「陸奥宗光」・1

政治はアートなり、サイエンスに非ず。
巧みに政治を行い、巧みに人心を収めるのは、実学を持ち、広く世の中のことを習熟している人ができるのである。
決して机上の空論をもてあそぶ人間ではない。
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これは日本の外交の基礎を築いた陸奥宗光(むつ・むねみつ)の言葉である。
陸奥は弘化元年(1844年)紀州勘定方奉行、伊達宗広(だてむねひろ)の第六子としてこの世に生を受けたが、この父は勘定方奉行として、紀州藩の財政再建に尽力した人物だった。
しかし伊達宗広は運悪く、この時期発生した紀州藩の権力闘争に巻き込まれ失脚、宗光らは極貧生活に追い込まれるが、僅か8歳の宗光はこの時父をこうした目に合わせ、家族を困窮の極みにまで追い込んだものを激しく怨んだと言われている。
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1858年(安政5年)、15歳になった宗光は単身江戸に向かっていたが、その背景はやはり1853年(嘉永6年)、浦賀に来航したアメリカ艦隊の事件があっただろう。
吉田松陰しかり、坂本竜馬しかり、高杉晋作しかり、皆この国家の重大事に際して、このままでは居れぬ、そう思ったに違いなく、それは居ても立ってもいられない衝動となって彼らを動かし、この国に夜明けをもたらす力となって行った。
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宗光はこの時まだ10歳だったが、それでもどこかでこの日本が新しい時代を迎えつつあることを感じ、やがて5年の後には故郷和歌山を後にしていたのである。
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江戸に着いた宗光は儒学者安井息軒(やすい・そつけん)の元に弟子入りし、住み込みで息軒から学問を学ぶのだが、この時ふとしたはずみから吉原へ行った宗光は、そこでひいきの女が出来、それからと言うものは足しげく吉原通いが続く。
だがこんなことがいつまでも師匠にばれぬはずもなく、やがて吉原通いを知った安井息軒は「学卒の身でありながら、吉原通いとは何事か」と激怒し、宗光は塾を破門されることとなってしまった。
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そしてこうした宗光を拾ったのが水本成実であり、宗光は水本のところで学びながらそこで水本とも親交のあった坂本龍馬、桂小五郎、伊藤博文などと面識を得ていき、やがて宗光20歳の時、1863年には勝海舟の海軍塾、神戸海軍操練所で学ぶようになる。
しかし本来体育会系ではなく、どちらかと言うと文理系の宗光は、ここで軍人としての体力的操作鍛錬には余り参加せず、いつもサボって本ばかり読んでいたため、周囲の血気盛んな武士達からは極めて受けが良くなく、宗光もそうした体力だけで、頭は空っぽの他の塾生達を見下した態度があったようで、海軍塾では孤立した存在になっていた。
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みんなから相手にされなくなって行った宗光、だがこの男をたった1人理解してくれたのは、神戸操練所塾頭、坂本龍馬だった。
「おんしとわしだけじゃきにの、大小二本をささずに飯が食えるのは」
「これからは力だけではどうにもならん時代がきっと来る、そのときはお前のように頭を使う奴がどうしても必要になる」
坂本は操練所では浮いた存在になっていた宗光に、こう言って目をかけていたのである。
またこうした坂本の心に宗光はいたく感じ入り、坂本龍馬は自由人、まるで天をかける奔馬だとこれを褒め称えている。
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そんな折、順調そうに見えた坂本と宗光だが、操練所が開設されて1年ほど経ったとき、海軍操練所は攘夷論者を集めて、幕府に逆らおうとしているのではないかと言う噂が流れ出し、これにより勝海舟の開いた海軍操練所は廃止にまで追い込まれてしまう。
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こうしたいきさつから行き場を失った坂本は、1865年(慶応元年)日本初の商社「亀山社中」を長崎で立ち上げ、そこにはしっかりと坂本を支える陸奥の姿があった。
やがて1867年(慶応3年)にはこの坂本の動きに土佐藩が連動し、その肝いりで「海援隊」が発足、陸奥は沢村惣之丞(さわむら・そうのじょう)と共に勘定方、つまり経営の会計部門で手腕を発揮してくるようになって行った。
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そして1867年(慶応3年)11月15日夜8時過ぎ、京都近江屋、才谷梅太郎(さいたに・うめたろう)の偽名を使ってこの宿に滞在していた坂本を、十津川村郷士を名乗る、おそらく3名だろうと思われる人物達が訪ねてくる。
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このとき応対に出た者の話では、訪ねてきた一行が「才谷先生はおいでますか」と尋ねたことから、坂本も、一緒にいた中岡慎太郎も、疑う余地もなくこれらの者たちを通しているが、これより少し前、同じ土佐の同志である岡本健三郎とその書生の峰吉(みねきち)が部屋を出て行っていることから、訪ねて来た者達は4人では勝てないかも知れないが、2人なら勝てる自信があったと言うことで、しかもこうした経緯から十分監視していて、人数が少なくなるチャンスを狙っていたに違いなく、そうすれば刺客は3名、彼らは落ち着き払って坂本のいる部屋へと向かって行った。
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坂本は最初の一振りで頭を斬られ殆ど即死、中岡も十数か所を斬られ虫の息、こうして天を翔る坂本龍馬は33歳の生涯を閉じるが、11月15日は坂本龍馬の誕生日でもあった。
この時寝ていた陸奥は龍馬襲撃さる、の報を聞き急いで近江屋へと駆けつけるが、そこには血の海に横たわる坂本龍馬の姿こそあれ、既に息はしていなかった。
陸奥はその場で号泣する。
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赤い夕日に向かった坂本龍馬、その後ろ姿を陸奥は眺めていた。
「人はいつかは死ぬんじゃきに、ちと早くなっただけぜよ、気にするな」
「後は頼むきにの・・・、陸奥、たっしゃでの」
こうして維新最大の功労者はいとも容易く世を去って行ったのである。
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坂本を狙っていたのは誰か、その問いに答えるなら、この時坂本を狙っていない者など日本にはいなかったと言っても良いだろう。
また大政奉還を成し遂げた徳川慶喜に心酔していた坂本は、新政府議会議長に徳川慶喜を据えることを考えていたこともあって、これでは幕府がまたこの日本を仕切って行くのと何も変わらない・・・、そう憤る薩摩、長州に措いては、敵は坂本龍馬と言う考え方が広がっていた。
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ことに薩摩は徳川の首を取らねば、いつまた不満分子が徳川を担ぐか分かったものではない、徳川滅亡しか方法はなかったのであり、この点に置いては大政奉還が成し遂げられれば、それで良いとする坂本とは決定的な違いがあった。
事実薩摩は大政奉還が成し遂げられた後も、岩倉具視を使い徳川討伐の密勅を出させている事から、坂本龍馬暗殺に関してはまず第1位に疑いをかけられるのは止むなしと言える。
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                            「陸奥宗光」・2に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「陸奥宗光」1~3

    ずっと昔、テレビの歴史系の番組で、陸奥宗光を演じたのが、東野英心(水戸黄門~東野東英治郎の倅)だった。
    宗光は、いかにも歴代の武士の家系の容貌で、細身で、顔も面長と言うよりも顎が細く、やや西洋的な顔立ちで有り、見てくれも良かったが、片や英心は、デブで、全くさえない(笑い)風貌で有ったが、役柄は、良く宗光を彷彿とさせるものがあったように記憶している。

    宗光にしろ、小村寿太郎にしろ、凄い政治家であり外交官で有るが、現在の外務省は社交家で有って、ロクデナシが多いように思える、外交の本質である、国益より今の小さな係争を避けることに全霊を注ぐ~はした金を惜しんで、任地で大過なく過ごして、出世に汲々としているようにも思える、海外で何人かの全権特命大使やら、領事・書記官と会う事があったが、本質は知り得る機会は無かったが、国際力学~心理学~それぞれの関係等に通じて、機密費も多く使って、国内の上級機関から訓令を受けて謀略を使う事も躊躇せず、長短期の国益のために、活動してほしい。戦前の駐在武官に匹敵する職掌も有るようだが、人員・予算などの面で非力かもしれない。

    韓国の福島産品に関するWTOの裁定も、正邪では無く力、この場合はロビー活動&賄賂だという事をしっかり学んだらよい。明朗会計も意味は有るが、国際政治~外交には上司が諒とすれば足る、機密費が重要だろう。

    帝国海軍の反戦三羽ガラスと言われた米内も山本も井上も大使館勤務がそれなりに有って、判断はそれなりに的を得ていたと思われる。彼らは枢要から外され、武田信玄の遺訓に主将の陥りやすい三大失観を絵のようにやる勇ましい人々が、日本を指導した。重大事はいつも正解を出して、順調に行くわけではないのだから、大局やその国の立場~行動様式について、歴史などを通して、見識を高めたらよりしかろうとおもうが、基本は愛国心で有り、有名大学で成績が良いだけで採用する方式は止めたらいい、勿論基本頭が悪いのは言語道断だけれども、某民主党の岡田も元外交官だったようだが、結果はカスだった(泣)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      明治維新の中で独特の存在だったかも知れませんが、ただがむしゃらに走ろうとする多くの若者たちの中に在って、陸奥はやはり社会の中で交渉したり、或いは経済や法に造詣を深めて行った。
      坂本竜馬が言うように、これからは剣で物事を決める時代ではないぜよ、が常に頭の中に在ったように思います。
      そして伊藤をはじめ、こうした者たちが明治と言う時代を作って行ったのだろうと思いますが、自由闊達で義や信を重んじ、自己責任の範囲がとても広くて自分に厳しい。
      だからこそ列強の中で日本と言う国が台頭して行くことが出来たように思います。
      振り返って第二次世界大戦の時の政府や軍の高官達はその覚悟が無い。また会ったとしてもとても狭い。
      日本が戦争に負けるのは当然たったように思います。

      コメント、有り難うございました。

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