「ジャパン・マーケット」

出逢ったときは福山雅治かキムタクか、輝く瞳に精悍な顔つきだった亭主も、気が付けばグレーのスーツにヨレヨレ具合が妙に板に付き、メタボなシルエットにすっかりクールビズな頭頂部、さてさてこんな亭主だが、今夜は何を食べさせようか、健康を考えればあっさりしたものをとも思うが、それでは部活から帰ってくる子供達のスタミナが心配だ・・・。
全く食事を作ることほど悩ましいものは無いのが、主婦の偽らざる声と言うものだろう。
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そしてこうした傾向を如実に繁栄しているのがスーパーの棚割り、つまりどこに何を並べるかと言う作戦だが、ここに賭けるスーパーの並々ならぬ意気込みに、今夜のおかずに悩む主婦達の横顔が見え隠れしている。
実はスーパーやデパ地下へ買い物に来る人で、どこのメーカーの何が欲しいかを決めて買い物に来ている人、例えば今夜はスパゲッティで、メーカーは○○の物を買うことが決まっている人は、買い物客全体の僅か9%に過ぎず、またどこのメーカーにするかは決めていないが、スパゲッティを買うことを決めている人は13%ぐらいだ。
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即ち買うものが決まって買い物に来ている人は全体の20%しかなく、凡そ75%の買い物客は、何を買うかすら決まっていない状態で買い物に来ているのである。
これは例えば欧米などと比べると、かなり買うものを決めていない客の比率が高くなっているが、日本の食卓事情、つまり生鮮魚介類の消費がある為、こうした消費選択の比率が他の消費選択比率を不確定にしている背景がある。
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従ってスーパーなどでは75%の人が何を買うか決めていないが、何かは買う訳だから、ここで自店が売りたいもの、また利益を上げたいものを、棚の陳列や値札の工夫などによって売り込むこもうと、スーパーは必死になる訳であり、ここで出てきた75%と言う数字、これを「店頭決定率」と言う。
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またどんな店舗でも沢山売れるものは多く仕入れて、多く棚に並べるが、そうでないものは少ししか仕入れず、しかも棚の陳列も端っこに数個が並ぶだけになる。
この余り売れなくて仕入れも少ない商品、これは一般に「ロング・テール」と呼ばれるもので、ちょうど恐竜の尻尾を考えて頂くと良いかも知れないが、店舗ではヒット商品となるものは数が少なくて、売れないけど用意されている物の数が圧倒的に多くなり、これをグラフに表示すると恐竜の尻尾のような形状を示すことから、こうした数の少ない商品のことをロング・テールと総称し、従来だとこれは非効率な商品とされてきた。
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しかし近年発達してきたネット社会は、こうしたロングテールの特殊性、また例えば日本に10人しか必要としないようなものまでを検索することが可能となり、より消費者の特殊事情に合致する商品の消費が発生してくるとともに、こうした特殊性に価値を見出す傾向も現れてくる。
本質的な価値は問わず、その数の少ないこと、また極めて特殊なことを価値と考える傾向は、「おたく文化」の価値反転性の競合とまさしく同じものだが、旅行などで日本人が余り行かない所へのツアーなどに人気が出るのはこうした傾向の現れであり、比較的富裕層向けの商品として、従来は敬遠されがちだった、こうしたロング・テール商品に対する見直しが始まって来ている。
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更に「イノベーション」、これは日本語に訳すると平板な意味では「革新」とでも呼ぶべきか、つまり社会に何らかの変化をもたらすような「物」を考えた場合、実は非常に厳しい現実がここに横たわっている。
メーカーが作る新製品の市場での成功率、即ちここでは開発や営業に要した投資を回収できたことをして、成功だったと呼ぶにしても、その成功率は近年急速に落ち込んできている。
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これは世界的な傾向ではあるが、複数の研究機関の統計を総合して見ると、メーカーが出した新製品の成功率は、せいぜい24%から26%程度に留まっていて、これはつまり、いろんなメーカーの出した新製品で、何とか採算が取れたものは平均25%しかなかったと言うことであり、4つ新製品を出しても、市場がそれをかろうじて受け入れるのは、その内たった1個だけだと言うことだ。
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これに関してマサチューセッツ工科大学、E・ヒッペル教授はその著書「民主化するイノベーション」の中でこう述べている。
実は新しいイノベーション(革新)はリードユーザーと言う顧客の中で起こってきていることが多く、彼らはまさにソリューション(問題解決)の真っ只中にいて、メーカーの開発能力を超えて、自由なイノベーションを実現している。
それ故メーカーは、自分だけがイノベーションの主役であると言う考え方を変革して、リードユーザーとの連携によってチャンスを拡大することを考えなければならない。
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さすがにアメリカの大学教授だけあって横文字が多いが、これは簡単に言うと、もうメーカーよりも消費者の方が感性的にも、流行的にも、機能考察能力的にも上に行っていることから、メーカーが独自で考えたものは時代遅れや錯誤にしかならないことが多くなる。
だからメーカーは消費者と協力して、彼らの意見を取り入れながら商品開発をしないと、新商品はこれから更に成功率が低くなる・・・、と言っているのである。
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そしてこれは広告に関して・・・、ダイレクトメールでのレスポンス、つまり「反応」だが、実は僅か1%でしかない。
流石にひと頃より少なくなったとは言え、未だに時々舞い込むダイレクトメール、これから先の時代では、こうしたダイレクトメールを送りつける企業は、逆に消費者によって「淘汰」される対象になることを覚えておくべきかも知れない・・・。
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※ 本文は2010年4月、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

6件のコメント

  1. 「ジャパン・マーケット」

    日本を修正愛したES モースは、小物でも家屋でも、その他、日本には同じものが二つとなく、職人は芸術家である、と言うような事を言っている。

    街を歩いていると、自動車の多様性は目を見張るものが有るが、特に国乗用車あんなに多種が必要と思えない、又草創期と違って今は十分に耐久性が有るのに、使い捨てをするようなのは、時代と考え方に数十年乖離が有るとしか思えない。
    潜水艦も駆逐艦も、同形式と言いながら、改良されて、場合によっては製造開始されてから設計変更されてすべて違う、平時ならまだしも、戦時には順序良く沈没するわけではないから、生き残り別艦に乗船すると同型艦でも習熟が必要だったりする(笑い)

    と言いながら、幸せ~人生についての設問は2500年間変わらないけれど、時代に合わせて、今の幸福をかなぐり捨てて、不幸に突っ込んで行くばかりなら、勝手にしろ、だが、他人を巻き込むやつが多過ぎ。
    最近は、不用品を買うとか、不払いが有るから訴訟にならない様にするからとか、いう連中ばかりが、連絡してくるのが、こちらも学習して、先方から申し出の便宜は全てロクデナシ認定をしている~~♪
    後、無い財産を保全するお手伝いをすると言う輩も居る(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      日本のマーケットは収束マーケットで在り、高齢社会では既に物は揃っている訳で消費は常に下降線になりますし、前年同期と同じ生産をして行くと必ず余剰、つまりデフレーションになる。
      これをヘリコプタ資金で株価だけを上昇に向わせると、現実との乖離が発生して来る。
      つまりアベノミクスなどと大仰な名前を付けた、アマチュア経済政策は当然の如く崩壊する。
      さて、準備をしておきましょうか・・・。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「七と、関係の良くない二」

    支那では、肥沃な大地が有り、古来より多種の民族の栄えては滅んだ地であり、それぞれの言語は各種に分かれており、民族が意思疎通するために必然的に文字が発明されたのであろうが、統一的王朝では無いが為に、見れば特段の説明が不要な象形文字から発生したのであろう、最初は数が少なくともその利便性から飛躍的に創造されて、その意味の展開から原始的な象形文字の組み合わせや、創作が加わり、爆発的に増えたのだろう。

    それで十分に用件は足りることが多かったから、必然的にゲルマン系やラテン系とは違って、複雑な格変化~性別とか文法と言うものは発達せず、時は立って、今日に至ったのだろうが。
    使う人間が増えて、逆に覚えられなくなって、簡体字を発明したのだろうけれど、簡便にはなったが本来の機能も失って、或る意味複雑は表現が出来なくなりつつあるのかも知れない。そして最も重要な意思の疎通や概念の伝達機能が弱体化され、文化・文明そのものの衰退に向かっているのかも知れない。
    漢字文化よりハングル化に向かって、改善点も多くなったが、ハングル世代は、古典が読めなくなり、表現も単純化され、人の心までが蝕まれつつあるのかも知れない。

    数字は事前は10進法的に動いているようでも有るが、宇宙に時空の歪みが有るらしいし、ワープという事も有るとすれば、数字世界が、2進法とかその他の世界も有って、異事世界を構成しているかもしれない。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      2と言う数字は1の次に不思議な数字であり、ここでは別れていく2を解説しましたが、実はくっ付こうとする2も在り、2は漢字の「八」とても因縁が有り、その一つ前の「七」は「切る」です。
      古代の中国では偶数をくっ付く可能性、奇数を離れていく可能性と見たのかも知れませんが、漢字の数字はそれぞれが個性も持っていて、大変趣深い。
      古代の人のイマジネーションの豊かさを感じます。

      コメント、有り難うございました。

  3. 「二から解放された三」

    筆順に厳しい先生が居て字が下手なのはそのせいだ、見たいに言われて、今なら「苛め」認定かも知れないが、確かに漢字辞典には筆順を示した物も有り、一応の参考にはしたが、結果が同じなら、とやかく言うほどの事は無い、活字には筆順と言うものが当てはまらない。小中学生の時の友人に、めっぽう達筆の人が居て、どんな字でも見れば、必ず達筆で書いた、筆順も大抵は正しかったが、違うのも沢山あった。文字は基本的に意図が通じればよい。但し、何かの作用が働いて、美しかったり、魅せられたりする字も有るが、腹の立つ字も有るのは不思議な現象だが、人格~性癖から学習効果が発生していて、或る意味ストループ効果が有るのかも知れない。
    世の中に図鑑と言うものが有るが、挿絵は基本的には写真を使わないで写生図を使う。人体解剖図でもそうらしい。
    写真は真実では有るのだが、現実と視覚と脳の関係などで、理解度を高めるように見せるには、何かの変更を加えて訴える必要があるようだ。
    物を観察するときには、自然に乃至は身の回りに有るものを、一定の範囲で簡略化して、記憶して居る様だが、進化で全く歪んでしまったものも有り、その中でもシェパード錯視やその他の錯視が有り、これは実は超えられないようだ。
    これは視覚系の話だが、或る宗教や主義に何かで「汚染~浸潤」などが有ると、その観点からしか物が見えなくなることは、日常茶飯事で、議論は永遠にかみ合わない。最終決定には民主主義は結局は無力で有り、力で有ろう、もっと分かり易く言えば戦争で、勝ったものを、認定する、しかないかも知れないが、美しい言葉の魔力に汚染されているものは、双方に居るが、その美醜~正邪も永遠に相互理解は無いかも知れない。

    「令和の記念コースター」登載おめでとうございます~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      基本的に2は林で3は森、つまり2までは数字どおりの容積となりますが、3からは容量的には無制限、無限を表示する事になり、ではそれ以上が全て無限になるのかと言えば、4は数字どおりの数になる。
      つまり無制限は3と言う事、3は無制限や無限を表示していると言う事になります。
      そしてこうした意味では身制限に大きい概念として「9」が在り、無制限での段階が有る事もまた示唆されていますね。
      ちなみに「令和コースター」、思ったより不振でした。世の中はそこまで甘く無いと言う事なのでしょう(笑)
      コメント、有り難うございました。

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