「棗」(なつめ)

お茶の世界では道具の一つともなっている「棗」(なつめ)だが、その起源には二重性が存在している。

一つにはその装飾の時代的変化だが、例えば室町時代の棗には華美な装飾が施されたものが存在し乍、その後戦国時代末期には全く装飾を施されていないものが存在してくる事、また記録上明確に「棗」が出てくるのは「天王寺茶会」(1564年)で「津田宗達」が使ったと言う記録が最も古い記録で、しかもこの時は他の薄手茶器「木製の茶器」より遥かに下の座に措かれていた。

また江戸時代の記録には棗に梅の花が入れられている記述が存在するが、室町の時代にも香り草の記録が垣間見える。

この事から「棗」の歴史は「茶道」の歴史より古く、元々香り入れ、薬入れ、茶入れなどとして中流以上の階級では既に使われていたものが、茶道に転用されたと見るのが妥当な解釈かも知れない。

1564年の天王寺茶会で置かれた棗の立場の低さは、「新参者」の扱い、身分卑しきものの扱いであり、ここに一つの結界に措ける日常性の空間、偶然と必然が一体となった茶の席と言う場に、恥ずかしそうに座っている町娘のような棗の姿を見る思いがする。

更にこの時代の棗が黒刷毛目塗りと言った、極めて質素な仕立てで有る事に鑑みるなら、そこに出てくる非装飾性はちょうど千利休(せんのりきゅう)の「ルソンの壺」にも似たりで、華美なものに対する抵抗、つまりは既存権力に相対した考え方に基づいている可能性が高い。

室町時代には一般庶民の普通の道具で、華美な装飾が施されたものも存在する中、敢えてそれを自身の世界に入れることで、華美な装飾を廃する事で、既存との区別を持とうとした茶道の姿勢には、煌びやかな事の中に潜む愚かさや、他を省みない事への抵抗としたのではないかと考えられ、ここに早くも茶道には既存が有り、これに対する抵抗を見ることも出来るのである。

そして今日、千利休好みとして多くの形の棗が存在し、かつ煌びやかな装飾を施された棗を見るに付け、私は随分可愛そうだなと思っていたりする。

本来は梅の香りを楽しんだり、香り草を楽しみ、或いは貴重な薬を入れてどこにでも置かれていた棗が、茶道と言う権力の捉われの身に堕ち、豊かだが自由を失った、以前は純朴な、しかし今はおはぐろの姑となった町娘のように見えてしまうのである。

世の中には権力でしかそれを擁護できないものも多いが、その権力によって縛られてしまうものも多い。

美味しいものが食べれて綺麗な着物が着られ、何の不自由なく暮らせる事が幸せかどうかは解らない。

江戸元禄時代に体を売って自身の父親の生活を支えていた少女の記録が残っているが、彼女は祭りの日に父親から少ないが小遣いを貰って、楽しそうに祭りに出かけて行くのである・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 新機軸・流行は、権力を獲得する・誇示する一手段であろうし、それを新価値観とすれば、それに対抗する、旧価値観・別価値観で行こうとするのも又然りかなあ、でもこれが人の営みかもしれないけれど、老荘のようにそこから距離を措く集団も現れる(笑い)

    「その少女」が小遣いを貰って幸せを演じるのは悲しいか幸せかちょっと自分は分かりませんが、東南アジアの歓楽街はそんな女性達に支えられて、「正月」になると、帰郷して幼友達と交歓して、幸せを演じるが、知っていながら、お互いに突っ込まない。

    若い時は、大きな家、高い車~~などを目指して、ある時、ハタとこれは高級奴隷(笑い)の道じゃないかと考えても、突き進むのも良いだろうし、その延長で、高級姥捨て山を目指すのも良いかも知れません。
    自分は出来れば自由に、K2、ナンガパルバットを見て、何もしないで、最低限の暮らしがしたいですが、色々義理もあるし(笑い)

    小学生の参観日に良く来ていた同級生のお祖母さんが、おはぐろで、何回も見ましたが、現実的にこの人以外は、見たことが有りません。明治の中期に生まれた祖父によれば、村に1人だけチョンマゲの御仁が生き残っていたが、子供の頃、絶滅したとのこと。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      一般的に茶の湯の世界観が確立され、そして時の権力に対抗していく形は「千利休」に始まったように解釈されていますが、棗の歴史を辿ると、意外に早く茶や華の世界では既存に対する変革が始まっていて、ここから実際は我々が考えるよりもっと早くに茶や華の世界観は出来上がっていた可能性も考えられます。
      また私の資料は江戸元禄の文献でしたが、元禄文化は華々しい表の陰にあらゆる災難の連続と経済的混乱を含んでいて、こうした実質社会の厳しさに対する厭世観が元禄の享楽主義を助長しているとも言えるかも知れませんね。20代後半でしたか、私もタイのHIV感染少女の救済施設を取材した時が有りました。そしてこうした時代あらゆる国にカメラをぶら下げたスーツ姿の日本人が存在したものでした。以後私は絶対カメラを首からぶら下げる事はしない。私はこの時から日本人が嫌いになったのかも知れません。
      幸福はどんな不幸の中にも存在し、どんな幸福の中にも不幸は存在する。
      禍福はあざなう縄の如し、アザゼルはまた神の使い・・・と言うところでしょうか。
      K2を眺めながら暮らすのがハシビロコウ様の夢でしたね・・・。

      コメント、有り難うございました。

      1. 「HIV感染少女の救済施設を取材」次の不思議な人ですね。

        最近は不謹慎なのは「正義の味方」からバッシングに遭うのが定番ですが・・
        禍福で:
        熊本地震の被災者は誠にお気の毒ですが、あれは天災。
        色んな所で、特には中近東で、何カ国からも爆撃を受けて、逃げて行く先も無く、これは人の営み。
        まあ、どちらも成るべく早く、安眠と満腹が来ますように。

        1. ハシビロコウさま、有り難うございます。

          私は黙って漆を塗りながら米を作っていれば良いものを、たまたま海外の報道関係者と仲良くなった為に見なくて良い事まで見てしまい、遭遇しなくて良い事にまで遭遇してしまいました。また40を超えて某朝日新聞の老獪記者と意気投合し、NHKまで巻き込んで田舎では絶対やってはいけない事までやってしましたが、そのおかげで今日の自分が有ることもまた確かかも知れません。
          最近の正義の味方は本当に愚かですね・・・。
          一面性しかなくて前しか見ていない。その割には覚悟もなく匿名の後ろに隠れ、危険を恐れている。災害や戦争と言うものには「結果の早まり」が有り、破たんすべきものは早く破たんし、それによって自分ではどうしてもできなかった事が進んでいく部分も持っている。そしてその陰には多くの人命が失われ、無慈悲に弱い者が死んで行っている。結果が出て生き残った者はこの事を思わねばならないし、如何なる場合でも眼前に広がる現実から逃げてはいけない。
          そこに漂うも良し、闘うもまた良い・・・。
          しかし現実を否定したり、無かった事にしてしまってはいけない。
          正義は現実を超えてはいけないと、そんな事を思うのです。

          コメント、有り難うございました。

  2. 次の不思議な人(笑い):
    それで今が有るのでしょうが、郷里での活動について、以前ホンのさわりを伺ったことが有りますが、メディアの人々と、かなり刺激的な事を(笑い)なさったのでしょう。未だ関係者がご存命だろうし、一般的な話の様に擬装しても、見る人が見れば直ぐ分かって、色々有るでしょうから、記事にはし難いとは思いますが・・そんな日が来る事を願って、寝て待ちます(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      くだんの話は他でも少しさわりは書いた記憶が有りますが、正直にすべては書けないだろうと思います。書いた時にはほとんどの登場人物が悪者、善良な者は愚か者と言う事になり、自身もまた悪者、愚か者の枠にしか入らないだろうと思います。それに職を失った者、倒産に追い込まれた者、それによって自殺する者まで出してしまった事を考えるなら、どうしても言葉にならないものが有り、またこうして月日が流れて闘ったことの意味すらも失われて来た事に鑑みるなら、そこに横たわるものは虚しさと言う事になるかも知れません。
      でも、何かの機会に記録として留めておかねばならない事なのかも知れません。

      コメント、有り難うございました。

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