「限界集落」

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                                     1995  5 3   撮影
国家と言う概念は国民がいて、政府が存在し、領土があること、これは国連の規定でも決まっている。
だから国が滅びるか、縮小していくときは、他国の侵略や政府の転覆がこの要因と考えがちだが、国民がいなくなることを考える者は余りいない。
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しかし静かな割には最も恐いのが、実は国民がいなくなることではないだろうか。
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何かが崩壊していく時、それは真ん中からは始まらず、常に端末の薄い部分から進行し、気が付いたときはどうにもならなくなっているものだ。
また一つ二つは仕方ないと思っていると、数年後にはそれが数千の単位となっていくことの恐ろしさを、今の日本政府は余り実感していないだろうが、もう既に始まっているのが、人口の減少から起こる行政区そのものの消滅である。
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この概念を初めて提唱したのは1991年、長野大学教授の大野晃(おおの・あきら)氏だが、そもそも過疎と言う表現は少し田舎の実情を表すには上品過ぎる。
どことなく少し寂しいかなと言う感じでしかないが、これは行政側が名づけたもので、すなわち実態をコントロールした表現である。
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これを実態に即した表現にするとしたら何か、そこで現れてきたのが大野教授の「限界自治体」と言う言葉だった。
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当初この表現は余りにも過激で、認められないとした自治体も多く、現在に至ってもこの表現を使わない自治体もあるが、いずれ消滅する恐れのある自治体を表現するとしたら、これほど的確な言葉はなく、また田舎の実情はまさにこの通りである。
すなわち過疎が進んだ島や山間地では既に小学生の児童が全くいなくなり、地域の行事を維持できず、また道路や神社仏閣の管理も出来なくなっていくが、その上に地域住民の過半数が65歳以上の高齢者になってしまうと、その行政区の自治が継続できない状態が起こってくる。
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この状態を「限界自治体」と言い、これより更に小さい行政区、つまり「村」などにこれを適応した場合は「限界集落」と言う表現になり、限界集落が進行すると超限界集落、そして消滅集落と言う道を辿る。
実際限界集落となればどう言ったことが起こるかと言えば、その集落全員が60歳以上で80歳代の人がそのうち半分、そして道路の草刈や、どぶ掃除などの共益事業が出来ず、祭りの神輿も出せなくなり、個人の財産である田畑も全てが耕作されず、山林の管理も全く滞り、荒れ放題になっていく。
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やがて年齢の高い者から一人また一人と亡くなっていき、ついには村の人口が半分になっていくが、この状態を超限界集落と言い、しかも最終的には村の人口がゼロになっていくのであり、こうした状態が消滅集落である。
またかつては村として組織していたものが、その自治を維持出来なくなった段階で更に上の行政区、例えば町や市に吸収された形となっても消滅集落となる。
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2005年の段階で日本にある限界自治体、つまり村より更に上の行政区分だが、群馬県南牧村、高知県大豊町、福島県金山町、昭和村などがこの状態であり、2006年5月には石川県輪島市門前町の大釜地区が限界集落となったが、こちらはニューヨークタイムスが「日本の高齢化社会の犠牲者」と銘打って取り上げている。
この地区の限界集落の特長は、かつてあった17世帯の家が、5世帯8人まで減少し、住人の全てが60歳以上、それで開発もいろいろ考えたが、結局断念して、村の財産、これは個人の分を含めて、全て産業廃棄物処理業者に売り渡してしまうと言うものだった。
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維持できないので集落そのものを金に替えて終わりにしよう、この発想は観光地輪島市としては苦慮しそうだが、住人が売ってしまうと言う時には、何も言えない状態となっていて、現在も解決がついていないようである。
だがこうしてみて見ると、まだ金になるのは良い方で、殆どの限界集落では維持できなくなり放置されるか、財産としての価値を全て失うかのどちらかにしかならず、ひどい場合には、村そのものが廃屋に囲まれたゴースト集落になってしまう恐れすらあるのだ。
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更にこれは国土交通省が2008年にまとめた、こうした限界集落に関する最終報告だが、それによると14歳以下の子供が全くいなくて、住人の半数以上が65歳以上の集落が7873箇所、集落としての機能の維持が既に困難になっている地域、つまりもう祭りが行えない、道路管理が出来なくなりつつある集落と言うことだが、これが2917地区に及んでいて、ここ10年以内に消滅の可能性が高い集落が422箇所、いずれ消滅、すなわち20年以内で消滅することを指している地域が2219箇所存在している。
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そしてこの数字は年月を重ねるごとに増えてくる傾向にあり、例えば集落でなくても、町や市の単位でも既に小学生が全くいないところも増えているのであり、こうした意味では地方行政がこれから抱える問題として、限界自治体問題が重要な案件となってくる可能性が高い。
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限界自治体の特徴は、住民からの税収がなくなることであり、これをカバーするために田畑や山林の固定資産税を上げると、その地域では更に年金生活者が暮らせなくなり、人口流出が加速される。
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またこうした安易な課税方法は結局どう言った顛末を迎えるかと言えば、例えば人口50万人規模の都市市街地固定資産税より、人口3万人前後の田舎町の固定資産税の方が高くなる場合が出ることで、実勢価格と市などが高く設定した固定資産算定額に大きな開きの出る地方、田舎の市街地は土地取引が益々低下していく傾向にあり、このような現象から限界集落は島や、山間地だけではなく、中心市街地でも起こってくるのである。
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だから限界自治体ともなれば、同時に起こってくるのは財政破綻であり、日本全国的に財務状態が苦しい自治体が標榜するのは大方が「観光」と言う現実から、苦しい自治体ほど風評を恐れて過疎化、限界自治体化の進行を隠そうとするのであり、それはとりもなおさず破綻寸前の財務状況をも、隠蔽して行こうとする体質を発生させている。
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それゆえ、こうした地方においては限界自治体と財政破綻が同時にやってきて、壊滅する自治体の発生も危惧される訳であり、既に大部分の地方自治体がその状況にあるか、もしくは一歩手前にあると思ったほうが良いのかも知れない・・・。
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※ 本文は2010年、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「限界集落」

    発展途上国と言う美しい言葉が有るが、実際は未来永劫発展途上国(笑い)に格上げした方が良い。後進国と言う名前も、意味不明だったが、最近は死語となった。

    何でも優劣を付けたがるのは、自分が優勢側に立っていると思い上がりが有るのだろうし、社会は何かが改良、これも変な言葉だが、言葉は元々、発言者の意図を反映して成立するであろうから置くとして、定行進化じゃないから、基本的に優劣の問題ではない。幸不幸も判断の基準かも知れないが、これは心の問題で有り、安易に判定はできない。インドの貧困地帯は遅れていて不幸せで、日本の都市部は進んでいて幸せ、と言う訳ではないのと同じ。

    自分から見れば、裸でその日暮らしのサン族が、一流のファッションに包まれて毎日美食のヨーロッパの白人よりよっぽどまともに見える。

    東海道本線の藤沢あたりから品川辺りまでは、鉄道沿線100~200mの範囲は5~10階建ての集合住宅で埋め尽くされているが、生活費用は高そうだが、その三分の一以下で、適度に自然の広い庭の有る地方の住宅は空き家だらけと言うのは政治の貧困の象徴~~♪

    我が集合住宅も限界突破住宅で、1つの階で15・6程の戸数が有るが、持ち回りの役員を担当するのは3~5戸位(笑い)なので、頻繁に来る。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      禍福はあざなう縄の如し・・・。
      常に右肩上がり、元気でみんながにこやかで、揉め事も無い世界、おそらくそうした所を天国とか極楽とか言うのかも知れませんが、多分そこには人間は住めない。
      元気が無い時も在って、人が少ない時期も在って、そこから先があるのであり、常に調子のよいことだけが正しいとは限らない。
      人の数が減るのも悪いことではなく、高齢化も悪いことではない。ただ一部の人間や考え方がそれを悪としているだけだろうと思います。
      現れてくる事象に善悪は無く、人間が都合が悪い事だけを悪と考えるなら、見たいものだけを見ようとし、聞きたい事だけを聞いているだけに過ぎない。
      もっと広く大きく物事を見る事も大切だろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「消失する異常」1・2

    ユダヤ教には生活の規範が細かく準備されていて、約2000年の間に、進化もして現代でも、その規範に則って生活すれば、迷うこと少なく、勿論敬虔な若しくはその振りしたユダヤ教徒なら、次に何を為すべきか、悩みが尽きないいい加減仏教徒よりよほど精神の安定を持って生活できる様にも思える。

    何にでも法則が有って、比較的分かり易い方が、計画も立てやすいし安定的に生きられそうで、約24時間で1日で365日で一年で、1日3回ご飯を食べて、朝いつも通り便所で用事を足して(笑い)、という事であれば、退屈でもあるが、その範囲内で、自由の行動が出来れば、人生は今よりは「苦」が少なく暮らせそうだ。

    事が発生するときは、ハインリッヒの法則さえも、一顧だにしない連中が増えて、アクセルとブレーキを踏み間違えたり、ハンドル操作を間違えたりして、車庫入れで何回も生け垣や、縁石、柵をぶち壊しても運転を止めず、決定的な事故を起こした後でも、ブレーキが利かず、ハンドルも固定されていた、と宣う連中が多いのは如何したことか。

    どんな事象も最後の切欠は「最後の藁1本」で有り、ラクダの場合は分かり易いが(笑い)、それはエルニーニョだったり、10万光年の先の恒星の電磁波だったり、姑の何気ない一言だったり、とても人知の及ぶところではない気がするし、色々のものが影響しあって、縁起~縁滅に集約してもよいが、同じことは基本的には起きる事は無く、何時からかも分からず、何時までなのかも分かりはしないが、人生は短く、そこで生きるしかないが、少しだけでいいから、何かを頼りにして生きてゆくために、何やらしているのだろう。

    歓情尽くせば、哀情深く、無為成れば長く、有為なれば短し、今できることを、出来ればして(笑い)生きる、自分は出来ないけれど~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      確率論の問題なのですが、どんな異常も長い年月の内には平均化する。
      だから本来異常とは、その時期にそれが少なかった事象を指すだろうと思いますが、これは統計でも同じ事が言え、ローレンツアトラクションなどでも見えるように、全く同じ事はいつまでも起きてこない。
      これに鑑みると人間が作り出す想定など何の役にも立たないのですが、これをまるで絶対のように考えてしまうのが国家に携わる人間かも知れません。
      この世界に安全が保証された場所も時も、生物も存在しない。
      常にそれは先の事が解らないから良いのであって、生きている醍醐味があるのではないかと思います。
      闘う事を忘れ、自らの足で歩く事を忘れ、飼いならされてしまった人間は哀れだと、私などは思う訳です。

      コメント、有り難うございました。

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