「江戸・かわら版」

さあさあ、これはてーへんだよ、何とこの間の大火事は寺小姓に恋焦がれた娘の祟りだってんだから、これにゃ死んだおとっつあんも目を覚まそうってもんだ。さあさ、そのいきさつはこのかわら版に隅から隅までずずずぃーっとと言うわけだ、早い者勝ちだよ買っとくれ・・・」

明暦3年(1657年)1月18日(旧暦)午後2時、江戸本郷4丁目の本妙寺ではこの日の朝方死んだ麻布の質屋・伊勢屋五兵衛の娘「おたつ」が着ていた着物を供養して燃やそうとしていたが、3人の僧侶が読経を唱える中、井桁に組んだ供養囲いの中では轟々と音を立てて火が焚かれ、いよいよそこへくだんのいわくつきの着物が勢い良く放り込まれた・・・が、その瞬間どこからともなく一陣のつむじ風がそこを通り過ぎる。

そしてくだんの着物は火が付いたまま、あれよあれよと思う間に天高く舞い上がってしまったのだ。
さあ、それからが大変だった、この舞い上がった着物の火はちょうど去年から雨が降らず、乾燥しきっていた江戸の町に燃え広がり、1月18日から20日まで、江戸は大劫火にさらされることになったのである。
江戸市街の焼失面積は実に市街地の6割にまで達し、この火事による江戸町民の死者は10万人とまで言われた。 これが世界3大大火の一つ、江戸明暦の大火、別名「振袖大火」と呼ばれる大火事である。

そしてこの火事のいきさつは、小泉八雲も細かく記録に残しているが、それによると事の起こりはこう言うことらしい。

上野の神商・大増屋十右衛門の娘「おきく」は、花見に出かけたおり、ふとそこで年の頃なら17くらいか、美しくも凛々しい寺小姓の少年を見かけるが、その日以降どうしてもその寺小姓のことが忘れられなくなる。
しかし相手はたった1度通り過ぎただけに過ぎず、毎日のように小姓を思って出会ったところに赴くも、その姿はついぞ見ることはできない、そこで「おきく」ははっきりと憶えている小姓の着物の柄と同じ柄の振袖をしつらえて貰い、出かけるときはいつもその着物を着て出かけていたが、毎日小姓を思い続けたことによるものか、会えない苦しみからそうなったのかは分からないが、いつしか「おきく」は恋煩いから病の床に就き、明暦1年1月18日、16歳の若さで死んでしまう。

やがてこの時代の寺のしきたりとして不受不施、つまり門徒以外の寺に属するものは、その寺では供養してはいけないと言う決まりに従って、この場合は着物の柄がある種異教徒の柄であったためとされているが、法要が終わったあと、その着ていた着物などは供養されずに古着屋に売り払われることになった。
そして、その古着屋を通じてこの「おきく」の振袖は、次に本郷元町の麹屋(こうじや)吉兵衛の娘「おはな」の手に渡るのだが、「おはな」はこの着物をたいそう気に入り、やはりいつも外出するときはこの振袖を着てでかけていた。

だが、どうしたことだろう、あれほど美しくて元気だった「おはな」は半年もしない間に見る見るやつれ、やがて咳が止まらなくなり寝込んでしまったが、明暦2年1月18日、17歳でこの世を去ってしまうのである。
その後この振袖はまたしても古着屋の手を経て、今度は麻布の質屋・伊勢屋五兵衛の娘「おたつ」の手に渡り、「おたつ」もこの着物が好きで着ていたのだが、どうしたことか「おはな」と同じように咳が止まらなくなり、この翌年明暦3年1月18日、やはりこの世を去ってしまう。17歳だった。

そして伊勢屋の娘「おたつ」の死を聞きつけ、伊勢屋を訪れた大増十右衛門と麹屋吉兵衛は、「おたつ」が着ていた着物を見て絶句する。
「これは・・・、家の娘が着ていたものだ」
ここで初めて一連の娘の死が一枚の振袖で繋がった3人は、早々この振袖を始末しようと考え、本妙寺へこれを持ち込む。
そして冒頭の燃えた着物が風に舞う場面に繋がっていくのである。

これが明暦の江戸大火の背景として記録されているものだ。
だがこの火事にはおかしなことがある。
通常火事の出火元であれば、当然寺はおとり潰しになるはずだが、本妙寺はこの大火事の後、それまで以上の大きな寺に建立され、なぜか時の老中・阿部忠秋家からこれ以降毎年多額の供養料が寄進されるようになり、これは大正時代まで続くのである。
このことから大火の出火元は、実は老中の阿部忠秋の家だったのではないか、そしてさすがに大火の出火元が老中ではまずい、そう考えた幕府によって頼まれた本妙寺が、これを引き受けたのではないかと言う疑惑が、まことしやかに囁かれるようになるのである。

またこうした突然の出火にも拘わらず、当時の幕府、とりわけ老中・松平伊豆守の対応は早かった。
まるでどこかで準備していたのではないかと思われるほど、大火以降の対処が異常に迅速なのである。

御三家を場外へ転出させ、武家屋敷、大名屋敷の配置を大幅に移転し、また寺社の移動、市区改正、火除地の設営、広小路の設置、両国橋と永代橋の架橋など、どう考えてもあらかじめ用意された都市計画の存在が疑われるのであり、こうしたことからこの大火は松平伊豆守が、都市計画を実行に移すために起こしたのではないかとも噂されたが、それまでの伊豆守のやり方を考えると、これも根拠がないとは言い難い、尚且つ、火事に関係なく都市計画は絶対に存在していたように思われる。

そしてこの火事の別の記録を見れば、実は出火元が3ヶ所あったのではないかとも記されていて、その一つが1月18日本妙寺で午後2時、そして1月19日午前10には、新鷹匠町の与力の宿舎からも出火したとある。
また同じ1月19日午後4時、麹町の在家より出火とされているものは、もしかしたら麹屋吉兵衛と、本郷の本妙寺が混同されたものかも知れないが、いずれにせよ1月18日から19日にかけて、あちこちで火事が起こっていることから、これは徳川幕府に対するテロでは・・・と言う推測も成り立つ。

事実徳川幕府成立期には「江戸城火攻め声明」と言うものが流布されたことがあって、これは徳川幕府に滅ぼされた豊臣家の残党や大谷家、土岐家などと、厳しく幕府から統制を受けたことに憤る朝廷が結託して幕府転覆を狙ったのではないか・・・と言うものだが、こうした組織の連絡役を特定の寺社が行っていて、寺小姓の着物の柄はこのような組織関係者であることを示していたのではないか・・・と言う話だ。

ちなみに土岐家が関係する飯綱権現の火攻め兵法には、狐に鳥の羽を結んで、それに火をつけて放つ・・・と言う兵法があるが、これだと熱さで走り回る狐の火が、あちこちでほぼ同時に火事となって、発生してくることもあり得るのかも知れない。

世界3大大火とはロンドン、ローマ、そして江戸であり、こうした大火には一応の出火元は特定されるが、それはどこかで不鮮明なものでもあり、こうした不鮮明さ故に、後世人々の憶測を呼び、数々の逸話が生まれてくる。
大事件と言うものはそうしたものなのだろう・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「江戸・かわら版」

    かわら版は、語源が実は良く分からないが、江戸・大阪など主に当時の大都市で商売として、発行されていた。中身は今でいう三面記事で、という事は読んでいる人々はいわゆる庶民、字も読めたし、買う事も出来た、というところが凄い。
    片や新聞は、中国伝来の言葉で、明治維新に英語から造語された言葉ではないのが残念だが、新聞社は社会の木鐸とか称したがっているが、自分からその役目を放棄して自滅の道を歩んでいるかもしれない。
    かわら版にも商業宣伝が有ったかもしれないが、現代新聞は、出来損ないの学者の様で、本来業務で成立しているのではなく、部数が多い事による商業宣伝で成立しているらしいが、現今、まだ己の立ち位置が風前の灯であることに気付いて居ないらしい、いまLED証明全盛だが、燈台下暗し~~♪

    小泉八雲は、ギリシャ生まれで、家庭的にはあまり幸福そうには見えないが、日本では幸せだったかも知れない。世界各地を放浪して、新聞記者としてアメリカから日本に来た、人種的偏見が少ない人の一人であるように思える。
    日本を地上に残された天国の様に感じて、各種紹介、小説随筆の類も多く残した。彼は、日本の良き伝統が、西欧と伍して行く途上で失われてゆくことを深く憂えたが、結局はそうなってしまったけれども、「令和」に見られる如く、もしかしたら、古き良き日本の一部が復活する元年になるかも知れない。
    八雲は、松江の旧宅は、行ったこともあるが、彼の終焉の地は、当時は府下豊多摩郡だったが、実は新宿のコリアタウンが有る大久保あたりで、終焉の地と言う碑があるはずだが、あそこら辺は長く通った地であるが、今度近辺に行ったら、寄って見よう、忘れないで、思っている人が居る~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      かわら版と新聞は似て非なるものですが、今で言うならタブロイド紙などが近い感覚かも知れません。
      江戸の都は結構情報社会だった事が伺えますが、こうして幕府の目をかいくぐって色んな事を書いていた当時の作家たちの意気込みを感じます。
      究極的には社会批判なのですが、この命題を失わずにどう幕府をかわすか、これが当時のもの書き立ちの腕を鍛えたのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「何か天変地異でも起こって・・・」

    「最後の藁、1本」を形状やら色彩、重量など、徹底的に検査してしても、本来の原因は永久に分からないけれど、そこに倒れているラクダは、立ち上がらない~~♪

    大正デモクラシー、リベラリストによれば、日本の民主主義が花開き、議会が定着して、議論が自由い行えるようになったのだろうけれど、厳しい帝国主義時代を分析できず、有効な処方箋を全く提示しないまま、結果としては、それから20年ほどの1945年帝国は崩壊した~
    昭和「デモ暮らし」、60年々安保にしても、拉致問題にしても、お花畑で花摘みして、時期を失したのかも知れない~
    平成デモクラシー、は大正と似ていて、程度の低い議論のための議論が横行。運がよく、特別な不幸に見舞われた人々を除けば、安穏な生活が有ったようだ~

    現今はデフレという事になっているが、これは本来不景気を伴っているのだろうけれど、従来の経済学理論は通用しなくなり、好景気でのデフレで、経験したことが無いので理解できないだけで、積極的に評価活用すべきかもしれない、国債の大部分は、日銀と銀行だから、国民の分は償還して、あとは徳政令~

    或る本によると、日本の国土面積は世界の0.25%で自然災害の世界総額では全世界の15~20%を占める、ちょっと物価が高いので、そのまんまじゃなけれど、それだけ豊かな国なのかもしれない、国民も自分が思うほどバ〇でもない気がする~

    パンドラの箱からリューマチを初めあらゆる最悪が出た後、最後に小さな希望が、出てきたのだけれど、これはギリシャ起源の西欧白人の話で、初めからすべてが有ったヒンドゥー教から生まれた仏教徒は気にする事は無い、宇宙に意図はなく在りのままに在る~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      元禄年間、安政年間、大正、太平洋戦争末期、このいずれも日本が国難に遭遇している時に関東地震が発生しています。
      しかもいずれも時代も権力と経済が癒着し、民衆の生活は圧迫され、もう何かが崩壊して貰わないと続かないと言う民衆が増えてきたときに災害が発生している事を考えるなら、今の時代は大正末期の日本にそっくりです。
      ですから1923年、関東大震災発生後、芥川龍之介初め多くの作家たちが、どこかですっとしたとか、「そら見た事か」と思ったと書き記している訳です。
      安倍政権は政治と言葉を蔑ろにし、すべての「信」を無に帰してしまった。
      ついでに度胸も無い者が詐欺を働いて失敗し、日本経済は取り返しの付かない事になってしまった。
      この先に来るものは、大方の人が何が来るかを知っているだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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