「器の格式」

お茶の世界では見た目より持った時軽く感じる「物」が良いものだとされるが、それは薄いと言うことであり、分厚い物より薄い物の方が作るのが難しいからである。
また古来よりのしきたりでは、四角い物は丸いものより高い地位にあることになっているが、これは少なくとも丸いお盆よりは四角のお盆が格式があると言うことで、では真四角と長方形ではどちらが上か・・・となるとこれは正方形、真四角が上の格式になる。

しかし真四角、正方形は本来「魔」と言って、余りにも揃いすぎて禍々しいとされることから、本来の器物は真四角とは言い乍、正確にはどちらかの辺が僅かに長い、微妙な長方形を為している場合が有る。

古いお重などが正確な真四角ではなく、どちらか一方が僅かに長くなっているのはそのためだが、時代を経ると余り角が尖っていると「角が立っている・・・」と言う語呂から、隅切りや角が丸くなっているものも発生する。

しかし正式な儀式では角がしっかり立っている、つまり尖っている感じのものが正しい。
そして正方形のことは「方」(ほう)と呼ばれ、長方形のことは「矩」(く)と呼ばれる。

陶器、漆器、白木、ガラスの物があるとする、これらにも順序があるが、例えば全く形状が同じならば1番は白木(木そのまま)であり、次に陶器が来るが、この陶器でも磁器が格式があり、「焼きしめ物」、つまり高温を利用して灰が融けて釉薬となった陶器は格式が低い・・・それは水が漏れる可能性があるからだ。

そして陶器の次に漆器が来るが、これはその潔さと言う観点から、白木を漆でごまかしている場合があるからで、白木でしっかり造ってあれば、本来漆など塗る必要がないはずだが、それを塗ってあると言うことは・・・と言う考え方だが、朱色の漆器に関しては時代によってその地位は上下幅が有る。

ちなみにガラスはこの場合陶器の下、漆器の上に来ることになるが、実際は「焼きしめ物」と同じ、漆器の僅かに上と言うことになるだろうか。

私は「割り箸」が好きだが、それはこうした古来よりの考え方が有るからで、「マイ箸」は省エネと言うが、それを作る為に何千円とかかるなら、10円の割り箸を100回使うのとどちらが実用的かと言う計算をするし、そんなに毎回割り箸を使っている訳ではなく、料亭やレストランなどでしか使わないのだから「割り箸」も良いと思ったりする。

が、この辺は個人の考え方の問題でもあるかも知れない。

食事の時に使う「おわん」は普通陶器のものは「茶碗」と言い、漆器やプラスチックのものは「椀」(わん)と言う漢字を使う。
陶器の茶碗がご飯を盛るのに使われるのは、その温かさの伝わりぐあいであり、一般的にご飯は汁ものより早く冷め易い、そのため長く温かさが感じられる陶器が最適で、漆器のお椀は吸い物などの汁物を入れるのに向いているが、これは陶器の茶碗の逆の考え方、つまり吸い物の熱さが伝わらず持ち易いからだ。

そしてこうした「おわん」でも蓋がついているものが、蓋の無いものより格式があるが、先ごろまで流行していた「アジアンテースト」、素朴な風合いの器などは山林作業などの合間に暫定的に作られていた物で、本来人をもてなすには陶器や漆器の蓋がある物を使うのが正しい。
またプラスチックなどの成型品は格式としては低いが、何故あのように安物臭さが出るかと言うと、形としての密度の均一性が影響している。
どんな物でも厚さや密度が均一だとそこに「ゆらぎ」が無くなり、つまらなくなる。

一方木や陶器には厚いところ薄いところ、と言う密度の不均衡があり、これが手に取ったとき微妙な感覚を与えているのである。

仏像で妙に冷たい感じがするか、表面が滑らかに見える仏像は「乾漆」(かんしつ)と言って、基本的にはプラスチックと同じ型を抜く方法で作られているが、木彫が素地になっている仏像はどこかに勢いがあるのと同じである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 自分は、”虚”が在って初めて、器はその用をなすので、実である、外側については、拘泥なく、食器類は、貰ったもの以外は、100均を愛用しております(笑い)
    修行が足りませんので、滅多に機会は無いですが、客人用は、見かけの良い貰ったものを使うようにしております。

    外形で若しくは服装でものや人を判断しちゃならない、とは言っても中身だけで勝負するほど、中身は充実しておりませんので、致し方ないかと考えております(笑い)

    それでも、ユピテルとメルクリウスが身をやつして、フィレモン、バウキスを訪ねる類型の寓話が世界中にあるようですから、なるべく、人の話を聞いて、しっかり対処しようと思っています(笑い)。
    但し今のところ、外見が良いのは詐欺師が多そうだし、その逆は、見たとおりのが多い気もします。

    自分は割り箸が好きです。プラスチックの様な有限の資源より、流行の再生可能な木材を好み、杉の場合は、間伐材の用途にもなっているので、”雰囲気”で決めつけないで、長期の持続可能な方法を、検討する余裕を持ちたいと考えております(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      見かけが良い者は詐欺師、見かけが悪い者はその見かけ通り・・・、確かに今の時代はその通りの人が多いですね。また付け加えるなら愚かな知恵者、味覚音痴の食通も多いかも知れない(笑)
      私は人間の顔を見ています。その顔が貧相で有れ、ふくよかで有れ、マズイ人間はどこかで顔もマズイ。これは顔が美男美女であると言う事ではなく、責任を負っている顔か否かと言う事かも知れません。年限性のマズイ者はその通りの顔になるし、貧しい者は貧しいなりの顔になる。そして貧しい中でもそれに甘える者と、必死で生きている者では違う気がします。孔子の「礼」は基準としての見かけも差し、これを一つの基準とするも仁義礼智忠信孝悌の必要性を何度も説いていて、この中心となるものが「仁」であると言う考え方は孫子もまた同じだったかも知れない。物も同じでそこに素材の貴賤は有っても本質的貴賤は無い。
      例えプラスチックでも100円均商品でも、その物に価値を見るのは人間であり、この意味ではどんな物も等しく尊い。この意識が有って、初めて物を見て使いこなせるのではないか、そんな事を思う訳です。

      コメント、有り難うございました。

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