「鞍馬天狗の剣」・2

 そして慶応元年(1865年)、薩摩長州が相互に憎み合っていたのではいかんともしがたい、この現状を何とか打破しようと動いていたのは坂本龍馬だけではなかった。
渡辺昇は坂本龍馬、伊藤博文、そして弟子兄弟の桂小五郎と相次いで面会し、その中で薩摩長州の連合を皆に呼びかけるのであり、ここで西郷隆盛と深い親交があった兄の渡辺清は、弟である昇と連絡を取り合って、薩長相互の条件がどこに妥協点を見出せるかをはかっていた。
従って薩長連合が実現した背景には、こうした渡辺兄弟の地道な実務があってのことであり、坂本はその仕上げとして存在していたのだが、勿論薩長連合は坂本と言うキャラクターに集積せねば、成しえなかった部分は大きい。
.
1866年(慶応2年)11月、桂小五郎から重火器購入の手順を依頼された渡辺昇、彼は早速長崎のトーマス・グラバーを訪ねると、あっと言う間に武器調達を果たし、長州はこの渡辺が調達した武器によって絶望的な状況から脱出できたのだが、通常これは坂本龍馬の功績のように考えられている。
だが実はこのときの武器の買い付け実務は渡辺昇が担当し、そしてそれを搬送するのが坂本龍馬の仕事だった。
つまりグラバーとの直接交渉実務者担当会議で渡辺は担当者だった訳だ。
.
また江戸城無血開城、この場面にも同じように渡辺兄弟の顔がちらついている。
西郷隆盛と勝海舟の会談場には兄の渡辺清が同席していただけではなく、勝海舟と西郷隆盛の間に入った清は、やはりここでも実務者レベル協議を担当していて、結局西郷が無血開城を決意した背景には「これほどまでに人の血が流されて尚、まだ血を求めねばなりませんか」と西郷を説得する渡辺清の存在は、そんな小さなものでは無いのである。
.
そしてこの渡辺清、昇が所属していた大村藩だが、1863年(文久3年)佐幕派、つまり幕府体勢を守って行こうとする勢力と、倒幕派、こちらは幕府を倒して新政府を考える勢力だが、この両者が激しく対立していたことを受けて、幕府から佐幕派を擁護する役目を付託された「大村純熙」が長崎総奉行と言う大役で赴任したことから、揺れる大村藩は一挙に佐幕派が支配的になり、当時大村藩の佐幕派筆頭だった家老、浅田弥次右衛門の派閥が大村藩を独占支配することになって行った。
.
だがこうした佐幕派に一度は撃退された倒幕派だが、そうした中でも針尾九左衛門を主として「三十七士同盟」を結成し、佐幕派との対抗をまた強めていく。
このような大村藩の動き、そしてどうしても止まらぬ倒幕の風潮、大村純熙は1年後の1864年(元治元年)、長崎総奉行の要職を辞任し、これによって蓋が外れた大村藩は倒幕派の針尾九左衛門たちの勢力が支配する形を取り戻していく。
渡辺兄弟が薩長連合に奔走していた頃、彼らの所属する藩もまたこうして動乱の時代を迎えていたのである。
.
1867年(慶応3年)、この年は明治天皇が即位し、大政奉還が実現し、王政復古の大号令が出された年だが、この年の11月15日、坂本龍馬は暗殺され、そしてこうしたどちらかと言うと、急激に進み始めた時代に少しブレーキがかかってくるような時期には、やはり同じようなことがあちこちで起こってくるもので、同じ年には大村藩でも佐幕派による針尾九左衛門ら倒幕派に対する暗殺事件、襲撃事件が起こり、この襲撃事件には渡辺昇の方が巻き込まれる。
だがこの襲撃事件は失敗、渡辺もほうほうの体で命を拾うが、この佐幕派の暴挙は失敗だったことから、これ以後佐幕派は大村藩から一掃され、大村藩は倒幕派の急先鋒として薩摩、長州、土佐、肥後に次ぐ活躍をする。
.
渡辺兄弟の活躍は言うに及ばず、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城、彰義隊との合戦、と大村藩の軍は常に官軍の中核にあって、とても奮闘した軍だった。
それ故戊辰戦争の論功行賞でも、その働きの一番大きなところは薩摩長州、次なるは土佐、そして大村藩と言うのが当時のありようだったのである。
.
新しい日本の夜明けにはこうして薩摩、長州、土佐、または肥後、そして長崎の大村と言った具合に、中央より遥か離れたところの地域がこれを牽引して行った。
その背景には勿論開国を迫る外圧と言うことから、海に面した地域がと言うこともあっただろうが、それを鑑みても、地方が先に動いて中央を変えて行った意義の大きさは余りあるものだ。
.
また歴史は常に光の当たった者だけで作られて行ったのではなく、そこに多くの人の意思が、または願いがあって、数知れない光の当たらなかった者たちが存在してこその歴史であり、この意味では現代のこの瞬間も、それと何等変わるものではない。
マスコミよってクローズアップされる者だけで世の中が動いているのではなく、何も言わず、褒められもせず、しかし黙々と働く多くの民衆があって、今の社会が、歴史が作られていることを決して忘れてはならない・・・。
.
.
※ 本文は2010年4月、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「経営者の言葉」1・2

    誰だったかは覚えていないが、立志伝中の経営者の経営でも会社でも人生についてなどの考え方については、一切聞く必要が無い、とか誰か言っていた気がする、その心は全てが、それぞれ違うのだから、偏頗な事に囚われては、柔軟な考え方が無くては、次々変化する状況や、それぞれの制限内において、正鵠を得た対処が出来ないからという事の様だったように思う。
    会社でも政治家でも、事を為す人は、それなりに独自で、自己の苦労からや、過去の事績から失敗は学べても、成功はそれほど学べないものかも知れない。
    円高の時、M&Aで有望な会社を獲得するのに反対ではないが、通常は、伝えきらない創業の精神がぼやけそうで、金儲けには資するだろうが、一種の帝国主義で有ろうし、何となく好きに離れない。美味しい羊羹屋を買収して、職人が引退した後も、その美味しさを射ずするのは至難だろう。

    ドジョウは子供の頃、田んぼの用水に、郷里では「ド」と言っていたが、筌(うけ)を仕掛けて良く捕った、当時は沢山いた、保管もしたが、共食いは余り記憶にない。
    開いたのでも、丸でもドジョウ鍋は好物であったが、もう何十年も食べていない。料理屋では素焼きのような浅い土鍋で供されたが、30年以上前は、定食屋にも有って、安価だった。今粗食だが、そんなものなら食べたい、近年ハンバーガーだのフライドチキンだの、カタカナモジノの手づかみ料理が全盛だったり、色彩豊かな妙なものが大流行で、街に食いたい食い物が殆どない。地産地消と称する怪しいパフェが出たりするが、何か根本的なものが違ってきている気がする。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      美しい言葉には実が無く、経営者が語る話などはその反対が真実だと思った方が良いのかも知れません。
      またそもそも経営手腕と性格や人格まで一致するなど在り得ない話でも有り、しかし民衆はこれを求める。
      私が経営者なら、きっと相手が望む言葉を話すだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。