「ツバメが来ない」

イメージ 1
                         2010   3  28     old passion
.
「田所さん、家には毎年沢山のツバメがやってきて巣をかける・・・・、じゃが今年はどうしたことかツバメが来ない・・・、どうしてかな・・・」
「分かりません、私にも分かりません、でも何かが起こってきている、今はそれしか言えません」
「最後に一つ聞いて良いかな、科学者にとって大切なものとは何かな・・・」
「それは勘です」
「勘・・・」
田所博士の言葉に一瞬戸惑った後、「島田省吾」扮する政経財界の黒幕「亘老人」はゆっくり頷く。
.
1973年に封切られた小松左京原作、映画「日本沈没」の冒頭の一場面だが、これと同じことが今私の住んでいる所に起こっている。
4月に入ってやっと2羽だけ家にやってきたツバメ、しかしこのツバメは翌日にはいなくなり、それ以降これまで家に入ってくることはおろか、外を見回しても全くツバメの姿が見えない。
.
例年なら3月後半には沢山のツバメがやってきて、外も家の中もやかましいくらいなのだが、それが今年はいつまで経っても静かなままで、ついでにカエルの鳴き声も全く少ない。
年寄り達が皆口をそろえて言うことには、こうしたことは初めてで、何か悪いことが起こらねば良いが・・・と一様に不安が隠せない様子だ。
だが確かにおかしい、他のスズメやサギなどには異常が見られず、ツバメだけと言う点もそうだが、通常地震などの巨大災害の場合でも、生物の種族保存確率の均衡性と言う力が働き、全くいなくなると言うことは無いものなのだが、これはどんな災害環境にあっても、少ない生存確率の中でも、可能性を残そうとする生物的本能のようなものだ。
.
だから全くいないと言う状態は可能性としてないとは言えないが、めったにあることではなく、こうしたことを鑑みると、一般的に想定される災害でも見られないほどの異常な事態が、その先に連想されてしまう。
即ち、何らかの「転変地異」以上の巨大変動の影がそこに感じられてしまうのである。
.
地球は今から23億年前付近と7億年前付近、地球全土が凍結する、いわゆる「スノーボール」現象があったとする仮説がある。
地球の気象が寒冷化に向かい、氷床が徐々に北極と南極から張り出していくと、これによって地球の太陽光の反射率が高まり、加速度が付いて、瞬く間に赤道付近まで氷に覆われてしまう。
地球は文字通り、氷の玉になってしまうのだが、こうして全面を氷で覆われた地球が元の温暖な地球に戻るには、火山ガスなどの二酸化炭素量が0・1気圧以上になるまで高まらないと、元には戻れない。
.
そしてこれだけの量の二酸化炭素となると、おそらく数百万年と言う単位を要しなければ、大気中に二酸化炭素を蓄えることはできないだろう。
だが一旦赤道近くの温度が0度を超え始めると、地球を覆っていた氷床は瞬く間に消えてなくなり、その後残った膨大な二酸化炭素の影響で、今度は温室効果が発生し、地球表面の温度は平均で50度近くまで一挙に上昇する。
その後水循環が始まり、陸地が浸食を受け、大気中の二酸化炭素は海洋で炭酸塩岩となって、大気中の二酸化炭素量が減少し、これで温室効果も終わり、地球は元に戻る。
.
こうしたことを少なくとも地球は、過去2回経験しているだろうと言われているが、面白いのはこのスノーボール(全球凍結)以後だ。
このような地球の過激な変動の後には、多様な生物が大量発生してくることであり、この生物の多様性は爆発的なもので、形も自由ならその機能も全く現代では説明の付かないものとなっていて、カンブリア紀までの数億年までに全て滅び、そしてカンブリア紀にはまた新たな形態の生物たちが爆発的に発生してくる。
.
実は生物の進化は系統的なものが無く、こうして地球に変動が起こるたびに、全く違った進化系が発生して、次の地球の変動までには衰退し、地球の変動後、再度爆発的に発生してくる、こうしたことを繰り返しているのである。
.
人間にはどうすることも出来ない巨大災害、これは確かに厳しく辛い現実を及ぼす。
しかし同時に巨大災害の持つ意味は、「決着をつける」ことであり、人間ではどうしてもできない線引きを地球が行うと言う点にある。
そして線引きが終わると、また生物はこの世の春を謳歌するがの如く爆発的に繁栄していく。
.
人間は生きていると、自分で自分の決着が付けられないし、これを自分で決着してはならない。
また一度存在してしまうと、永遠にでも存在し続けたいと願うかも知れないが、その存在の始まりを自分の意思で行えないのと同じように、その存在の消滅も自身が決められない、このことは大変ありがたいことのように私は思うのである。
.
.
※ 本文は2010年4月13日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「ツバメが来ない」

    渡り鳥と言うのも、便宜的な言葉だが、ま、仕方が無いけれど、サケとかカツオとかウナギは回遊魚と言っているのか、ヒトも長い間、放浪~移動して暮らしていた。チンパンジーは群れの縄張り内を遊動して暮らしている。
    大草原に住む、ウシやシカ類も季節移動して暮らしている。

    行くと来るとでは本来の場所はどこかと言う概念が入って来て、これは文化にも関連してくるが、余り考えれれないままに使っていることも多い様だ。
    ハクチョウが、シベリアへ帰るは良いけれど、ツバメが、南へ帰る、と言ういい方には自分は個人的には抵抗している。
    ハクチョウの故郷はシベリアだが、ツバメの故郷は日本で有って、東南アジアは、越冬地である。

    自然界の動物は、摂理が強い中で生活していて、自然現象に特に災害に文句を言う事は無く、順応が間に合えば生き延びるし、そうじゃなければ滅びた。
    ヒトはどこでも繁殖して、自然を都合の良いように改変を試みて、真冬のイチゴ、メロンまで獲得したが、自然に無理をさせて、喜びを薄くしているかも知れない。
    地球が温室効果ガスで温暖化しているのかどうかは、不明だが、色々出来そうも無い事を試みているが、高齢の心肺停止の患者に蘇生術を施して、自分の財産の保全を図るなら良いが(笑い)、当人の苦しみを長引かせて、自己満足なら、酷い話だ。

    2500年前にシーダルッタは、苦である生から輪廻を断ち切って釈尊になって、現代の似た人は違うが(笑い)、釈尊を祭る事を禁止して、ブッダの意思を継ぐことは、真理の燈火への帰依、簡単に言えば、苦しむ人々を助ける事こそが、救いの道と言うのであるが、未だになってはいないで、捻じれた自己承認要求は益々、猖獗を極めているのかも知れない。

    余りにも小粒で、言及しただけで穢れそうだが、「保育園落ちた、日本死ねの」衆院議員が無届(笑い)不倫旅行して、知らんぷりが現代の流行り(笑い)であるらしい~~♪

    兎も角最近、心底劣悪、言葉巧みなのが跳梁しているが、それに騙される純朴(笑い)な被害者擬きは、それ以上に跋扈している~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      今から思えばこの年は本当に不思議な年でした。
      これから以降夏には猛暑を向え、家の畑ではサトイモの花が咲くわけです。
      今から思えば東北の地震の前兆と見られる傾向が随所に現れていたのですが、これを多くの者が見逃した。その原因が周期予測と言うアカデミズムであり、学術的常識に拠ってこれが葬られた事は大いに考えるべきところだと思います。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「災害の意味」

    遺伝的には全く同等であるが、環境の良い家猫で、繁殖の可能性を手術によって除去された猫は、時に20歳以上の長命であり、飼い猫ながら、そうではない場合は、事故・罹患の蓋然性が上がり半分程度になることが多い、野良猫は、そのまた半分ぐらいで有り、その間に、数度の繁殖が成功する場合も有る。食物が足りれば、繁殖の回数は増える。どれが自然かとかどれが幸せかと言う問題は、結論が出るようなものではないが、考える事は悪い事ではないだろう。

    人間社会は一般には裕福なると少子化が進み、貧困であると多産であることが多いが、裸族などは、生きて行ける以外でも出産は有るが、処置をすることが多い、安っぽい人道主義の入る余地は少ない。

    オバマも「Change」を、10年前の「民主党」も変革を訴えて、結果はより悪かったが、今小泉某も、日本変革を訴えているが、どうするかは無く、結局ロクデナシであろう。実力・実行力のない奴ほど、「ヘンカク」を口走る~~♪

    人は今、確かに高齢化して、初めてのことで有り、上記の猫の、環境の良い飼い猫状態の気もするが、遺伝的に又は進化して獲得した形質を生活環境の変化によって、最大限に発揮しているだけで、或る意味、起こるべくして起きたのだろうが、長生きはしたがるが、耄碌はしたがらない、と言う事だろう、インドでも日本でも多分、禍福は糾える縄の如くであり、幸不幸は事の表裏である。

    インディアンの言葉に:

    わしらにとって、家族とはとても大切だ。家族全員が、子供たちに責任をもつ。母親と父親だけでなく、すべての家族、祖母、祖父、おば、おじ、姉、兄たちが、みんな子どもたちに教えるんだ。彼らはみんな、お互い気遣い合っている。

    わしは、政府が長老たちのために老人ホームを建てたのを見て、悲しくなった。
    いかにも白人らしいやり方だ。長老たちは家族の中心で生きるものであって、ひとりぼっちで死ぬのを待つものではない。長老がいなければ、それはもう家族ではないんだ。
    家族なしでは、人は何者でもなくなる。大地から離れて根付くことも芽吹くこともできに、風に飛ばされる種と同じだ。家族はわしらの花壇だ。魂の花壇なんだ。

    人は長命になって、人生が薄くなって、相対的に、不幸が色濃く出だしたのかも知れない(笑い)。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      大正末期に発生した関東大震災の記録では、災害に拠って「平等」を感じたと言う言葉が出てきます。
      天変地異、天の為す所は事の善悪、貧富や立場に関係なく起こってきて、これが現実に災害となると「平等」を感じる事になります。そしてそれだけその時代が腐りきっていて、格差が激しく、怠惰な時代と言う事の証でも有ります。

      コメント、有り難うございました。

現在コメントは受け付けていません。