多重基準正義・1

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                              1989 5 3 撮影

原子核の質量はそれを構成している陽子と中性子の質量の合計より常に軽い。
そのため軽くなった質量は「質量欠損」と呼ばれ、相対性理論に従ってエネルギーに変換されるが、天然の原子核では質量数56、つまり鉄の原子核付近が一番質量欠損が大きくなる。
それより質量数の大きな原子核が分裂すればエネルギーが余り、これが「核分裂」の原理であり、またそれより小さな質量数の原子核が融合しても、これもエネルギーが余るが、こちらは「核融合」の原理である。

1974年、インドが原爆実験を成功させたが、このことは当時の合衆国大統領ジミー・カーターに、苦渋の選択を迫ることになる。
それまでインドが対外的に発表していたのは核燃料の「平和」利用だったからだが、こうしてインドの例を見るまでもなく、核兵器の拡散と言う観点からすると、そもそも核燃料を再処理する限り、核兵器の拡散は防げない現実が眼前に現れてきたからである。

もともとこの地球上に存在するウランの量はまことに脆弱なものでしかない、しかし核燃料は使えば、つまり燃やせば燃やすほどその量が増えていくものであり、こうした意味では再処理技術があって始めてエネルギーとしての価値を持つのだが、これは原子力発電にとっては必要不可欠であると同時に、ここまで出来れば核兵器を持つこともまた容易な事なのである。
だからインドの原爆実験は、核燃料再処理施設があれば、それはもはや核兵器を持ったと同じ事を意味したのであり、カーター大統領は結局、核兵器拡散を防ぐため、アメリカ自身の商業的核燃料再処理を放棄することによって、国際的な核兵器拡散を防ぐ道を選んだ。

だがこれによってアメリカ自身が核を放棄したかと言うとそうではない。
東西冷戦構造下のソビエトとアメリカは、核拡散防止条約によって核保有国の核軍縮が求められていたにも拘らず、むしろ核兵器の数は増大していたのであり、これがチェルノブイリ原子力発電所事故が起こった後、ソビエトの崩壊とともにどうなったかと言うと、アメリカは世界唯一の超大国として、核の一極支配体制を築き上げる道へとまい進して行ったのである。

更にこうした社会主義諸国の政治情勢は悪化、彼らが所有していた核兵器や核物質は大量に行方不明になった。
そしてこうしたアメリカの一極支配体制は、アメリカの独断で正義が決められると言った国際情勢を生み、これに対して小国やイスラム勢力は、捨て身で抵抗する傾向が現れてきたのである。
2001年9月11日、アメリカはついに建国以来始めて外部から本土攻撃を受け、その怒りの矛先を、主権国家を攻撃するに足る根拠のないまま、アフガニスタンに向け、これを侵攻、アフガニスタンと言う一国を転覆させた。

またそれでも怒りおさまらぬアメリカは、次にイラクが大量破壊兵器を製造しているとして、こちらも明確な根拠もなく、国連決議すら得られないにも拘らず攻撃し、フセイン政権を崩壊させ、またフセインそのものも処刑してしまうが、結局その後調査してもイラクからは大量破壊兵器は見つからなかった。

そして現在はイランと北朝鮮が核濃縮を行っているのではないか、核兵器を所有しているのではないかと言われているが、依然世界最大の核兵器所有国はアメリカであり、100基を超える巨大な原子炉を動かし、無数のミサイルを打ち上げ、膨大な数の軍事衛星で世界中を監視し続けるそのあり様を考えると、仮にどんな国が核兵器を持とうと、ミサイルを製造しようと、少なくともアメリカから非難される筋合いのものではなく、ましてこれが平和利用、つまり発電に使われるなら、尚のこといかなる国もこれを阻止されるべきものではない。

インドは最初の核実験の後、アメリカの核拡散防止条約を拒否し、その後も核開発を続けるが、こうした態度は当然公正に考えるなら国際的にも許されないことだが、2006年にはアメリカのブッシュ大統領がインドを訪問し、原子力協定を締結する。
これはおかしい、片方で核拡散防止条約に批准しているイランの核濃縮については「無法者」としながら、インドは友達と言うありようはどうにも許し難い。

誰がどう見ても差別の理論であり、結果として核に関して、全てのジャッジはアメリカが取るのであり、それは明確に不公平なものだと言っているのである。
「我々は勿論二重の基準を持っている、インドは敵でも無法者でもない」
このアメリカのゼリコー国務省顧問の言葉は、アメリカの正義に幾つもの基準があることを語っている。

だがインドがアメリカの核拡散防止条約に批准しなかった本当の理由は、こうしたアメリカの態度にあった。
すなわち核を保有している国連常任理事国とその関係国だけで核保有を固定化し、そして他国には持つなとするアメリカの独善的姿勢に対して、反発したところにその真意がある。
悪いことは誰がやっても悪いのであり、人を非難するならまず自分が同じ土俵に立て、それでものを言え、と言うことであり、あなたは好きだから正義、あなたは嫌いだから無法者、そんな価値基準で世界を動かすなと言うことだ。

「多重基準正義」・2に続く

 

※ 本文は2010年に執筆されたものを再掲載しています。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「多重基準正義」1・2

    そもそも生物は、自分に甘く、自分以外に厳しく接するように進化してきたので、1人人間だけが、それが構成する国家が、そうでない訳は無い。
    自己の生存を保全する最も大きな担保は、自分はしても他人にさせない事であり、核軍縮とか人種平等とかは永遠に画餅であろう。

    それを理解したうえで、自ら行うのであれば、他人が行う可能性について、効果は兎も角非難できる立場になるが、そんな危険を冒すほど、進化のプログラムは、紳士的に作られていないようだ。

    どの国も最終的に力を持って生きてゆく道を選べば、軍備で有れば、核武装であろうし、通常では、裏切りで有ろう。

    光明を見出すとすれば、宗教かも知れないが、これは口だけオバマみたいなもので、役立たずで望み薄~~♪
    残念だが、今のところ、多重正義基準を乗り越える妙薬は無さそうだ。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この記事も古いyahoo掲載記事ですが、正義は環境や状況だと言う事なのでしょうね。
      ですからこれを唱えて叫ぶ者は危うい。
      私は多くの者が集まって熱狂する場を恐れるのは、そこに限りなく人の業の愚かさと凶暴さ、制御のなさを見るからかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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