「鞍馬天狗の剣」・1

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」は出演者の好演がひかり、なかなか評判が良いようだが、今年から女子高生になった娘が毎週欠かさずこれを見ていて、岩崎弥太郎は三菱だっけ、住友だっけと聞く、その姿を見て多少複雑にならざるを得ない私の姿がそこにある。
私が若い頃の女子高生なる生き物は、大河ドラマイコール「オジンくさーい」だったものだが、時代は先に進んでいるのだろうか、それとも過去に向かおうとしているのだろうか。
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さて明治維新の功労者と言えば、やはり坂本龍馬や桂小五郎、西郷や大久保、高杉などの名前が挙がって来そうなものだが、実は無名ながら、この2人がいなかったら坂本や木戸、勝海舟も偉業を果たせたかどうか疑問にならざるを得ない人物達がいる。
今夜は幕末の長崎大村藩、渡辺清、昇(わたなべ・きよし、のぼり)兄弟について語ってみようか・・・。
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渡辺兄弟、ことに剣の達人との言われた渡辺昇は1838年(天保9年)、現在は長崎県に位置しているだろうか、大村藩に生まれ、同藩では若くして「その剣の腕に措いて他に比類する者なし」とまで言われるようになり、18歳の時には江戸に上っているが、ここで剣客「安井息軒」の門下生となる。
だがここで師匠の安井息軒は渡辺昇の剣の腕が、自身の腕をも凌駕することを知るに至り、更なる上の道を目指すようにと言うようになり、こうした経緯から渡辺は江戸に出てきて同じ剣を通じて知り合いになった桂小五郎の紹介により、当時江戸三大道場との誉れも高かった、斎藤弥九郎の「練兵館」へ入館する。
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この「練兵館」には当時桂小五郎が同じように剣を学んでいたが、道場主の斎藤弥九郎は剣豪としても知られていた一方、政治や学問、または思想などにも造詣が深かったことから、おのずと弟子たちも斎藤の影響を受け、その門下生達は闊達な議論を交わし、日本のあるべく道を師匠と共に語り合っていたのであり、この道場の出身者は渡辺をはじめ、桂小五郎、品川弥二郎、高杉晋作、井上馨、伊藤博文などに及んでいる。
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中でも渡辺と桂小五郎は同じ門下生で弟子兄弟であるだけではなく、「練兵館」の中では自身の次は渡辺しかいないと考えていた桂小五郎は、長州に帰国した後の塾頭、師範代に渡辺昇を師匠斎藤に進言し、そのおかげもあって渡辺は「練兵館」の師範代を勤めることになるが、剣の腕は相当のものだったようで、やはり剣を通じて斎藤とは親交があった近藤勇は、自身が開く天然理心流道場「武衛館」に、自分より強そうな剣客、道場破りが訪れると、使いの者を「練兵館」へと走らせ、渡辺を連れてきては「武衛館」のにわか師範代にして、これを追い払っていたのである。
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近藤勇と言う男は実は男らしいのか女々しいのか良く分からない男だが、こうして渡辺に道場破りを追い払ってもらって、それから後は渡辺と共に酒を酌み交わし、2人して剣の道について語りあっていたと言われている。
また近藤の開いていた「武衛館」だが、剣術は勿論、天下国家についても稽古が終わると語られていたようで、そうした中にはやはり口はしっかり結びながらも、目は笑っている渡辺昇の姿があった。
おかしなものだが、渡辺はこうして桂小五郎と言う、一方で倒幕派の急先鋒に立つ男と、もう一方はそれを撃退すべく動き出す男の、両方から信じるに足る男と思われ、こうした友情と言う信頼関係は生涯続いていくのである。
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事実これから後近藤が新撰組を興したおりには、倒幕派として頻繁に名前が挙がる渡辺に対して、内部機密を漏らしてまでも「命が狙われているから京都を去って欲しい」と近藤が進言していたり、新撰組が倒幕派達が集まっているところを襲撃した際も、そこに渡辺がいると、渡辺だけはお構いなしと言う場面が頻繁にあって、土方歳三などはこうした近藤に対して何度も抗議しているが、近藤は何も言わず、「あれは違う」とだけ言って見逃している。
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またこれは伝えられる話だが、勤皇攘夷論者で幕府の役人に捕まった者が、その拘束されている場所で、幕府の役人と近藤勇が話しているのを聞いた。
「大村藩の渡辺は斬れんか・・・」
この幕府の役人に対する近藤の返事はこうだ。
「かの者なら浪人ではない、大村藩士であり立派な人物である、一体罪状は何であろうか」
これは記録に残っている話だからその信憑性はあるのだろうが、こうした話を聞いていると、近藤勇の価値観とは一体どう言うものだったのかは、非常に関心がつのるところである。
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渡辺昇の剣の腕は京都でも屈指のものだった。
ある日京都の町中を友人と2人飲み歩いていた渡辺は、背後から忍び寄って渡辺を斬り殺そうと近づく刺客をふらりとかわし、その傾斜した体勢から片手で抜かれた渡辺の剣は、刺客の脇腹から右肩下を音もなく走りぬけ、次に姿勢を元に戻した瞬間、渡辺は何事もなかったかのように歩いていた。
友人は後ろに刺客が倒れていることすら気づかずに歩いていたのだった。
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更に京都壬生、こうした地域をこの時代、用事が有るとは言え1人で歩いている渡辺の神経は相当なものだが、あっと言う間に3人の浪人たちに取り囲まれた彼は、無言のうちに刀すらも抜かずに足をはらい、殴り倒し、男達を地面に這わせていた。
当時京都ではこうした渡辺の逸話が少なからず残っていて、この渡辺の話を元に出来上がったのが、有名な「鞍馬天狗」だとも言われている。
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                                                     「鞍馬天狗の剣・2」に続く
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※  本文は2010年4月、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「鞍馬天狗の剣」1・2

    誰が見て居なくとも、お天道様が見ているで足りる方が多かったのでしょう。
    古代の戦いは名乗り合って、代表選手が戦ったのかも知れませんが、そこには一定の美学は有るけれど、時代が下って、武士道が深く浸透すると、他人の評価より、自分が属する組織、この場合は、皇尊の統べる国でも良いし、その付託を受ける将軍でも主家でも良いし、その為には、実際はそれに庇護されている自分の家族でも良いけれど、その為に利他行をすることができた。
    縁の下の力持ちは、位が下がってしまったが、今よりはそういう方が多かったのだろう。それは多分西欧にも、“Unsung man.”
     (詩歌に)たたえられることなき男、“unsung heroes. “ (詩歌に)名もなき英雄達、“an unthankful task “ 感謝されない仕事とか言う事があったようなので、騎士道が発達した地域には似た精神が存在したかもしれない。

    そのお陰で、日本には、フランス風やスペイン風の町が国内中に散らばって、異国情緒を醸し出すという事が無いが、最近はそれにあこがれる人も居るようで(笑い)時代は変わったが、少なくとも、ベトナムには、人口不相応な刑務所が宗主国によって建設され、それらしい町並みが各所にあり、食習慣もそれらしいものが色濃く残っているのが、今は日本人観光客を引き寄せているが、歴史を忘れた民族は、今後の運命が楽しみでもないが、色々有りそう。

     ついでながら、ADHDだったらしい坂本龍馬のお陰様も有って大業はなったし、自閉症スペクトラムだったらしい大村益次郎も活躍出来て、歴史に名を残して、都内のどこだったか忘れたが、銅像も有る。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      明治維新では多くの傑出した人物が輩出されていますが、よく考えてみれば皆20代なんですね・・・。
      今の60代でも彼らほど国家や民族と言うものを真剣に概念してはいない事を思えば、何とも情けない時代としか言いようが無い気がします。
      また危機と言うものはこうして人に力を与える側面が有り、比較すると本当に現代社会の力の無さを思わずにはいられません。

      コメント、有り難うございました。

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