「十字架が燃えている」・2

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                              2010 2 21 撮影

そして1955年6月、18歳になっていたジュリーはまた母親と一緒に、今度は日曜礼拝のため教会へ出かけたときのことだった。
皆が敬虔な祈りを捧げているその最中、突然席を立ったジュリーは半狂乱になって叫んだ。
「十字架が、十字架が燃えている・・・、真っ赤になって燃えている」
正面にある十字架を仰いで叫ぶジュリー、その顔は既にまともな者の顔ではなく、またしても異様に光を帯びた目は、慌ててこれを制止しようと駆け寄った牧師の顔すらも目に入っていないようだった。

礼拝に訪れていた人たちは、この騒ぎにびっくりして祈りを中止し、そして教会は騒然となった。
みなおそるおそるくだんの十字架を見上げた、しかし赤い炎も赤い光も見えはしない。
「ジュリーはとうとう狂ってしまった」
「いや、悪魔にとりつかれたんだ」
そんな声が飛び交っていたが、ジュリーは十字架に向かって、かっと目を見開いたまま動かない。

「このインマヌエル教会は来週の金曜日、そうよ来週の金曜日に焼けてしまうのよ」
牧師の制止にも拘らずなおも叫び続けるジュリー、これに対してついに牧師はジュリーを連れて教会から出て行くよう母親に命じるしかなかった。
小さな町のことである、この事件は瞬く間に町中に広がり、床屋や酒場でもジュリーの話でもちきりになった、そのうちこうしたジュリーの常軌を逸した予言が的中するのではないか・・・そんな話まで出てきて、面白半分に的中するかどうか賭けを始める者まででてきた。

ところがそのまさに次の週の金曜日、午後9時20分のことだったが、インマヌエル教会は突然火を噴き始める。
夕方から吹き始めた風は燃え盛る火に更に勢いを与え、瞬く間に教会は劫火につつまれ、その勢いは教会だけに留まらず、隣接する民家にまで燃え移る大火となったのである。

そしてこの火事では出火原因がどうしても分からなかった。
それ故もしかしたら火事を予言したジュリーが火をつけたのではないか・・・、そうした噂が町に広がったが、これはまず仕方の無いことだろう。
警察でも真っ先にジュリーを疑い、容疑者として彼女を取り調べた。
しかしジュリーは教会であのように叫んだあと、その場でやはり気を失い、またしても目が醒めぬまま、火事が起こった翌日の朝まで病院に入院していたのである。

これでジュリーの疑いは晴れた、が、どちらにしても魔女だの悪魔だのの噂の絶えないこの町に、ジュリーと母親が暮らす場所は無かったようだ。
その事件があってから、彼女達はアメリカへ移り住んだことが分かっているが、その後の行方はようとして知ることが出来なかった・・・。

原因も無いのに結果が先に見えることなど本当にあるのだろうか、またもしそうだとしたらジュリーが見た未来は、例え宇宙の法則を歪めてまでも、結果としなければならないものだったのだろうか。
フランスの危機を救ったジャンヌ・ダルク、彼女が徹底した信念を持つに至った理由は、聖母マリアの姿を見て、その声を聞いたからだと言われている。
またバビロニアの王ペルシャザールは、1000人にも及ぶ人を集めた豪華な宴席上で、空間から手だけが突き出てきて、不思議な文字を書き始めた光景を見てしまう。そして賢者ダニエルにこのことを尋ね、王国の滅亡が近いことを知った。

目に見えるものの何が本当で何が虚か、我々はそんなことすら分からない世界に在るのかも知れない・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「赤い花」1・2

    高校生の時、教室にいる時やグラウンドにいる時、数回竜巻が校庭を通った。
    一回は、体育の時間か放課後かは失念したが、それほど、強くはなく、中心の砂埃を透かして、その先が見えるぐらいで、我々数人が、体験すべく、その中心に、突っ込んで行った。移動と共に、合わせて10メーター程、動いて、それから竜巻についていけなくなったが、目にゴミが入って、口や鼻も相応に砂が入って諦めたという事もある。
    結果は、全身が特に頭の毛に、砂埃が有りっ丈ついて、中々取れなかったこと、自分はそれほどひどい状況とは思わなかったが、可なり払っていったのだが、電車の中で、異様に汚い事に気づいた、やや注目された(笑い)

    対面して、仕事でも日常でも、「通常の状態」と自分が考えていても、実は、相手が話の内容や、それに関することで頭の中が一杯になっているかどうか、という事は、全く保証の限りではなく、聖徳太子は、同時に7人の話を聞いて、7人に的確に応えた、という事だが、実はそれがほんの一部だった可能性だって在り得る、極端な話、仕事(政治?)の話をしながら、今日の夜は、何を食ったらいいか、昨日の釣りは良かったなぁ、とかが主だったかも知れない。

    木嶋某と言う、それほどの美人とは思えないが、何人も殺害したが、きっと会っている時や、その他話の節々に、他人を惹きつける特別な何かが合った事だけは確かで、獄中結婚も2回もした。簡単にサイコパスの一形態と片付けやすいが、ヒトの行動の深淵に関わる何かが有って、研究すべきかもしれないが、例が少なくて研究に向かないかも。もしかしたら、冴えないお婆さん殺人鬼筧某とか北のデブもそうかも(笑い)。

    今、自意識過剰なのか自己承認要求が過剰なのか、単に無知なのか、色々程度はあるだろうけれど、何か妄想が暴走しているのか変な現象が社会でも国会でも多発している風にも見えるが、水族館のイワシの群れが、その時々の一匹の行動によって、千変万化するように実は、どうでも良い事で踊っているのかも知れないのに、適度な無関心や喫緊の身近な事案が評価されていないようで、実は憂うべき状態なのかもしれない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      存在をどう考えるかと言うのがこの話のテーマですが、こうした事を考えて行くと自分とは何かと言う部分に辿り着き、その自分には自分が無い事を知る事になります。
      人間の社会は真実や事実だけで出来ているのではなく、その多くが人間と人間の関係に拠って成り立っています。
      しかし一方人間の社会を一歩外に踏み出すと、そこには他の世界が広がっていて、そこを含めて人間は人間の社会を適応しようとしてしまう。
      何も見えなくなるのは必然であり、全てが想定外になるのも当然です。
      答えは全て眼前に揃っていながら、何も見なければそれはわからない・・・。

      コメント、有り難うございました。

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