「陸奥宗光」・2

その後、激情に駆られた陸奥は龍馬暗殺の黒幕を紀州藩士、三浦休太郎と決め付け、海援隊の同志15名と共に三浦を襲撃する事件、いわゆる「天満屋事件」を引き起こすが、明けて慶応4年(1868年)、彼は新政府からその貿易実務の経験を評価され、外国事務局御用係りに登用される。
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更に兵庫県知事、神奈川県令などを歴任した陸奥だが、薩長支配に憤慨し官職を辞めた後は、1875年大阪会議で政府と民権派の妥協で発足した元老院議官に就任、その間1872年に亡くなった蓮子婦人の後添えとなった金田亮子は当時17歳、30歳の陸奥は、鹿鳴館の華とうたわれたこの元芸妓の娘を生涯大切にしていた。
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そしてこうした時期から問題になってきたのは、安政年間以降次々と結ばれた諸外国との条約であった。
俗に言われる不平等条約、その内容の大まかなものは領事裁判権を相手国が持つ、すなわち治外法権を諸外国に与えていたことであり、関税協定では関税自主権を日本が持てないことになっていて、更には最恵国待遇を一方的に日本が与え、相手国からは同じ待遇を受けられない状態となっていた。
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このことから明治の始めに起こった、東京芝公園でのイギリス人による少女暴行事件などは、それを契機に厳しい反英感情が起こったが、この少女暴行事件に関して日本は犯人のイギリス人を裁く権利がなく、いかに民衆が憤りを感じても、政府には何の術もなかった。
それゆえ、こうした外国人がらみの事件があちこちで発生していくことは、結果として発足して間もない明治政府に対する不満となって、渦巻くことになって行ったのである。
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明治10年(1877年)、西南戦争が九州で勃発、これによって国内の混乱は益々激しいものとなって行くが、同年2月、明治政府に反対する土佐派の大江卓(おおえ・たく)林有造(はやし・ゆうぞう)等が、坂本龍馬の下で働いていたことから陸奥を訪ね、その際薩長独占政府を転覆させる計画を持ちかける。
かねてより同じことを思い、強い憤りを感じていた陸奥はこれに二つ返事で参加する。
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しかしこの計画は明治政府に筒抜けとなっていて、陸奥らはあえなく逮捕、1878年(明治11年)陸奥は禁錮5年の刑を受け、山形刑務所に収監されるが、この山形刑務所が火事になり、陸奥はこの時焼死したのではないかと言う噂が流れるが、生きていることが確かめられた後は、かつて親交のあった伊藤博文が陸奥に同情し、環境の良い宮崎刑務所へ陸奥の身柄を移送させる。
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陸奥は一時本当に落胆した状態になるが、やがてどうだろうか坂本のことを思い出したのではないだろうか、「よしこれだけ時間があるんだ勉強してやるか」、そう言い出すと妻亮子に手紙を書き、本を差し入れてもらうようになった。
陸奥が刑務所へ取り寄せた本はおよそ200冊、陸奥はこれらの本を貪るように読みふけり、イギリスの思想家ベンサムの「道徳と立法の原理序説」の翻訳まで完成させる。
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1883年(明治16年)陸奥は特赦で5年ほどの刑務所生活から開放されるが、こうした陸奥に対して伊藤博文はヨーロッパへの留学を奨め、陸奥は翌年1884年(明治17年)単身ヨーロッパへ向かう。
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ロンドンに着いた陸奥はケンブリッジでイギリスの立憲君主政治、議会、内閣制度を徹底的に学び、民主政治についての造詣を深めて行った。
また陸奥は妻亮子のことを本当に愛していたらしく、2年近くのヨーロッパ留学中、妻亮子に宛てて書かれた手紙は40通以上にものぼり、その内容は常に亮子を思っていると記したものばかりだった。
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同じ頃、日本では外務卿の井上馨(いのうえ。かおる)が鹿鳴館で連日連夜諸外国の代表を招いた舞踏会を開き、これによって個人的関係を作った上で、不平等条約を是正するべく力を尽くしていたが、こうした井上の努力はわずかだが効を奏し、治外法権については、外国人の事件でも日本の裁判所が判決を下せるとしたところまでは何とかできたものの、この修正案には外国人被告を裁く場合は、判事の半数以上を外国人にすることが求められていて、実効性は極めて疑問な修正案だった。
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そんな中起こったのが1886年(明治19年)のイギリス汽船ノルマントン号事件である。
和歌山県沖で大しけに遭い沈没したノルマントン号に乗船していた日本人二十数名は、船長のドレークの指示により遭難した直後救出されず、イギリス人のみ救命ボートに乗って助かったと言うもので、このあからさまな差別によってイギリス人は全員助かり、日本人は全員見殺しになったのだが、この事件では裁判は開かれたものの、判事の半分以上が外国人だったため、船長のドレークは無罪となってしまった。
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だがまずかったのは、この場合タイミングと言うものだろうか、治外法権撤廃を完全に諸外国に認めさせることは無理だと考えた井上馨は、とりあえず駒を進めようとして、不完全な修正案でもこれを受け入れたのであって、従ってこれは国民に秘密裏に結んだ修正条約だった。
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ところがこのノルマントン号事件の裁判によって、その井上の目論見は完全に世の大衆の知るところとなり、これによって政府は内側は国民から、そして外からは諸外国から責められる形となり、井上馨外務卿は辞任、困り果てた伊藤博文は陸奥宗光を外務省に入れて、底の厚みを持たせようと考えた。
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                            「陸奥宗光」・3へ続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。