「トイレットペーパーの聖者」

自分が心血を注いだ企画、しかもこの企画には会社の存亡がかかっている、またこの1年一時たりとも忘れることが出来なかった憧れの人に今日は告白・・・、こうした場面でふと通りがかった小さな神社、さてあなたはどうするだろうか・・・。
何でも構わない、苦しいときの神頼みでとりあえずお参りして、企画の採用を、また憧れの人が恋人になってくれることを願うか、それとも「いやいやこれは本当に努力してみなで積み上げたものだ、今更神頼みなどしない」もしくは、「私は自分を信じている、神頼みで人の心を得ようとは思わない」と思うか・・・。

 

結果から言おう、これはどちらも同じことだ。
神社を意識してしまったときから、立ち止まった瞬間から、私達はもう神社の中に入って、そこでご神体を前にどんな行動にしようか迷っているだけだ、既に心はこの神社の中にある。

 

2006年5月に公開された「ダヴィンチ・コード」、これは「ダン・ブラウン」の大ベストセラー小説を基に「ロン・ハワード」が監督、トム・ハンクス、オドレイ・トトゥが主演した映画だが、ルーヴル美術館で初めて映画撮影が許され、長期の撮影期間を利用してのPRが当たり、興行的には大成功を収めた映画だった。
だがキリストに子供がいて、その子孫が・・・、 と言う設定はキリスト教、特にカトリック教徒たちから激しい反発を受ける。

 

もともとキリスト教にはいろんな枝別れした考え方があり、その中には例えばカタリ派などの、極めてカトリックに対して攻撃的な歴史を持った、異端とされる「派」があり、こうしたものの中には現在の私達では信じられないような考え方も存在するが、そうしたものの中でもこのダヴィンチ・コードの設定は、キリスト教徒には許し難い、つまりキリストに対する冒涜とも取れる設定があったことから、公開と同時に全世界的反対運動に晒されることになり、エジプト、フィリピンのマニラではついに上映禁止、公開打ち切り措置にまで発展した。

 

また2005年、デンマークの新聞「ユランズ・ポステン」に掲載された風刺漫画で、複数の漫画家がイスラム教の預言者ムハマンドを揶揄したことは、これに対して世界中のイスラム教徒が反発し、抗議の輪を広げたが、2001年アメリカ同時多発テロ発生以来続いていた、アメリカ発のイスラム敵視姿勢がこれに影響し、キリスト教文化圏各国のマスコミはこうした風潮に同調、「表現の自由」を盾にイスラム文化に対抗する方向へと動いていく。

 

ヨーロッパ各国の新聞は「ユランズ・ポステン」のイスラム風刺漫画を、次々転載して対決姿勢を強めて行った。
そしてこうした風潮に対し、2005年10月にはデンマークのイスラム教団体が抗議声明を発表し、2006年1月にはとうとうサウジアラビアが駐デンマーク大使を召還、リビアに至っては在デンマーク大使館の閉鎖と言う厳しい措置でこれに抗議した。
またパレスチナ自治区ガザでも武装グループが欧州連合(EU)事務所を包囲し、謝罪要求をすると言った事態にまで拡大していく。

 

結局このイスラム風刺漫画の掲載については、当事者のユランズ・ポステン社が2006年1月に謝罪した。
しかし振り上げた拳を下ろせないのはヨーロッパ各国の新聞社たちであり、その大儀は「表現の自由」と言う、国連憲章の規定にまで通じる世界的大原則だったことから、イスラム文化に屈したユランズ・ポステン社事件を大変な悲劇と判断し、なおかつ暴力によって表現の自由を脅かされたことに対する抗議的意味で、この風刺漫画の転載は更に広がりを見せる。

 

ノルウェーの「マガジネット」を初めとしてドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、スイス、チェコなどのヨーロッパ有力各紙は、次々このユランズ・ポステンの風刺漫画を転載し、表現の自由を高らかに謳いあげ、こうした傾向にイスラム教徒の反発はヨーロッパから中東、そしてアジアへと拡大して行った。

 

そしてこうした問題は、これまでは余り表面的な論議が避けられてきた部分ではあったが、この風刺漫画事件以降、新たな難題を提起する形となった。
すなわち預言者ムハマンドの風刺漫画は神の冒涜か、それとも表現の自由かと言う問題だが、これは厄介なものを含んでいる。

 

先ごろトルコ北部で起こった少女生き埋め事件だが、この地域では昔からの慣習として、家の恥、または家の格式を傷つける女子は殺しても構わないと言う風習が残っていたらしく、それによってこの少女は父親や兄弟によって生き埋めにされたことが分かっているが、現在でもイスラム文化圏ではこうした意味で、女は家の男の所有物的な風習の中でしか存在できない地域があり、これは改善されていないが、基本的に国家及び、ガヴァメントに相当する組織が小さくてもこれを容認していれば、他国のこうした行為に対する非難は、内政干渉に相当してくる部分でもある。

 

そして私はこうした風習が漠然とだが感覚で理解可能な育ち方をしている。
江戸の封建制度が崩壊したとは言っても、それが色濃く残った明治、その時代の女である祖母の教育の中では「家」制度が色濃く残っていて、そうした概念の中には、確かに社会的に将来迷惑がかかるなら、それは自分の手で始末を・・・と言う感覚がどこかで感じられたからである。
勿論こうした考え方が正しいものかどうかは否としても、そうした考え方も存在することを私は知っていたので、このトルコの少女事件を聞いたとき、愕然とするものがあった。

 

長い間の風習や慣習はその地域で生きていくための人々の知恵でもあるが、その反面現在の価値観では許し難いものも含んでいて、こうしたことが改善されるには膨大な時間がかかることになる。
モンゴルの砂漠では、家に嫁いできた女はその家の兄弟の共有だった時代が、つい最近まで存在していたし、日本でも戦後まで兄が亡くなると、その嫁と次の弟が結婚して家を守る、また嫁いだ姉が亡くなると、次々その妹が後任として嫁ぐと言うことが残っていたが、こうしたことが無くなったのはここ30年ほどの間のことである。

 

ついに対等な接触が始まってきた自由主義とイスラム文化、この相互に横たわる価値観の相違は容易に埋まるものではなく、基本的に完全な理解はあり得ないだろう。
そして私はことイスラム文化と自分を考えたとき、今の段階では表現の自由などはどうでも良いと思っている。
だが最低でも人権、少なくとも少女が家族によって殺される、また10歳にも満たない子供が父や祖父のような男性と結婚させられるような事態は、何らかの交渉によって、無くして行かなければならないだろう。

 

そして自らを絶対的正義だと信じる、西欧文化、確か1980年ぐらいのことだったか・・・・、クリスマスにアメリカの会社が、サンタクロースを印刷したトイレットペーパーを発売して人気を呼んだが、これに対してイギリスが激怒する。
「仮にも聖者をそうした尻を拭くための紙に印刷するとは何ごとか・・・」と、言うことだったが、絶対的正義を信じるアメリカも30年前はこの程度だったのである。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「トイレットペーパーの聖者」

    表現の自由とか基本的人権とか信教の自由とか、立派なお題目が有るけれど、絶対者が、7日間で世界を作って、自分に似せて、最後に人間を作って、豚や牛や鳥は、その食料として、人間に与えた、ってことがそもそも無理が有る。

    それらを信じている連中は、選民思想に憑りつかれて自制が出来ない。

    ヒトも他の一切も、理由は不明だが、勿論解かる事は永遠に不可能だろうけれど、何の意思も無く、偶然に(自然に)生まれて、変化に変化を重ねて、今に至ったのだろうと思える。

    ヒトに比較的近いサルにも、ハーレムを乗っ取ったら、そこの幼児を殺して、メスに発情を促して、自分の遺伝子を残そうとする種が何種も有るし、昆虫でも他の生物でも、卵を守るオスやメスは有るが、その卵を殺して、交尾を迫って、自分の遺伝子を残そうとするものも多い。
    それをヒトが野蛮だとか、身勝手だとか言うのは、勝手だが、自然はそのように有るし、そうして成り立っている。
    南米のアヨレオは、奇形、諸般の事情で育てられないと思えば、生んだ女がその場で殺すが、数人殺すのはザラで、その決定に、非難をする文化は無い。世間の虐待も、進化の途中の残滓の恐れもあるかも知れない。

    ヒトも自己を特別視せず、在りのままを観察して、「ヒトらしく」したいのなら、それ相応の行動をとれば、長年月の間には、そのような方向に向かう可能性が有るだろうけれど、それはそれで、又別も問題を孕んでいるだろう、一言でいえば、ショウガイを持った子孫は一定数誕生しているようだが、その処遇を含めて、徹底すれば自己撞着に陥るであろうから、自分は如何すれば良いかは分からないが、ヒトが漸く生き延びてきたころには、考えても方策は無かったのだろうけれど、今は或る程度出来るようになって、何処まですべきかせざるべきか、別の問題が出て来ているようにも思う。

    仏教にはある程度の「示唆」が含まれているようにも思えるが、一神教には、或る強さを持っているようにも見えるが、それはまた両刃の剣のようにも見える。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今この段階で正義や道徳を語っている者でも、子供だった時期が無い者は存在せず、過去を遡れば必ず未熟な時期は存在し、これは国家も同じ事かも知れません。
      ですから成熟した者は若く小さい者が不安定に見えるし、未熟にも見える。
      他のあらゆる価値観の中で命より大切なものはどの国家でも存在し、ただこれが法に表されていないだけにも拘わらず、こうした慣習を否定する。
      価値化の多様性は認めながら妥協点を探って行かねばならないところを対立にする。
      これをアメリカや西欧だけがやっているわけではなく、日本でも今やこうした傾向が蔓延しつつある。
      基本はまず自分を糾せ・・・と言う事でしょうか。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「Bt 生物の人為的揺らぎ」1・2

    昔、ガザストリップの八百屋に、大きなキャベツが有って、多分日本の一般的なものの数倍、10Kg越え。その時は、驚いただけで、それを持たせてもらって写真を撮るという事はしなかったが、結果としては、良かった気もする。

    世界の他の地域でもあるかどうかは不明だが、それから何年も経ってから、そういう事に詳しい人と話す機会が有って、彼に因ると、その種は、日本から供給されているらしい。勿論アメリカ的な怪しい仕掛けは施されていなくて、世界各地域へ、その地の好みに合わせて、種を生産して、供給しているらしい。安価で安定的で、種の発芽率も高く、当時は良く買ってくれていたらしい。

    昔、アメリカ主導で世界に緑の革命が起きて、穀物の大増産が起きたが・・それで人口が増えて、別の飢餓が発生した、という事はここでは置くとして・・日本が開発したコメの品種をGHQの誰かが持ち出して、自国品と偽って、大儲けしたばかりではなく名誉も一緒に盗ったらしいという話を聞いて、アメリカ人の遣りそうなことだと思った。

    安全なネギを食ったって、寿命が伸びたって、病気にかかる回数が減ったって、一緒に耐性も失うから、一時の幸せを手に入れるだけ、ま、一種の麻薬。放射能(線)も許容限度は不明だが、特段病気が発症せず、それなりの寿命を全う出来たら、高い地域でも例えば故郷で暮らす選択も有るだろう。

    日本は、色んな意味で、核武装も出来ないし、勝手に気に食わない国に軍隊も送り込めいし、艦隊も遊弋させられないから、恫喝されて圧迫されるばかりだから・・
    そうだ、アメリカ人~支那人~ロシア人、他どこでも良いけれど、だけ効く、遺伝子組み換え食品~作物を開発して、少しずつ、安価で売り出して、早死にさせる~子供が生まれない様にして弱体化すれば、地球は住みやすくなりそうだ(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この話は全体のごく一部でしか有りませんし、もう10年近く前に書かれたものでもございますから、現在はこれよりもっと恐ろしい事にはなっていると思いますが、私が農業から離れない理由もこうした世界的な傾向からかも知れません。
      安全なものは金がかかる。金がなければ自分が作る。それすらも出来なければ安全なものを食する事は出来ない。
      こう言う厳しい現実を見ているからこそ、農業は辞められない。
      言葉より先にまず行動・・・。

      コメント、有り難うございました。

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