まれない。

むしろ人間としてのまずさがそれを発展させていくものだと言う事である。

また弁当の本来の意味は「備える」事に有り、この意味では「用意」しておく事を指しているが、武家社会以降どんどん発展してきた地域的連携と移動速度の速さは、弁当が持つ「備え」と言う自主性から商業的形態に主体が移り、備えや用意が他力的になって来つつある。

その為冒頭に出てきたように弁当が持つ時間経過の長さは極端に短くなり、移動距離も極めて少ない、所謂固定型弁当が主流になっているのであり、本来自分が食べる為に用意しなければならない弁当をコンビニで調達し、しかもそこに安全性が無いとまで言ってしまう現行日本民族の他者責任転嫁社会はどこかで不思議な感じがする。

弁当を用意させるなど、基本は目上の者で尊敬に値するものが有るか、それで無ければ大きな権力が無ければさせてはならない事だが、それを僅かな金で手に入れ、食品添加物が云々と言う有様には幾ばくかの横柄さと、拝金主義の裏返しを感じてしまう。

弁当と弁当箱に求められる要素は「特殊性」、「非日常性」と言う部分と、家庭的な手のぬくもりと言った相反する要素が含まれている。

これはどこか遠くに神饌と言うものの流れと、旅人が妻や母が縫ってくれた袋から「干し飯」を出して口に含み、その袋から故郷を思うその気持ちが、更には少し遠方で仕事をする亭主の為に妻が握ってくれたおにぎりの、その手の感触が一体となっているからかも知れない。

それゆえ弁当に求められるものは非日常と人の手の温かさなのだが、多くの大衆はこれをコンビニ弁当に求め、そのコンビ弁当もまたこれを目指しながら、価格と言う壁に両者とも遮られ、求める所からどんどん遠ざかり、終には多くの食材が賞味期限切れで棄てられる。

良い弁当箱でよい弁当を食べたいと思いながら、今日も金と時間に追われ結局コンビ弁当と言う現実は、遠く故郷を離れた地で土手に座り、妻や子を思いながら風に吹かれて食べる干し飯の味に比して、随分と力がなく侘しさを感じてしまうのは私だけだろうか・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 大変勉強になりまして、有難うございます。

    東アジアや南東アジアの連中は粒食が多いので、穀物を炊けば食べられて、ヨーロッパの粉食民族は、発酵させて、もう一手間掛けてパンに焼いて食べる。米の方が、アミノ酸も少し種類が多くていい気がしますが、ややパンに比べると、日本では近代は廃れ気味で、悲しい。

    有間皇子の「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」も弁当の走りでしょうか(笑い)次は伊勢物語の干し飯、落語の愛宕山の仕出し弁当、などが連想されました。
    タイじゃ弁当がビントウって少し訛っていますが、もろ弁当です。

    漆塗りの二段重箱の弁当や杉の曲げわっぱの弁当を、野外で食べたら、中身は兎も角贅沢で美味しい(笑い)
    コンビニ弁当はコンビニエンスだけれど(笑い)自分が食べる時間には、同じものが、お金の亡者によって、廃棄されているかも(笑い)

    熊本地震が、早く終息すれば宜しいかと願っていますが、暫く弁当で救助をしている人も被災している人も、今も奮闘しているようです。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      現代のコンビニ弁当は一見豪華で華々しいですが、どこかで深さが足りない寂しさが有りますね。
      椎の葉に盛られた飯は、そこはかとない風情と水が流れるような美しさを感じます。能登では「朴葉飯」(ほうばめし)と言うのが有り、昔は田植えが6月だった事から、その頃に出てきた朴木の葉に、何のことはないご飯にきな粉をまぶして塩だけで味をつけたものを包んで、田植え時期の昼飯としたものでした。そんな美味しいと言うものではないのですが、今でも懐かしく思います。今朝は急ぎの仕事を朝6時に終わらせ、それから村の水路掃除でした。そこで村の連帯感が大切と言う意見と、私が若い者の意見として、若い者も大変なんだと言う話をして少し対立しましたが、よく考えてみれば今の日本の図式と全く同じかも知れんと、そういう事を思った次第です。

      熊本の惨状は本当に言葉が見つかりませんが、昔の文献で南紀白浜の漁村が一夜にして大地震で津波にのまれ消失した事を記録したものが有り、くだんの貴族は一昨年までここに松林と漁村が有ったように思うが…と書いています。
      つまり復興は為されなかったと言う事で、地震災害で復興されるのは都や城下だけで、地方は切り捨てられていたような感じが有ります。熊本の状況を見ると、これをどうして元に戻すのかと言う不安がよぎります。
      安部総理には口だけではない、しっかりとしたビジョンを示して頂きたい。熊本の人達が「よし頑張ろう」と思える施策を示してもらいたいと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 水路掃除、強風で大変だったと思います。
    高校生の頃は、そんな行事に偶に行っておりました。一応一人前勘定でした。
    今は、きっとそんな「作業奉仕」も廃れて、最低限のものは、我が郷里の場合、行政が担っているのじゃないかと、思います。
    遣る機会が無いので、勝手な話になりますが、出来ることを、出来る内は、或る程度。コミュニティで遣れれば、良いようには、思ってます。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      大変な風でした・・・。
      おそらく毎秒40mを超えていたのではないかと言う感じでした。
      村の奉仕作業は無事終わりましたが、どこかではすでにあらゆるものが限界を迎えているような気がします。いろんな「これまで」が維持できなくなってきている事を感じるのですが、こうした中で発生してくる地震などの災害は、何となくこれから先の秩序を変えていく事になるのだろうと言う思いがします。人間が感情的にどうしても変えていけないものを、災害と言う現実が変えていく、そしてその事は遠い未来には何らかの意味を持っていくのではないか、そんな事を思います。

      コメント、有り難うございました。

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