「統帥権」・1

およそ武力と言うことであれば、それは個人が拳を振り上げることからでも始まるが、これが2人以上になってくると、「作戦」と言うものが必要になってくる。
すなわち個人ならどう戦うかを考えるのも自分の裁量なら、実際に殴ったりするのも自分であるから、全てを自分で判断することになるが、これが2人以上だと憎い対立相手が必ずしも同じ憎さであるとは限らない、そこには共通の感情があったとしても、憎いと言う感情には濃度の違いが出る。

そこでどこまで、どう戦うかと言うことを意思統一し、決めて行動しないと共通の目標を達成するにしても、2人以上が共同した効果が出ず、互いの感情の濃度についても相互認識されていないと、どこまで戦って良いのかも分からなくなる。
例えば少し痛めつけてやろうと思っていただけなのに、怪我を負わせてしまう、または殺してしまうと言うことであれば、それは片方が望むことであっても、もう片方はそこまで望まないと言う事態を引き起こしてしまうのである。

ここに個人の場合であれば、感情だけの武力は成立するが、これが複数になったときは殴ると言う実戦行動と、「作戦」と言う全体を見渡した「考え」が必要になってくる。
つまりどう戦って、その目標は何か、そしてどこまで戦うかと言うことを考える、実際に殴ると言う行為の他の全体を見渡した視野と、対費用効果を計算する冷徹な「智」の部分が必要になってくるのであり、こうした「智」の部分が「統帥権」(とうすいけん)の始まりと言える。

そしてこれが「金」で雇われている場合、また権力によって戦闘目的で集めらているものを一般的には「軍隊」と呼び、この場合は相手に対して特に憎しみもなければ、何の感情もなくとも殺戮が指示されるが、こうした行為、つまり憎しみもない者を殺していくことの根拠、またはこれに正当性を与えるものもまた統帥権の役割である。
すなわちそこには「作戦」と言う個人では避けがたい全体性と、そこから発せられる「命令」と言うものに措ける絶対性によって、個人が本来持つ「罪の意識」が正義や平和と言ったものにすりかえられるのである。

だから結果として軍隊に措ける一兵卒に戦争の責任を問うことはできない。
互いに殺戮を繰り返す戦争と言う行為に措いて、その責任を問われるのは実際に命令されて殺戮を行う兵隊ではなく、その全体を見渡して殺戮を指示した、いわゆる戦争で実戦と作戦と言う部分があるなら、その作戦に拘わった者にこそ、責任が問われるのであり、こうした責任と軍隊を動かす権利のことを「統帥権」と言うのである。

そしてこうした統帥権は、一般的には軍そのものや政治と区別した形で考えられるのは、例えば軍幹部の個人的事情、または為政者の事情によって、国家国民の平和と安全を守る軍隊が動かされてしまうことを危惧するためだが、では実際のところはと言うと、例えば第二次世界大戦ではどうだったか、アメリカでもやはり統帥権は独立した形ではあったが、基本的に大統領の権限はこれを覆うものであったし、ソビエトのスターリンは独裁によって、またヒトラーも同じく独裁によってこの統帥権は時の指導者のなすがままになっていた。

また日本でも本来、大日本帝国憲法では統帥権が天皇にあるとしながらも、実際には輔弼者がそれを運用し、天皇はこれに逆らわないことが不文律となっていた。
そのため輔弼者である日本軍参謀本部がこの統帥権を運用していたが、これは軍人が内閣総理大臣になっている場合では統帥権のあり方としては正しかったが、東条英機内閣で、東条はこの大権を自身が運用できるようにしてしまい、ここに東条もまたヒトラーのように独裁色を明確にしていったのである。

このように統帥権と言うものは大変な、言い換えれば国家そのもののような大権でありながら、それが机上の考え方からその端を発していることもあって、いつの時代、どの国でも不安定なものであり、曖昧かつ常に強弱が周囲の国家的環境によって変質し易いものでもあったのである。

では現在アメリカではどこに統帥権があるのかと言うと、それは合衆国大統領の手の内にある。
そしてロシアでは一応の手順はあるとしても、事実上ロシア皇帝並みの権力を持つプーチンの手にこの統帥権が有ると見て良いだろう、また中国では国家主席の胡錦濤(こきんとう)が、そして北朝鮮ではかの金正日国防委員会委員長がやはりこの統帥権を掌握しているが、日本に措ける自衛隊の統帥権は、現在鳩山内閣総理大臣の手中にあることになる。

だがお隣の韓国だが、韓国の統帥権は実は昨年2009年まで、アメリカ軍大将がその権限を持っていた。
韓国の国防思想には平時と戦時の考え方があり、平時の統帥権は1994年12月にアメリカから韓国に返還されたが、戦時に措ける統帥権は、韓国軍だけでは万一北朝鮮と戦闘体制になった場合、到底守りきれるものではないことから、韓国軍そのものが米韓連合軍体制の中にあり、従って連合軍司令官のアメリカ軍大将にこの統帥権が委ねられていたのである。

しかし年々増強される韓国軍、そして2002年に発生した在韓米軍装甲車による、女子中学生轢死事件に端を発する在韓米軍地位協定改正の機運は、こうした韓国軍の格上げ問題をも提起する結果となって行った。
そしてこうした韓国に配慮する形で、アメリカの当時の国防長官ラムズフェルドは、2009年までに戦時統帥権の韓国返還を口にし、それを2006年9月、当時のアメリカ大統領ブッシュが、追認したのである。

ただどうだろうか、現在でも韓国に展開するアメリカ軍の代わりを全て韓国軍だけでカバーできるかと言えば、それは無理と言うものだろう、従って名目上は返還された韓国の統帥権だが、その実態は依然アメリカの手中にあると言えるのではないだろうか・・・。

「統帥権」2に続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「統帥権」・1

    小事から、最近の流行は、統帥権を持っているのに、無いと言い張るようで、高学歴~高知能と思われる職務の人が、それに何も疑いを持たず、それを根拠にして、法廷闘争をする、と言う、一見法治国家の様に見えて、実は近代の悪しき証拠主義と言うべきか、軽薄化に歯止めが掛からなくなって、法を厳正に執行すべき立場の者が、自己を見失い、法によって裁かれるものが、適正に実施されず、最も重要な被害者の救済はなおざりになり、無念がますます、増幅される。

    簡単に言えば、日常的な出来事で、付きあっていたものが、振られて、逆上した容疑者が、相手を十分に殺傷能力のある、刃物で、首や胸を何回も強力に刺して、殺して、我に返っても救護措置を取らず、その場を逃走して、後日逮捕されて、殺意は無かった、という事で、心神耗弱その他も理由として上げられることもあるが、行為に対して、罰すべきで、特段の状況では、酌量の余地もあるだろうが、「殺意を証明できない」と言う阿保な事が横行している~~♪

    せめて道路端で、怪しい輩に刺されない様に、状況確認とかしないで、さっさと距離を置き、暇なら(笑い)、最寄りの交番に通報しよう~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      第二次世界大戦の直前、多くの国がこの統帥権を国家代表が兼務する形になって行ったことは大きな悲劇でした。
      初めは日本も統帥権が独立していたのですが、東条英機に拠って内閣総理大臣が統帥権を兼務してしまった。
      ここから旧内務省システムが日本を全体主義、ファッショへと導いてしまった経緯が有ります。
      私は一番嫌いなのがファッショ、全体主義ですが、これは今の日本も戦前の日本とそう大きく変わっていません。
      つまり日本は全体主義が長く続いている国だと言う事でもあります。
      そして今のしらけ政治です。
      この先は期待できませんね・・・。

      コメント、有り難うございます。

  2. 「光が闇を作る」・1

    混乱時に悪事が増大するのは、昔の何とか教団の「定説」は怪しいが、経験的にも、統計的にも正しいだろうと思われるが、防ぎようが無いような気もする。
    留守のお宅からお金を盗む人もいるが、長い留守だともっと出るのでしょう。
    それでも、日本は、日本以外の国々に比べたら、発生率はかなり低いだろうと思う。
    明治期などに、日本に来た外国の人々が、地震や大きな火事が、収まった後に、笑顔とも見える顔で、集まって来て、早速片づけを初め、普段の生活と変わらない感じで、新しい生活を始めていた、と言う記録は多い。
    まあ、災害慣れしている、という事もあるが、きっと当時の方が、今より失うものが少なかったし、助け合って生活していたのだろうと思う。

    現代は寛容性が無くなって来てもいるだろうし、視野狭窄にも陥っているのだろう、この物資豊富で情報過多な環境で、知足を失った~~?

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      人間は美しいばかりではなく、汚いものもあっての人間です。
      これを半分見ないようにして過ごせば幸せかも知れない。
      でもいつかはその現実の壁にぶち当たったとき、その人間はそれまでの考え方が逆流してしまうし、現実に一般社会とは乖離して行く。
      やがて綺麗だけど誰も人がいない町並みと、復興したけど経済的には破綻した地域が発生する事になります。

      コメント、有り難うございました。

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