「一本のあぜ道」

田んぼのあぜ道は細く、それは1人が歩けば他の者は通れない。
だからそこには古よりの不文律がある。
すなわち子どもよりは大人が、そして田んぼの所有者が、また後から入った者より先に歩いている者に常に優先権がある。
が、しかし田舎では一様に皆が人に先を譲るが、こうした不文律を知らない者ほど人に道を譲ることを知らない。

また農道と名のつくもの、それは農家同士が自分達の土地を削って、協約で道をつけているため、本来こうした道路はそこで農業をしている人しか使えない、つまり農道と言うものは農家の共同道路であって、基本的には農家以外は許可なくそこを通過することはできないし、また車を止めることもできないが、ここでもこうした仕組みを知らない者ほど、自身の権利を主張する。
すなわち、「ここは天下の大道、余が通過しておるのだ、道を開けよ」の態度の者が多くなるのだが、そこは初めから天下の大道ではないのだ。

おかしなもので、知っている者と言うのはそういたずらに権利を主張しないものだが、知らない者ほど小さなことでも権利を主張する。
そして世の中と言うのはあらゆる場面で、1本の道を廻って争いや葛藤が起こり易いものだ・・・。

中国明代末期に書かれた「菜根譚」(さいこんたん)と言う随想集にはこうしたことについて面白いことが書かれている。
すなわち1本の細き道があって、そこを向こうからこちらへ歩いて来ようとする者あれば、常に人に道を譲れ・・・、とするものだ。
菜根譚は本国中国ではそれほどに重きを置かれず、かえって日本の「禅」思想の中で盛んに読まれた処世訓だが、それだけに読み取るものは深いものがある。

勿論人に道を譲ると言うことは謙譲の美徳からしても大切なことであり、そこに人を思いやる気持ち、また相手の立場に立って物事を考えると言うことの大切が存在するが、しかし菜根譚のそれはこうした表面上の「徳」のみならず、もっとしたたかな思いがそこに沈殿している。
ここで人に道を譲るは我の為なり・・・、が見え隠れしている。

ビジネスで最も大切なことは何だろうか、いやビジネスでこれだけは外せないものとは何だろうか、それは「利益」と言うものではないだろうか。
人が幸せを現実にする手法は様々だが、そもビジネスでそれを築こうと思ったものは、まず利益を出して、そこから周囲にもそれを分配し、その利益で社会正義を実現するのが道と言うものだろう。
こうした者が徳を持って云々であれば、それはビジネスから遠くはなれ、結果として思う自身のありようは現実にはなるまい。

そしてこうしたビジネスの必須条件である「利益」には2種類あって、その一つは儲けることであり、もう一つは「損をしない」と言うことになろうか、菜根譚はこうした「損をしない」と言うものについてその在り様を説いている。
利益と言うものに措いて、そもそもこの「損をしない」と言うことはとても難しい。

儲けると言うことの根底には、日々の努力が必要になるが、ではこの日々の努力のなかで最も大切なことはなんだろうか。
営業で成績を上げるために毎晩接待もその一つだろうし、ゴルフに付き合わなければならないのも一つだろう。
だがそれ以前にも必要なことがある。
毎朝、出会う人みんなに挨拶をしているだろうか、また、たまたま会議で意見が合わなかったからと言って、その人とは疎遠になっていないだろうか。

人間の正義などは所詮個人の好悪の感情から外れるものではない、だから少なくとも毎朝みんなに挨拶をしておく、また例え意見の対立があってもそうした者も親しい者も同じように接する、同じ頭を下げるならより深く頭を下げる、狭い道路で向こうから車がきたら、どう思おうとも構わないが、とり合えず人に道を譲る・・・、これらのことは接待のように金がかからない企業や個人の営業努力と言うものであり、これこそが「損をしない」と言うことに他ならない。

菜根譚の言う、人に道を譲ると言うその謙虚さの意味するところは、実に自身の可能性を広げる努力にほかならない。
今気に食わない行政の若い職員も20年後には幹部になっているかも知れない、また自分の娘婿の親が過去に喧嘩した相手だったら困るだろう。
だから少なくとも、敵の数は少なくしておきなさいよ・・・と言うことなのだ。
しかも菜根譚はこれを「徳」と言う思想で言っているだけではない、むしろ自分の利益にためにやるべし・・・、と言っているのであり、その利益の先に更なる深い「徳」を説いているのである。

鑑みて今、自身の在り様はどうだろうか、そんなことを言ったってみんながそうだからと、「俺様に逆らうつもりかバカ者めが」になっていないだろうか、「私が通るのよ、下々の者は道を開けなさい」になっていないだろうか。
利益と言うものは傲慢な者のところには長く留まらない、暫く調子が良くてもすぐにそれはひっくり返されるが、普段から謙虚な者はもしかしたら多くの援助が広がっているかも知れない。

あぜ道は細い、そしてその細い道を両端からそれぞれ向こうに行きたい者がいるとき、これは時に対立と言うものであるかも知れないが、このときは良く考えるが良い、それを譲って自分が損をするか得をするか、いたずらに時間がかかって、しかもお互い嫌な思いをするなら、そこはそれこそ己が利益の為と思って道を譲るが良い、それは恥ずかしいことでもなければ負けたのでもない、大変な大儲けをしたのである。

社会の景気が悪くなると、いろんな意味で人々の心は乱れる。
金にゆとりがあれば笑って済ませていたことでも、余裕がなければそれを許せなくなるかも知れないが、結果としてそうした有り様ではさらに自身が貧しさに追い込まれていく。
苦しい時、利益が出ない今の時代であればこそ、謙虚であることが最も利益に近い道と言うものではないだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「一本のあぜ道」

    無茶苦茶な性癖の雑多な民族が雑居していた支那で、必然的に成立した論語であるが、朝鮮・東南アジアその他に伝搬した。
    国内では、その悪い面は生き残ったが、人間性に基づく道徳は、そもそもない連中だったけれど(笑い)根付く事は無く現世の自己利益の為なら、公も国家も法律も関係なし、と言う反面教師としての粋だけが残った。
    その辺縁に有った、朝鮮では、それが強調されて、社会の隅々まで浸透して、未だに猛威を振るっているが、自覚は無い。
    日本は、幸いにも、神道仏教などの影響もあり、道徳・哲学としては、普及したが、悪い副作用としての面が浸透しなかったのは幸いであった。
    東南アジアではそもそも理解する必要も無く、湿地帯の米を食って、魚を食って、陸地にある野生の果物を食って居れば、悩むことも無く、自然と共に生きればよかったので、大きな影響は無かったらしい~~♪

    先行する人を、その人が追い越す場合でも、天下の大道とは言え、歩を緩め、帽子を被っていたら、やや浮かせて、緩い笑顔で挨拶をして、又急げば、双方揉めることもないが、他国の領海を、国旗・軍旗も掲揚しないで、示威通過するなら、偶に機雷でも敷設しておいて、近接信管で破裂させてやればよい~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      徳の始まりは「利」とも言われ、これが儒教思想でオブラードにくるまれた為、以後の人間は徳と利の間に苦しむ事になったような気がします。
      つまり「利」の概念が無ければ、遠くを旅するに電車が無い能登同じような現象が発生してきます。
      「利」の極みに徳があり、徳を徳たら占めるのは「利」である事を始まりとすれば、徳が見え易くなるかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「言葉には意味が無い」

    日本の為政者は、事あるごとに、靖国神社と伊勢神宮に参拝すればよい、どの国の誰が、勿論邦人でも何を言おうが、反論もせず、うっちゃらかしておけばよい、2~3年は喧しいが、その内常態化して、何も言わなくなる、只、参拝する方は、常に新しい気持ちで、国家と国民の為に奉仕する気概を新たにしないと、ミイラ取りがミイラになる~~♪

    今文句を言っている連中は、儒教の悪い面に侵されている連中で、日本人の死生観とは、全く違い、実は相互理解という事が出来ない状況で有り、特に、この100年位は、正当性を欠く自己の国家成立を証明できないので、「妄想」で国民・他国を欺瞞しているわけで、常にそれを援護する論理を作る必要があり、正しい歴史が白日の下に晒されれることが有ってはいけないのであるから、説得するだけ無駄である。
    先方が何を言おうが、こちらはこちらで国家の安寧と国民の福利を向上するための政策を実行して、それを担保する力を蓄えればいいだけである~~♪

    自己の投影でしか、ものが見えない連中と言葉は通じない(笑い)~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私たちは言葉だけで人を信じているわけではなく、それに付随したものをして言葉を担保している部分があります。
      その付随したものが行動や結果であるときや、或いは表情だったりする場合も有りますが、言葉は言葉だけでは意味を持てない。
      記録や説明には使えますが、何かを伝えるときは言葉以外のものを鍛えなければ伝わらない。
      それは自身の生き方を鍛えると言う事なのかも知れませんね。

      コメント、有り難うございました。

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