「日本人の価値観」・1

初めて織田信長の下にひれ伏した松永久秀(まつなが・ひさひで)は、その臣下の礼を示すため、信長に当時日本最高の名物とうたわれた「九十九髪茄子」を献上するが、これは信長が松永弾正に是非とも献上せよと要求していたものでもあった。
この茶器は当時国の1つや2つ、これと交換しても構わんと言う守護大名がいるほどの名品で、茶の世界にも通じた松永弾正が所有していたが、信長は松永から献上されたこの名物を手に取ると、暫く眺めていたが、「これがかの名物か・・・」と言っただけで、脇に置いてしまった。
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「ふん、所詮は物の価値など分からぬ田舎者めが・・・」松永はひれ伏しながら、信長を上目使いに眺めると、嘲笑にも見て取れる笑みを浮かべる。
そしてこの松永久秀の価値観が通常の日本の価値観とも言えるが、それは「虚構」である。
信長がなぜこのような古い価値観のものを見たかったかと言うと、国の1つや2つ交換しても欲しがる名品とは一体どんなものだったのかが見たかったに違いないが、それを実際手に取ってみたとき、正直「何だこんなアホらしいものだったのか・・・」ぐらいにしか思えなかったことだろう。
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信長の価値観で行けば、その茶器をもったらとんでもない力が沸いてきて誰にも負けなくなる、もしくは中に凄い薬でも入っていて、それを撒けば皆が言うことを聞くか、そうでなければこの世のものとは思えない光でも放っていないと納得できなかったのではないか、そんな気がするが、実際信長はこの名物の蓋を取って中の匂いをかいで見ている。
だが、何の変哲もないただの器だった。
これに対して茶の道でもその人有りとうたわれた松永弾正にしてみれば、信長がその名物を手に取った瞬間、両手でおし頂いて感激してこそ、「おー、尾張のたわけと噂も高い信長もそうでもないか・・・」と思えたに違いないが、信長のつまらなさそうな表情を見ると、「あー、こいつは何も分かっておらん」と思ったのである。
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そして価値観、ここでは絶対的価値観と言うものを考えたとき、信長と松永ではどちらの価値観が正しいか、この場合信長の価値観が正しい。
物質の正当な価値観は、その利用価値にあり、また誰の評価も気にせず、事前の説明がなくても、それが感動を放つものこそが純粋な価値であり、松永のように古来からの伝統や、多くの人の言葉で膨らんだ価値観は、例えば広い世界へ出て行ったときには、瞬時にしてゴミになってしまう価値観だ。
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日本と言う国はその歴史的背景として、律令国家、貴族政治、封建社会と言う道を歩んできたため、価値観が物質そのものよりも、「人」にあった期間が長い。
つまりここで言う価値観は、より上位の者が発言した価値観をして価値が定められてきた経緯がある。
それ故為政者には卓越した審美眼もまた要求されてきたが、これを決定的に崩したのは「千利休」であり、ここから物質の価値基準の判定は「文化人」と言う、言葉や知識を操る者の手に移って行ったのである。
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勿論こうした傾向は古くから存在したものだが、少なくとも鎌倉期まではかろうじて集合の輪の中に重なっていた為政者と文化人のそれが、分離を始めて行ったのであり、このことのまずさに気が付いたのは、自身にはない知識や見識を持つ千利休を重用した豊臣秀吉だった。
だからそれまでは例えばいかに有用な知識人とは言え、それが為政者のコントロールの中に存在しなければならなかったものが、千利休によって文政の分離が始まって行ったと言うことができる。
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こうした経緯から日本人の一般的な価値基準は常に「積極的価値観」ではなく、常に「受動的価値観」であり、これをして言うなら現在でも日本人の価値観は「他」の価値観を自身の価値観の基準にしているのであり、また極端な言い方をすれば、自身の基準を持つことを避けているとさえ言うことができるだろう。
カーテン一つ選ぶのも、インテリアコーディネーターの意見を聞き、テーブルを飾るにしても、それを指導するコーディネーターが存在する社会は、緩い思想的全体主義のようなもので、これは自身の選択する権利を、自身で放棄しているのと同じである。
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また例えば人間国宝、これを実際に工芸の部門に絞って見てみると、日本最高の技を有している人がその地位にあるのではなく、基本的には戦前に存在した「帝国芸術院展」が割れて発生した「日本伝統工芸展」と言う会のトップと言う意味であり、この会の派閥領袖でしかない。
それ故「人間国宝」の制度が発足した初期の頃は、優秀な職人はみな、こうした指定を受けると仕事ができなくなるので断り、仕方なく引き受けた者が人間国宝になっていた経緯が存在する。
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さらに同じ意味では芸術院会員も、必ずしも最も才能がある者がその地位にあるのではない。
「日展」と言う国内美術展の、こちらも会のトップであり、やはり派閥の領袖がその地位にある。
従って人間国宝も、芸術院会員もその才能は芸術的才能と言うよりは、むしろ政治的、派閥管理能力の才能と言うことができるが、こうした者たちがトップにあって、牽引する日本の芸術界の実情は悲惨である。
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一歩海外へ出てしまえば、その価値は全く評価されないばかりか、価値反転性の競合から生まれる、より小さなもの劣悪なものの代名詞であるアニメキャラクターの、フィギアが数千万の価値を付けられても、日本の人間国宝の作品は1円の価値も付かないのであり、これは何を意味しているのかと言えば、国際社会に措いては、もともと権威や、言葉による芸術が通用しないことを意味していて、グローバル化によって情報速度が高まった日本国内でも、こうした傾向が高まりつつあると言うことだ。
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                                              「日本人の価値観」・2に続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

1件のコメント

  1. 「日本人の価値観」1・2

    玩人喪徳・玩物喪志。

     社寺・仏像の国宝・重文指定も、衆生救済の縁に成るやもしれぬが、そこに集い散って、名もなき在家と言わず出家と言わず、利他行を以て奉仕した者どもを、偶には思い出すのが、我が民族の再生の一助かも知れぬ。

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