「楽如・枝文」礼節と場

命を惜しんではならないが、不用意に失って良いものでもない・・・。

一人で座る時は壁を背にして自身の視界をを広く持ち、これは二人で座る時も同じであり、夫婦、恋人同士であっても決して並んで同じ方向を向いて座らない。

万一の時はどちらかが楯になり、片方が残れるように計らねば残された子供は生きて行けず、恋人なら、それは親からの預かりものゆえ、これらの場合は男が視界の悪くなる窓を背にして座り、それ以外の関係者なら常に自分は壁を背にすると良いが、そうした機会は意外に少ない。

なぜなら二人で座っている段階で親しき者か親族、そうでなければ自身が大切にしている人間だからで、敵と一緒に食事できる機会は殆ど無いからであり、自身が窓を背にした時は、壁側に座っている者の表情に留意して置くことで、自身の危機を知るよう心がける。

3人以上で1つの部屋にいる場合、自身は奥へ入ってはならない。

部屋のドアノブが付いている反対側、1m~2mほど離れた所に立つのが正しい。

万一災害の時は一番最初に避難が可能であり、ドアノブが付いている反対側に立っていると、いきなり侵入者が入ってきてもドアノブ側にいるよりは発見が1秒ほど遅れる。

侵入者の場合は開けた瞬間に撃退する事も可能で、ここでも侵入者と入れ替わりに逃げ易い。

ついでに同席している他者からすると、奥へ入るよりは慎み深く見え、他者より先に腰を下ろさない事で、他者に敬意を表すことが出来る。

この様に世の中には自身の身を守りながら、他者に敬意を表すことが出来る「場」と言うものが有り、普段からそうした「場」を考えて措くことは肝要と言え、もっと言えばこうした自分の姿に気付く人間、或いはそう言う「場」を選択する人間を見逃してはならない。

将来敵になる、ビジネスパートナーになるにしても、そうした人間こそが自身一番のライバルであり、理解者だからである。

臆病者、油断の大きな者、不遜な者は必ずこうした「場」と真逆の所に立つものであり、身なりや年齢、性別ではなく、こうしたものの見方をして置くと、将来自身に取って一番大切な人間を見つける事が出来るが、そうした人間はとても少ない。

臆病者は距離を安全と考えるが、実際に命の危機を潜り抜けて来た者、その覚悟の在る者は「現実」を選ぶ。

侵入者が真っ先に見る物はその視界の前方であり、左右の注意は今ひとつ遅れる。

それゆえ、部屋の真ん中に座っていては標的になっているようなものであり、歩道でも真ん中を歩いていれば同じ事、常に後ろに注意を払いながら歩く、つまりは自身とすれ違う人の表情に注意しながら歩く事が肝要なのであり、しかもすれ違って行く人に、自分が見ている事を気付かせないように歩くのが良い。

神社参拝では参道の真ん中を歩くを禁忌とするが、禍とは神と同じものであり、これを畏れる、恐れるは同じ事と言え、部屋の真ん中で座らない事は、敬意を現しながら禍を避けるに全く変わらない。

礼節は煩わしいと思われるかも知れないが、意外にもそれは敬意を表す事に拠り不用意に敵を作らない事、いつか周囲を自身が遣う時の用意となるものにして、禍を避ける術とも言えるのである。

試しに常に自分は戸口の近くに立ち、一番先にソファに腰を下ろさないだけでも、周囲の印象は違ってくるだろう。

大切な命は自身が一番大切な時に必要になるものゆえ、いつも不用意にこれを失わない努力は臆病ではなく勇気であり、人を信じない事は人に対する最大の「信」とも言える。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「学如・枝文」礼節と場

    いつもに増して、素晴らしい(笑い)~~♪

    古来よりつまらん理由で、命を落とすことや他人を傷つける事は多かったが、AI~SNS~文明の利器で、その危険は激増した、田舎に行けば、路上にヘビ・タヌキが哀れな姿を晒している。これと「大君の辺にこそ死なめ、かえりみはせず」とは違う。

    日本の遣欧使節団が、大きな建物に入って、案内されたのがエレベーターで、狭さに激怒したらしいが、国によって、組織によって、上位者の位置は違う。
    サウジの或る学校の科の職員室の最上級者は戸を開けて、直ぐ右側で有り、下位になるほど奥で、それを理解して居ないときに、袖付きの大きな机の配置に戸惑った、定位置以外の何処においても、机と袖の座りが悪かったが、勿論後で判明して、習慣に従ったら、ぴったり。

    昨今、暴走車に轢かれる事故報道が多くて、誠に気の毒だ。交差点で車道から遠く、電柱・保護柵の陰に立っている人は想像以上に少なく、狭い歩道に自分が進みたい方向に自転車を向けて、恬として居る人も多い。家庭や小学校では、悪いお題目の個性の伸長とかには熱心だが、自他ともに事故に遭わない注意深さは、無頓着になってきているのかも知れない。今まで全然モテなかったのが、急にモテだしたら、有頂天になって、後で臍を噛む(笑い)

    パキスタンで、良くホテルに迎えに来てくれた方は、ロビーの片隅に地味に佇んで、当方に向かって、少し礼をして、その場で待っていた、数人で食事に行って、一度だけだが、待ち時間に、絨毯につい、横になってしまって失礼な事をしたと思ったが、後に彼曰く、「よっぽど疲れていたみたいだったから」良き友に知遇を得れば、礼節も知ることに寄与する様だ。

    近所の天神社にイヌを抱いて拝礼する人を見たことが有るが、飼主が真ん中を歩いて、紐で繋がれたイヌを連れているのを見た時は、神罰が下るように、一瞬呪った(笑い)、我が産土神も先祖神も寛大で、そんな事ぐらいじゃ何もないだろうが、その場で指摘したら逆切れされそう~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      海外の危険地域にいたら標準の事なのですが、日本にいてはこうした事まで考えて行動する人間は少ない。
      でもある種「礼」と言ったものが自然にこれを実践させる効用を持っている事を認識すべきで、こうした考えも経験も無く過ごしていると、道を歩いていても突然刺されたり、暴走車両に撥ねられる事になります。
      「礼」は格好や体裁の為ではなく、極めて現実的な処世術、危険防止マニュアルだと言う事を知るべきだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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