「雪の日に・・・」

風の無い時に降る雪は、下から見上げると空に対比して少しグレーに近い色に見え、それらはまるで小さき者が笑いながら、ゆっくりと落ちてくるようにも見える。
そして本当に大雪になる時は、荒れた夜よりこうした静かな夜の方が危ないものなのである。

私が幼い頃、それでも6、7歳にはなっていただろうか、毎年我が家では、貧しかったが12月は28日から両親が炭焼き窯の火を落とし、翌年の10日前後まで休んでいて、年末には掃除をしたり餅をついたり、また町まで買い物にでかけたりしていたが、今のように自家用車があるわけではなく、バスと蒸気機関車を乗り継いでの買出しで、背中に大きな荷物をしょった父母が家に帰りつくたび、何かお土産が無いかと私達兄弟は慌てて出迎えたものだった。

そして餅もつき終え、神棚と仏壇に正月のお供えも終えた頃、12月31日は夕方からヒネ鶏とゴボウからダシを取り、それにコンニャクと蒲鉾、ネギを添えた醤油仕立てのかけ汁で、蕎麦やうどんを食べるのが毎年の我が家の恒例となっていたが、そうめったに食べることのできない蕎麦、うどんが好きなだけ食べられる、こうした大晦日の夕方と言うのは子供にとっては本当に嬉しいものだった。

だがどうだろうか、こうした時代、記憶にあるのは3年ほどなのだが、毎年大晦日の夕方、いや正確には午後5時か6時ごろ、皆で蕎麦やうどんを食べている、ちょうどその時刻に家を訪ねてくる者がいた。

外はただ音も無く降り続ける雪の中、建て付けが悪く、何度か勢いをつけないと開かない家の玄関の前に立つ者、それは「乞食」の親子だった。
おそらく母と娘なのだろう、母親の年齢は私の母と同じくらいだっただろうか、そしてその娘はたぶん私より1歳か2歳ぐらい下だったと思うがそんな年頃で、外の景色を背景にその姿はまるで消え入りそうなほどか細く小さく見えた。
母親はまず玄関へ入ったなり、例えそこへ出てきたのが私のような子供でも構わず土下座し、そして「困っております、お恵みを・・・」と言うのである。

当時おそらく乞食と言う概念のない私には、この親子にどう接したら良いのかが分からず、それで必ず両親や祖母を呼ぶのだが、祖母や母達はこの母親には米や餅、そして娘の方には100円札を渡し、母親はそれを白い大きな袋に入れ、娘もまたお金をその袋に入れると、「ありがとうございます」と言って、今度は玄関を出てから外で土下座をするのである。

そしてその時は小さな娘もまた、積もった雪の中に手をついて、お辞儀をするのだが、2人が少し家から離れた頃に玄関の戸を閉める私は、外にモミジのような小さな手の跡と、母親の少し大きな手の跡が並んでついているのを見て、何かを思ったのだが、その感情は文章では表すことができない。

おそらくこの親子は、本当は私が記憶にある以前数年まえから、こうして大晦日になると、この村を回っていたのだろうが、勿論この村の者ではなかったし、私が9歳か10歳ぐらいになると来なくなったのだが、それでも少なくとも3年はこの同じ親子がわが家を訪ね、そして私はこの親子から何か大切なことを教えてもらったことは確かだった。

母親は多分、片足が不自由、と言うより歩く時に体が大きく上下していたこと、杖をついていたことを考えると、もしかしたらどちらか片方の足は義足だったのかも知れなかった。
またその着ているものも、綿の擦り切れたところが破けたもので、その上から当時皆が冬になると着ていた、黒いフードつきのマント、ちょうど銀河鉄道999に出てくる「メーテル」が着ているような、あんな上着をはおり、それもところどころが変色している、そう言う出でたちだった。

また娘の方も黄色かベージュか分からない、色の変色したセーターの上から同じように小さなマントをはおっていたが、小さな顔に、どこか諦めたような、ひどく大人びた目をしていて、決して同い年くらいの私とは目を合わそうとはしなかった。
一度私はこの親子が外で土下座をしようとするのを見て、それを制止しようとしたことがあった、だがその時一緒にいた祖母はそうした私を止めた。
あの時、なぜ祖母は私を止めたのかは分からない、そして勿論祖母があの親子の土下座を見て優越感に浸りたかったとも思えないが、なぜか祖母は止めに入ろうとした私の袖を引っ張って、厳しい目で私を睨みつけたことを今も明確に憶えている。

思うに、子供の私が止めに入れば、暴言を吐れるよりも、この親子には惨めな思いをさせたかも知れない、また人の運命に、まだ自分ですら養って貰っている身分の者が何をか言わん・・・、だったかも知れない、人の運命はその人でなければ切り開くことはできない、所詮人はそれに僅かなものを恵むことはできても、それ以上助けられる、はたまた同情をかけることは「傲慢」だと言いたかったのか・・・、それは分からない。
しかし、もしかしたらそれは、後年、こんな年齢にならなければ分からないことだったのかも知れない。

私はこの娘のことが可愛そうだった、同じ年頃の子供なのに、片方は暖かい囲炉裏を囲んで蕎麦を食べる、その一方で凍えるような寒さの中、フードに雪を溜めて歩く者がいる、このことが心臓が張り裂けそうなほど悲しかったに違いない。
祖母がみんなの所に戻って行ったのを見はからった私は、自分の宝物を入れていある、みかん箱のところまで足音を忍ばせてたどり着くと、そこから大切にしている雄キジの尾羽を取り出した。

このキジの尾羽はたまたま雪道を歩いていて、空からキジが降ってきたことがあった時のもので、おそらく猟師が撃ったものだったのだろう、それが偶然にも目の前に落ちてきて、慌ててランドセルの中に隠して持ち帰ったものだったが、肉は家族と一緒に食べ、綺麗な尾羽は私の宝物になっていた。
私はそれを持ち出すと、こっそり長靴を履いて外に出て、くだんの親子をその景色の中に探した。

しんしんと降る雪に遠くの景色もみえないほどだったが、暗くなった雪道、その少し先に雪でかすみながらも、街灯の灯りに浮かび上がる大小の黒マントの影を見つけた私は、走ってその後を追った。
息を切らして、「あの・・・」と呼びかける私に振り返った親子、そして私は「これ・・・」とだけしか言えずに、女の子にキジの尾羽を手渡すと下を向いたまま、逃げるようにして、もと来た道を走って家へ戻った。

今から思うに、いくら自分の宝物だったとは言え、キジの尾羽よりは何か他の金か食べ物にしておけば良かった・・・と反省しないでもないが、キジの尾羽を手渡した瞬間、あの女の子が少しだけそれまでと違う表情をしたように思ったが、それがどんな表情だったのかは忘れてしまった、またもしかしたら、表情が変わったと思っていることすら、後年に自分で作り上げた幻想ではないと言い切れるものではない・・・。

生きると言うことは、本当はとてつもなく恐ろしいことでもある・・・。
こうして静かに雪が降る師走・・・、あの親子は、女の子はどうしているだろうか。
大人になって結婚でもして、子供と一緒に今度は暖かい部屋で蕎麦でも食べていてくれたら嬉しいのだが・・・、いや彼女だからこそ、そうであって欲しいと思うのだが・・・。

外は静かだ・・・、天からはまるで小さないたずら者が沢山、底が抜けたように舞い降りてきている。
窓を開けると、まるでそうしたいたずら者達が部屋を覗くようにして下へ落ちていく、そしてその彼方には白い道が果てしなく続いているように見える。
ふと遠くのかすむ街灯の下に目をやるが、そこには勿論大小の黒いマントを着た2つの人影などはあろうはずもなく、ただ雪がそうした私を笑いながら降り続ける・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「雪の日に・・・」

    良い話だ。

    それを知っている人たちの大部分は鬼籍に入り、あと数十年もすれば、殆ど人々の記憶からも無くなるであろうが、寂しい事だ。

    土下座を止めなかったのは、見識であるが、そこには慈悲が人々の中で生きていたことを示すものであろう。

    今は選挙で、仮初の安い土下座が流行っているらしいが、今年は特に多くなるだろう(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      もう40年近く前の事になってしまう話でしたが、今でも私は当時の事を鮮明に憶えていて、どこかでは忘れられない出来事でもありました。
      弱肉強食は生物の基本原理ですが、この基本原理をその通りに実践する姿の大切さ、その謙虚さを思います。
      今はもう忘れ去られてしまった感覚かも知れませんが、それゆえ自分1人でも記録に残しておかねばと言う気がします。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「消失する炎」・1

    生物には自ら死滅するための遺伝子が組み込まれているらしいが、きっとその反対の働きをするであろう遺伝子も組み込まれているのであろう。
    通常は休眠していて、何かの切っ掛けで活動を開始する。だからと言って、DNA解析で、そんな遺伝子を見つけて排除できたとしても、多分その機能の片方だけに目を奪われているのであって、「回復」も同時に失うという事かも知れない。

    ルワンダ~ウガンダ辺りでは、HIVの保持者が一生涯発症しないという例がいくらでも有るらしく、啓示とみるべきかどうかはともかく、治療不能と言われたAIDSでさえ、今は長期延命が可能になった。

    昔カリマンタンで野火~山火事が何年も続いて居た時、報道では詳細が不分明だったが、つまり通報者が、しっかり理解していなかった。あれは地表近くの泥炭が燃えてたのであって、100%鎮火はかなり困難で、今は一応の終息に成っているようだが、これもいつ再燃するか不明なのは、生物の病気とも似ているのかも知れない。

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      我々がやっている事は本当に自身たちだけの力で為しえているのかどうかと言う話ですが、そもそも何らかの事象が発生する根本は自然、地球や宇宙に有って、そこの上で人間が出来る事はほんの僅かな事でしかないと言う事を思わねば、目の前の現実を見誤るだろうと言う気がします。
      食の安全を保証しているものは政府の規制ではなく、その環境で有る事、災害が少ない事は天の恵みで有る事を忘れるならば、災害はいつでも大災害になってしまう。
      ウィルスなども、一つを殲滅しようとすればその10倍の数の「亜種」が発生して来る。
      触れば触るほど泥沼にはまっていく、その隙間を成果と考えるととんでもない事がなっている、そんな気がします。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「消失する炎」・2

    幸福なものは、今の幸福が永遠に続くと思い、今の不幸は明日終わると思う、逆も真なり(笑い)~~♪

    状況は、鴨長明の「ゆく川の流れ」

    ダライ・ラマ14世は、人間は誰でも幸福を求めるもので、そこで一番重要なのは、富裕とか友人とか地位とか名誉とかも一要因であるが、実は健康でさえも無く、慈悲の心だ、と仰っているようにも思える~~♪
    健康は重要だが、大声で「健康だったら命は要らない」と言う気も無い。生来、不健康、障害その他の方が多いのに。

    癌は1~4期で論じられれる事が多い、生検でその進行度は概ね判明するけれども、実は、その癌が、そこに留まっているのか、各所に転移するのかは不明で有り、重要なのはこちらの方なのに、その機序は未だ不明で、1期の早期発見・早期治療だから、余命・生活の質が高い事を担保するものではないらしい。治療は日進月歩ではあるが、本人の晩期の苦痛は、他の者には計り知れないものがあるだろうに、清く正しく希望を持って最後まで治療を継続すべきだ、と言う議論には自分は与しない~~♪

    1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

      日本人は特に価値観を他者に頼り易い傾向にあり、いつでも健全で元気で有る事が善いとされますが、現実には順風満帆なときの方が人間は失敗が多い。
      何がよくて何が悪いかは結果次第ですが、その結果とて未来にはどうなるかは解らない。
      少なくともいえる事は、今の僅かな苦痛をしのぐ為の安易な逃げは、未来で問題を大きくするだろう事を思います。
      そしてこうした現実に素直に立ち向かえる人間もまた少ない。
      結果から言えば、その時々で最善と信じるものを実行して行くしかないのですが、こうして自分が納得できる事をやっていくのが生きると言う事なのだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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