「あなたはオリジナル?」・2

どのくらいの時間が経過しただろうか、パウルスはまんじりともせずに自身と恋人の姿を追っていたが、やがて2人はボートを岸につけると、今度は近くにある簡易レストランへと入っていったが、そこでも恋人達は実に仲がよく、外から窓越しに見えるエヴァの幸せそうな顔は、今のパウルスに更に深い追い討ちをかけるものとなっていた。
「俺の前ではあんなに嬉しそうな顔などしたことも無いが、自分の偽者の前ではあんなに幸せそうだ、一体俺は何だったのだろうか」

パウルスは腹が減ってくるのも忘れて、彼らのことを眺め続けた。
だが、パウルスは漠然とだが、これから先彼らがどう言う行動になるかを知っていた。
なぜなら、この日のデートはエヴァの両親が朝から夕方まで留守になることから2人で決めたものであって、こうして湖から帰った2人は、それからエヴァの家に行き、その先はどうなるか、それはパウルス自身が一番良く知っていることだった。
そしてパウルスが思ったとおり、エヴァともう1人のパウルスは食事を終えると、今度はエヴァの家に向かい、やがてドアの向こうに消えていった。

この先はもう分かっている、だが今自分が慌てふためいてエヴァの家に入って行けばどうなるか、パウルスは一糸まとわぬ2人の前で何と言えば良いのか・・・、いやどうしていいのか分からなかった。
暫くエヴァの家の近くに佇んだパウルス、やがて彼は気が付くと、力なく踵を返し、自分の家へと帰り道を歩いていた。
そしてもう自分の家が見える距離まで歩いてきたとき、パウルスの少し前を歩く人の姿が目に入ったが、それは何と自分が今着ている薄手のジャケットであり、その後姿はまぎれもなく彼自身だったのである。

「くそー、どこまでもバカにしやがって」パウルスは今度はエヴァもいないことから、走ってそのもう1人の自分を追いかけた。
しかしパウルスがもう少しでその自分に追いつこうかと言うとき、もう一人のパウルスは振り向きもせず、スルリと家のドアを開けて中に入って行ってしまった。
そしてその後を鬼のような形相で追いかけて、家に入ったパウルス、だがしかしそこには母親が不思議そうにこちらを眺めている姿があるだけだった。

「お帰り、今日はエヴァと会うんじゃなかったの」
「母さん、今誰かここへ入って来なかった」
パウルスは家のあちこちを探し始めたが、どこにも誰もおらず、そして母親も誰の姿も見ていないと言う。
「一体、あいつは何なんだ・・・」
パウルスはついに頭を抱えたが、そんな息子の不可解な行動を母親は黙って見つめるしか手がなかった。

そしてパウルスの日記はこの少し前、自分自身が家に入って行ったことまでを記録して、次は永遠に綴られなかった。
この4日後、パウルスはくだんの湖で水死体となって発見され、この日記から、精神的に不安定なってしまって自殺したのだろうと言うことになってしまったのである。
だがこの事件にはおかしなことがある。
それはこの最後の場面の母親の供述だが、彼女が家に帰ってきた息子を見たのは、午後3時20分、そしてその頃エヴァもまた同じパウルスと共に自宅で過ごしていたのであり、エヴァの証言では少なくとも午後5時過ぎまでは、パウルスと一緒にいたことは明白なのだ。

また母親は事実上、血相を変えて帰ってきて部屋へ入って行った息子の姿が、生きている息子の最後の姿になっているが、結局パウルスはそれから部屋を出た形跡もなく、行方不明となってしまった。
ではエヴァと一緒にいたパウルスは誰か、そしてもっと考えれば、そもそもこの日の日記を書いたパウルスはどっちのパウルスだったのだろうか・・・・。

通常人間が無意識に持っている自己の容積や形状の情報は、実際物質的に存在している自分の場所と重なっている、だから人は歩いていても人とぶつからないのだが、ではこの自己位置認識作用が異常をきたした場合はどうなるか、その場合は実際に存在する自己の位置と違った場所に脳は自己を認識する、つまり自己は視覚的情報としての自己を別の空間に見てしまうことになるかも知れない。

しかしこうした場合は、自分自身を見てしまうとしても、それは本人の脳の作用だから本人以外には見えないことになるが、パウルスの場合は母親が見たパウルスとエヴァが見たパウルスの2つが存在し、そのどちらかが非オリジナルだとしても、明確にどちらもパウルス以外の第三者が見ていることから、こうした仮説は成り立たないが、エヴァともう1人のパウルスの様子を眺めていたパウルスは、そもそもオリジナルだったのだろうか、自身をオリジナルと思っていたとしても、その自分が非オリジナルの可能性はなかったのだろうか。

そして一体パウルスに何があったのだろうか・・・。
こうした現象を一般的にはドッペルゲンガー現象と言うが、それによると、こうしてパウルスのように生きていて自分自身に出会うと、その本人は死ぬことになってなっているが、現実にはこうした現象に出会っても生きていた人も多く、場合によってはドッペルゲンガーのおかげで命を救われたと言う例まである。
またパウルスの事件があったこの地方、ハーメルンだが、そのむかしから不可思議な伝説も残っている、そう言う地域でもある。

さて、ところでこれを読んでくれているあなた、そうあなただが、オリジナル?、それとも・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「あなたはオリジナル?」・2

    落語の粗忽長屋で浅草観音詣でに来た八五郎は行倒れている同じ長屋の熊五郎を発見して、長屋に戻り、生きている熊五郎に遺体を引き取りに行かせるが・・遺体を抱いた熊五郎は、確かに俺だが、抱いている俺は誰だろう~~?

    最も確からしい、自分も実は、確かではなく、「われ思う、故に我あり」と言っても、「我あり、故に我思う」でもあり。

    繰り返しだが、熱帯の小高い丘に登って、自分にまとわりついた蝶が、夢を見て、自分が見ているものを見ているのか、自分が夢を見て、自分にまとわりついている蝶を見ているのか、実は不確かで有るのかもしれない。

    現代は、怪しい悪行を自撮りして、ネットに投稿して逮捕される人も多いようだが、どのように見たらよいのか・・彼らの中の「自己」は何なのだろう、多分、悪い夢を見ているのだろう、とは言うものの、自分も悪い夢を見てるのかも知れないが、目覚めたら、もっと酷いことになっているやも知れず、覚めない方がまだしも良さそうだ~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      量子力学的な面からすれば、こうした話は時々発生してもおかしくない可能性を持ちますが、似たような話は全世界にそれぞれ発生しているようにも思います。
      つまりは我々の見ているものは完全なものではなく、それを完全にしているのは社会システムだと言う事なのかも知れません。
      そしてこうしたシステムから外れると恐怖を感じるのは、その一部が社会崩壊と言う者を思うからかも知れません。
      地震が存在する社会秩序の崩壊は、ある種自身の「場」の崩壊でも有ります。
      この意味では社会は、やはり物理的原理、或いは本能の一部と言う事になるのだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「視覚と記憶」

    共通体験、疑似でも~類似知識でもなければ、ヒトとして与えられた進化上の能力を超えたものには、共感も・理解も発生しにくいと思われる。
    先人の話を直接聞くことは非常に限定的にしかできないもので有り、それを代替するものは、記録であろうが、それを跋渉入手していなければ、そもそも理解が発生するとは思われない。
    サン族は、文字も遺物も無いが、人生のほとんどの時間は、座って雑談していて、先祖の記憶を共有しいるらしい幸福な民族であるかも知れない。

    自分の人生の絶頂期は十二三歳の時に現れて、それ以降は下り坂で有るが(笑い)、だからと言って、十五六歳からやりなおしたいとはとても思わない、きっと今より失敗する。
    家族でも血族・姻族でも民族でも国民でも、共通の体験・知識が有って、初めて理解が有るのであって、同一言語・地域・政体・環境に居るからではない、という事を再認識すべきであろうけれど、世は大抵、大多数を占める、或る意味バ〇によって、作られ壊され、ま、何とか生きてゆくのが精一杯~~♪

    先週、海の方をうろついたら、ウグイスが盛んに囀っていたが、今日当地でも今期初めて聞いた。もう半世紀に喃々とする昔日、郷里の海辺の防風林で、潮騒を聞きながら、段丘の草地に寝転んで、ウグイスの音を聞いた、そんな若いころの事をも思い出した、青春は、瞬く間に過行く~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      我々は記憶を過去のものと考えていますが、その現実は今作られていると言う事かも知れません。
      ですから視覚の中で経験と言う蓄積、道を広げる作業が始まると、他の事は飛んでしまい、それだけになって行って、やがて人間の思考は暴走する。
      そして近年のようにバーチャルがリアリティを求め続けると、現実が面倒くさくなってしまう。
      これでは結婚適齢期が来ても結婚は出来ないし、欲望だけが暴走して現実は蔑ろになる。
      まさに今の日本そのものと言えますね。

      コメント、有り難うございました。

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