「陸奥宗光」・3

1888年(明治21年)こうして陸奥はアメリカ公使として外交人生のスタートを切り、とりあえず条約改正の既成事実を作るため、まだ条約のなかったメキシコと交渉を重ね、ここに初めてメキシコとの間に日本初の平等な条約の締結にこぎつける。
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しかし1890年(明治23年)47歳になっていた陸奥は、山県有朋内閣で農商務大臣に任命される。
せっかく条約改正に向けて動き始めた陸奥だが、これはどうしたことだったのだろう。
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その答えは簡単だった。
同じ年の11月には第1回の帝国議会が開かれたが、政府提出の予算案について議論は白熱、帝国議会内は乱闘騒ぎにまでなっていったのであり、この時野党自由党を仕切っていたのが星亨(ほし・とおる)、陸奥と星は親交があり、すなわち陸奥はこうした国会対策の為に日本に戻されたのだった。
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陸奥は熱心に自由党の星を説得、やがて星は陸奥と連携していくことで合意し、条約改正案にも協力することを約束するのである。
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こうした手腕を見込まれた陸奥は第2次伊藤博文内閣で外務大臣に起用され、いよいよ日本は本格的に不平等条約改正に本腰を入れられる体制となった。
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そして陸奥は条約改正のキーポイントはイギリスであることを主張し、不平等条約の改正はまずイギリスから始めようと考えるが、当時の国際社会はどちらかと日和見的なところがあり、大方の国はイギリスの態度を見てから何かを決める風潮があった事から、この陸奥の作戦はまことに時勢をわきまえたものだった。
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だが交渉を始めた矢先、明治25年(1892年)11月、またしてもイギリスがらみの事件が起こる。
日本の軍艦千島(ちしま)が、瀬戸内海でイギリス籍の汽船と衝突して沈没し、乗員70人ほどが全て殉職したのである。
日本政府はこれに対してイギリス船に過失があったことを主張したが、イギリスの領事法廷で開かれた裁判により、この日本の訴えは却下、イギリス船の責任はなく無罪となったのである。
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この判決により日本の世論はまたしても沸騰し、政府に対抗的な野党は外国人は何だ、決められた居住地にしか住めないはずなのに、居住地の外に出ては事件を起こしている。
ただでさえ不平等な上に決められたことも守らないのか、条約を励行しろ・・・、と訴え始め、こうした外国人に対する条約励行運動は国内的な支持を得ていく。
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これに対してイギリスを刺激しないようにと考える陸奥らは、外国人に自由を与えてこそ平等な条約を得られると主張するが、その声はかき消され、日本はこの問題を巡って大きな混乱になっていく。
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1893年(明治26年)10月12日、こうした日本国内の情勢に疑問を持ったイギリス代理公使は、陸奥外務大臣に面会を求めてこう言う。
「日本は本当に条約改正を進める気があるのかね・・・」
そして日本国内の外国人に対する条約励行の声は益々高まって行った。
陸奥の計画は万事窮すとなって行く。
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だがここでイギリスが少し強気になって新たな要求をしてきたとき、この瞬間、陸奥の眼前に光が差してきた。
イギリスはここぞとばかりに強気に出たばかりに穴を掘ってしまったのである。
当時イギリスはシベリア鉄道を建設し、極東進出著しいロシアに大きな警戒感を持っていたが、そのロシアをけん制するために、陸奥らが提唱していた条約改正の猶予期間として設定された5年間を超えても、イギリスが函館港を貿易港として使用することを認めよ・・・と言う条件を付けてきたのである。
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陸奥はイギリスと交渉するに当たり、不平等条約撤廃に5年間の猶予期間を設けることを条件にイギリスと交渉を続けてきたが、その間に瀬戸内海の軍艦衝突事件が起こり、交渉が暗礁に乗り上げていたのだが、これでイギリスの心底は見えた。
陸奥はロンドンの青木公使に打電する。
「条約改正後も函館港を貿易港とするは苦しからず」
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この陸奥の判断は正しかった。
イギリスはこうした陸奥の機転の利いた態度に即刻反応し、こうして日本とイギリスは不平等条約の改正条約締結にこぎつけ、このイギリスの態度を見ていた諸外国は、次々日本の条約改正交渉に応じて行ったのである。
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1894年(明治27年)7月16日、ロンドンで交わされた「日英通商航海条約」、これはまだ完全に平等なものとは言えなかったが、それでも少なくとも日本で起こった事件は日本が裁く権利を持つこと、それに最恵国待遇の相互化、これだけは達成されたのであり、日本が欧米列強と対等な立場となる最初の一歩は、ここから踏み出されたのである。
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また同じ1894年(明治27年)8月1日、日清戦争が始まったが、陸奥は開戦から終戦まで外務大臣として奮闘し、1895年(明治28年)3月には戦争終結の講和会議でも活躍し、講和条約を成立させたが、こうした激務は陸奥の体を蝕み、やがて結核を患い高熱を出すようになる。
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そして1897年(明治30年)8月24日、陸奥宗光は坂本龍馬と同じ所へと旅立った。  享年54歳だった。
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日露戦争でロシアとポーツマスで交渉した小村寿太郎、彼を引き上げて行ったのはこの陸奥宗光だったが、初めて小村が陸奥の部屋へ呼ばれたとき、真っ先に聞かれたのが「今何時だ」と言う話だった。
しかし父親の借金のおかげで金の無い小村は時計を持っていない、そこで黙っていると、陸奥は「何だ小村、時計も持っていないのか」と言い、自分の懐中時計を小村に差し出した。
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後年小村はこの時計のことを思い出し、こう語っていた。
「あの時計は高く売れた、良いものだったんだろうな」
小村は陸奥から貰った時計をその日の内に質屋へ入れて金に替えていたのだった。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「視覚レンズ効果」1・2

    どんな電動機もエンジンも、特にエンジンは通常(巡航)出力と時間制限付きの最大出力と言うものがあり、それに操作者の熟練度が最後の性能を決定する、又、最低出力の制御は、最大出力の制御より困難な事が多いと言う面が有るだろう。

    人間の脳に限らず、生物の進化は、化石その他で推測されているが、実験されているわけでも無く、その能力・機能は化石に残らないので、不明な点が多いというより殆ど不明である。ヒトの場合、話すための臓器が欠いて居れば、話せなかったと推定できるが、機能が備わったからと言って、話せた保証はまるでなく、臓器を獲得してから、機能を獲得するまでには、相当の時間が経過して、実情に合わなくなることも多かったようだし、判定は困難なものが多い。

    現在の人の脳もその機能は十全に解明されているわけではなく、不明な事の方が多いようだし、最大出力の15~20%ぐらいしか使われていないようである。
    又物を聞いたり見たりした場合も、そのままが聞こえたり見えたりするわけではなく経験や知識、その他不明な理由によって合理化乃至は再構成されて、認知されて居る様だ。ある種の認知異常では、全く存在しないものが、全くあるかのように見えたり、逆だったり、複雑で、どんな事をどんなところまで感知・認知出来るかについてはまだ不明点が多い。

    今は、SNSの発達で、妄想を発信して、罪に問われることも多いらしいが、災害発生・予知その他の兆候では、これらを即時配信すれば、被害軽減などで有用やも知れない~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      拡大効果とも言えますが、事が緊急となった場合、脳はどう言う方法で体を復活させるのかと言う話なのですが、その方法が「音」と言うところが中々趣深い。
      つまり視覚はバーチャルであり、これをどうにかしても現実は動かない事を示しているかと思います。
      その上で音と言う物理的現象をバーチャルにして脳は体を動かす訳ですが、ではこうした緊急事態を脳がどうして知ることが出来るかと言えば、端末であるところの微妙な変化がどこかで連結し、総合的にもう醒まさねばならないとの判断が出てくる訳で、これらを考えると、旧ソビエト型情報収集と、イギリス型情報収集のような方法が存在し、そのどちらで動いているかは解らない・・・。
      とても興味深い事だと思います。

      コメント、有り難うございました。

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