「知る権利と伝える権利」

古参の新聞記者などが良く新人の記者に言うことで、「取材手帳は詰めて書け」と言うのがある。
これはどうしてかと言うと、裁判上の問題があった場合、メモを書いた日時によって等間隔、もしくは詰めて書いてあると、あとで書き加えれたと疑われない為であり、このことは何を意味するかと言えば、記者のメモは裁判の証拠となり得るものだからである。
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同じことは例えばドメステックバイオレンス、しつこい付きまとい被害などにも多少条件は違うが適応されるものだ。
日時、何があったかなどを順列ごとに記載してあるメモは、その内の何%かの事実が確認されれば、裁判上の重要な資料として参考とされる。
また録音による記録はこうしたメモより更に高い証拠能力があるが、取材に関して本人の同意を求める必要があり、もし本人の同意なくして、その本人が不利となる証言を録音した場合、相手が「個人」ならその録音は不当なものになる可能性があるが、相手によって迷惑を被っている、もしくは犯罪の可能性がある場合はこの範囲ではない。
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ただし公人、例えば市長や代議士、行政担当者、会社代表などの「個人」ではない存在については「国民の知る権利」が優先されることから、完全にプライバシーでなければ、取材し、記事にすることによって相手側から訴えられても、こちらの正当性を主張できる。
また公務員の守秘義務違反と、取材源の秘匿性ついて、これは裁判でも紆余曲折があったが、次のように司法判断がなされている。
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1979年札幌高等裁判所での判決だが、報道の自由を守るために、報道関係者が取材した取材源を秘匿する権利は、ジャーナリストの基本的倫理であるとする、つまり取材源の秘匿は「職業上の秘密」に相当すると言う判断がなされたのであり、これは公務員の守秘義務が内から外への情報の動きを封じるのとは対照的に、積極的に求められた場合に拒否できる権利である。
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だがもしこの2つの権利、公務員の守秘義務と取材記者の取材源秘匿権がぶつかった時にはどうなるか。
2005年10月、新潟地方裁判所はあるアメリカの健康食品会社への課税処分を巡ってなされた報道に関して、課税処分を受けたメーカーから訴えられたNHK記者の職業上の秘匿権を認め、この記者の証言拒否を妥当とした判決を出したが、同じ事件報道でやはり読売新聞記者が、同じように裁判で職業上の秘匿を基に情報源の証言拒否を闘ったが、こちらは2006年3月14日、東京地方裁判所の判決で、記者の証言拒否が認められなかった。
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同じ事件で同じ案件で訴えられたこの裁判は、片方のNHKの主張は認められ、読売新聞が認められなかったと言う、異例の判断になったが、その背景に潜んでいたものは公務員の守秘義務である。
2006年3月14日の東京地裁の判決を見ると、読売新聞記者の情報は公務員がその守秘義務に違反して語ったものである可能性があり、こうしたことから、もともと法令に違反した形で得られた情報については、取材者の情報源に関る秘匿権利は制限を受けざるを得ず、記者の拒否権は一部に付いて認められない、つまり読売新聞記者の拒否権を認めない判決になったのである。
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しかし先の2005年10月のNHK記者の判決について、こちらはメーカー側が更に抗告していたことから、2006年3月17日、東京高裁が判断を出したが、ここで東京高裁が出した判決は、2005年の新潟地裁の判決を支持し、メーカー側の訴えを再度棄却するものだった。
同じ案件での裁判にも拘らず、僅か3日違いで片方は認められ、片方は認められない、こうした司法上の矛盾に対して司法当局が行った事は、以後の徹底した「整合性」の確保しかない。
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2006年4月24日、こちらは共同通信社記者の取材源証言拒否に対する東京高裁判決では、共同通信社記者の証言拒否を妥当する判決を下し、これによってこうした取材記者の情報源の秘匿権は、殆ど無条件に認められていく道が地方裁判所に対する上級裁判所の判断として示されていく。
2006年6月14日、こうした流れから東京高裁は2006年3月14日、東京地裁によって出された、読売新聞記者に対する証言拒否を認めない判決を全面撤回、一転して読売新聞記者の証言拒否は無条件で認められる判決を出して、この事態の収拾を計ると共に、一定の判例となる道を作ったのである。
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さて気が付けば、また少し難しい話になってしまった。
では今夜は最後にフリーペーパーと報道の闇を少しだけ書いて終わりにしようか・・・。
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フリーペーパーが各家庭に配られる仕組みは、新聞配達業者に一枚数円で新聞に折り込んでもらって、新聞と一緒に配布される仕組みが一般的だが、この場合編集制作費を除くと、印刷代金よりも折り込み代金と配布代金の方が高くなる場合がある。
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また例えば新聞を超える記事が書かれているフリーペーパー、これが新聞と看做されると業者が配達を拒否する場合がある。
各新聞社の規定によって、他の新聞を配布することを制限しているからだが、実際は新聞配達業者は複数の新聞を扱っていて、既存のものは大丈夫だが、新規のもので他の新聞を脅かす記事が書かれているフリーペーパーは、拒否されると言うのが実情かも知れない。
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そしてこうした新聞配達業者、または新聞も地方紙などは完全にそうだが、政治的支配が強く、有力代議士を批判するような記事が書かれたフリーペーパーだと、そもそも印刷から始まって拒否されることが多く、そうした時には新聞配達業者もまた、これは新聞と判断したので、規定により配達できないとの「お断り」の回答が寄せられるのであり、ましてやこれが行政ともなると、新聞記者対策室なる陰の部署が秘書課などに設置されていて、毎晩のように報道関係記者や有力新聞記者を誘って飲食の接待が繰り返されているのであり、こうした背景から記者は末端の行政の実情は記事にできないばかりか、殆どが行政の鞄持ち程度の記者でしかなくなっている。
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更には某国営放送、この衛星放送番組部門には、コーディネーターなる中間組織が存在し、本来取材は無料で行われるはずなのに、高額な金銭を要求して、その見返りに取材報道するような仕組みが出来上がっている。
一軒あたり7万円出せば、この町並みをN○Kが取材しますので・・・と言った話は地方でよく聞かれる話であり、景気が悪く何とか都会へ田舎を発信したいと願う地方の人たちは、こうして高額な取材協力費なるものを払って、送迎付き、豪華食事付きで取材して頂いている場合があるが、こうしたコーディネーター、企画会社と国営放送との関係は今ひとつはっきりしないものがある。
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本文は2010年4月18日、yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

4件のコメント

  1. 「知る権利と伝える権利」

    何方が良いとか悪いとか、優劣の問題では全くないのであろうけれど、インドの様にジーッと見る文化も有れば、日本の様に、あまり見ない文化も有るけれど、イザベラ・バードが、日本を旅行した頃は、彼女は・・見世物小屋の・・出し物の様に見られた、と述懐している、同じころ、ESモースは、例えば、民家の生け垣の庭の中でうら若き娘が、行水をしていても、誰も何事もないかのように、興味を示さない、という事に驚いている。

    今、ドローンが大流行りで、皇居上空や自衛隊・アメリカ軍の上空を飛ばすことを禁じるのは、知る権利の侵害とか言う連中も居る様だが、時代によって、鼎の軽重は変動するのであろうが・・
    耳袋に“大岡出雲守が大岡越前守に盛事の心得を聞いたとき答えて曰く、「都(す)べて人に対して候ても、世に対して候ても、万端を合わせ候て御計(おんはかり)こそ然(しか)るべし。然し実を以て合わせ給う事肝要の心得なり」と・・
    偏頗な思慮足らずが、横行して世間を住みにくくしているかもしれない。

    集合郵便受けに「伝書鳩を入れないでください」と言う張り紙が有る地域が有るようだったが、タウンペーパーの名称だったようだ(笑い)
    旅番組で、「偶然」見つけた各種お店に入って、紹介する話が多いが、真に受けて、田舎の菓子の老舗などに「勝手に」入っていて、職人に「秘訣」を聞く人も増殖しているらしい(笑い)

    知らないで措く権利~知られないで措く権利なども尊重した方が良いかも知れない。
    未だにエボラ出血熱は、鎮圧されているな風だが、忘れる権利を行使して知らんぷりも多い~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      矛盾の矛と楯の関係に同じですが、権利と言うものはこうして物事の両極端から始まってどこかではぶつからざるを得ないものでもあり、ここを裁判で判断する場合、必ずしも統一的結果とはならないだろうと思います。
      ケースごとに違った判決が出る事の方が自然な気がします。

      コメント、有り難うございました。

  2. 「大いなる旅路」1・2

    ヒトの繁殖では、オスは、数を重点を置いている、極端な事を言えば、メスだったら誰でも良い。一方メスは、繁殖のために使うエネルギーが膨大で、数はこなせないので、質を重視する。よって、動物共通である選ぶ権利は概ねメスが握っている。そのために、ヒト以外は概ねメスに気に入られるように、見てくれを良くし、体格を良くして・・という事を遣っている。
    但し、他の動物と違って、ヒト社会では富が偏在しているので、表面上はオスも選ぶ権利を留保しているように見えるが、メスは自分が生んだ子供は(最近は少し怪しくなってきているが)確実に自分の遺伝子の運び屋だが、オスは、配偶者の産んだ子供でも自分の遺伝子の運び屋じゃない可能性は、いつも一定数残っている。
    多分中睦まじい、オスメス協力して、ヒナを育てているツバメも遺伝子を調べれば、違うオスの遺伝子は混じっているだろうけれど、お互い様であるから、ヒトの様に刃傷沙汰にはならない~~♪

    生きるのは本来、その寿命で可能な生殖活動をするためのもので、食う事はその生きるを担保する事であり、経済活動はそれを担保する・・という事であるはずだったが、今は経済活動そのものが目的に成って、本来機能を失って、それに狂奔して、独身を貫いたり、初めから気が狂って(笑い)、食べるとかさすらうとか手段が目的化して、誰も不思議に思わないばかりか、それ以外の活動も出来なくなっているような危うい時代に成っているかもしれない。

    宗教は、苦しき者を救済するための利他行であったはずだが、偶像を祀り、苦しむものから、搾り取って、その一部を、自己の皮下脂肪と御殿と自動車に充てるものが、多くなって、経済活動にした者が色んな波で増えたり減ったりしてきたようだが、今は増えてそれが政治にも関与して、お口では、小さな声を聴く耳を持つとかなんとか、言葉も安売りの大盛り~~♪

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      時代や世の中が変わって行く時、他のものもやはり変わって行こうとするし、変わって行く。
      そしてここには不安も有るのですが、可能性も在る。
      今の時代はこうした変化を不安としか捉えられないが、これを希望と取れる人こそが次世代を担うべき人です。
      現状維持や、安定を唱える者は必ず滅びる。

      コメント、有り難うございました。

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