「百日稼ぎ」

やはり肴は焼き魚か、野沢菜漬け、イカの塩辛も旨いが、蒲鉾を焼いても旨し、意外なところでは饅頭も実は捨てがたい。
私のようにビールが苦手な者にとっては酒と言えば日本酒、それも一般的には特級や一級よりは少し辛めの、二級酒の熱燗がたまらないところだが、後ろは柱を背にもたれかかり、右隣には和服の美女などがはべり、人を追わない程度で勺をしてくれ、眼前には薄衣の白拍子が舞う・・・・、などと言う事でもあれば、それで死んでも良いかも知れない・・・。
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さて妄想はともかく、今夜は少し酒の話でも・・・。
古い時代、日本で酒と言えばそれは「濁酒」(にごりさけ)を指していたが、清酒、つまり今と同じような透明な酒が現れたいきさつには伝説が残っている。
鴻池(こうのいけ)の使用人だった男が、腹いせに濁酒に灰を投げ込んだことから、偶然それで清酒が出来上がったと言うものだ。
だが現実には室町時代には既に清酒が存在していて、慶長4年(1599年)摂津(大阪府)伊丹の鴻池屋が、清酒を人に担がせて陸路から江戸に送り、これがもとになって、関東にまで白米で作った清酒が普及したと言うのが事実のようだ。
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いずれにせよ、関東、江戸で清酒が普及した背景には、何らかの形で鴻池と言う家が関っていることは確かなようで、それまで江戸で酒と言えば玄米酒か濁酒だったものが、こうしたことから瞬く間に広がって、以後酒と言えば清酒のことを指すようになって行ったが、その歴史はこのように江戸時代初期のことだったのである。
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また1695年(元禄8年)に刊行された「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)と言う書物には、酒に関してこのような記述が残されている。
「大和南部(奈良県)の造酒は日の本一なり、そして摂津の伊丹、鴻池、池田、富田がこれに次ぐものなり」となっていて、ここでは奈良の酒と伊丹の酒の評価が高かったことが伺えるが、当時酒の消費で言えば、その最大の消費地域は江戸であり、ここで一番消費を伸ばして行ったのは、伊丹の酒と池田の酒だった。
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享保9年(1724年)の記録を見てみると、江戸に酒を送り込んでいた著名な造酒家は33人いたことになっているが、そのうち伊丹が15人、池田が11人と、この2つの地域で殆ど独占しているかのような有り様で、このどれもが「千石づくり」と呼ばれる、大造酒家だった。
中でもここから見えてくるように、伊丹の酒の発展はめざましく、天明4年(1784年)の記録では、その酒造高は8万5000樽を超えていて、これが更に文化元年(1804年)には27万7200樽にまで及び、国内最大の酒生産地となるのである。
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伊丹には100軒近くの酒屋が存在し、こうした酒屋が酒を生産するために要する米は年間10万石、この10万石の米を動かす米屋、年間20万本が必要とされる樽を作る樽屋、たきぎを調達する問屋、竹の帯を生産する竹屋、酒を運ぶ運搬問屋や出入り商人、職人など、この地域にはおびただしい人々が行き来し、酒生産の拡大に伴い伊丹は酒を中心とした一大工業都市へと発展していくが、その有様はまさしく「酒の都」のようだったと記録には残されている。
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だが、こうして伊丹が日本一の酒の都と呼ばれていた頃、密かにこの地位を狙っていたのが、有名な「灘の酒」である。
灘とは今津、灘、西宮の何れも現在の神戸市に存在する3つの郷を指していて、通常灘三郷と呼ばれていたが、文化、文政時代には、既に江戸に入る酒の50%から70%が灘の酒に切り替わっていた。
記録によれば、天明の頃既に、灘には200軒を超える酒屋が存在していて、その中には「千石づくり」の酒屋も現れ始めていたのである。
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そしてこの灘三郷の中でも、魚崎村の「山路屋十兵衛」の名は有名で、享保9年(1724年)の記録でも、全国の有名酒屋33人の中に数えられた「千石づくり」の酒屋だった。
宝暦、明和時代には江戸、南新川に出店を持ち、800石積載の廻船を3そうも所有し、寛政5年(1793年)の山路屋十兵衛の酒造原料、つまり白米の米高は1695石、大体清酒60石造るのに要する白米が100石だから、確かに山路屋十兵衛は「千石づくり」の大酒屋だったのである。
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灘の酒は天保3年(1832年)には、その総生産高が25万8100石に達し、こちらも伊丹同様の大発展を遂げるが、その背景にあったものとして「宮水」の発見が大きいだろう。
天保年間に発見されたこの水は、灘の酒の名声を高め、「灘の生一本」と言う今に通じる高い評価の源となったが、摂津播磨の米、吉野杉の香り、丹波杜氏、六甲の吹き降ろし、そして西宮の井水が一体となって醸し出した灘の酒は、まさに「神の水」と言うべきものだったのである。
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またこうした酒造りのありようについては、井原西鶴もそれを記録しているが、これによると「伊丹、池田の売酒、水よりあらため(水を選び)、米の吟味、麹を惜しまず、さしさわりある女は蔵に入れず、男も替え草履はきて出入りすれば、軒を並べての今の繁昌」としていて、当時の酒屋の酒造りにかける意気込みを今に伝えている。
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そして酒造りには欠かせない杜氏、これは酒蔵で働く「蔵人」の長を指し、醸造の最高責任者であり、彼によって酒の良し悪しが決まったものだが、灘地方の杜氏は主に丹波の農民であり、これを丹波杜氏と呼んだ。
冬の間は仕事が無い山間地の丹波杜氏は、酒造りの時期が来ると、多くの出稼ぎ農民達を引き連れ、灘三郷にやって来る。
このことから酒造りは「百日稼ぎ」と呼ばれ、丹波に残った女子供はおよそ3ヶ月程の期間、夫や男達のいない家を守って暮らしていたことから、こうして丹波に残った女達のことを「丹波の百日後家」などと言ったものだった。
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この当時の酒蔵は一つの単位として「千石づくり」が標準だった、だから酒蔵で働く人はおよそ40人前後、醸造に携わるものは、直接醸造を行う者と米ふみをする「うす屋」があり、この他に米を運ぶ人夫、まき割り人夫、連絡係のような雑用係などがいて、杜氏の賃金は請負だったが、それ以外の一般労働者は日払い賃金で働いているのが普通だった。
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さて、こうしてみれば米を作るのも農民なら、酒を作っていたのもまた農民、そしてそれが江戸と言う都会で消費されていた訳である。
一農民の端くれとしては、何故か今夜は機嫌が悪くない思いがする・・・・、だが酒はこれから一滴もこぼさず呑もうと、心に誓った夜と言うことになろうか・・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 「百日稼ぎ」

    大伴旅人
    験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし

    若山牧水
    白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり

    人生には楽しみが必要だ、巡り巡って人は誰も、誰かに与え誰かより受ける。

  2. 1・「風呂上がりのビール」

    2・「暴走する性意識」

    ノーパンじゃないだけ、まだマシだ (笑い)

    生物は諸般の事情から、性が分かれた。パパイヤと言う熱帯の草本と木本の中間的な植物にはオス、メス、両性、気候その他で性転換する有用植物がある。かなり高等な動物も類人猿でさえも性を、もっと分かり易く言えば、交尾を晒しているが、何時からかは不明だが、形式上はヒトは、これを秘匿するように進化した。それでか、それ以降かは不明だが、出産可能年齢を過ぎても生命が続くようになって、直接観察は出来ないが(笑い)、文化や相手によって、性の状況は多岐に別れたらしいが、実際はそれほど詳らかには無いっていないが、する必要もなさそうである。出生率の変動は、文化や食料事情に大きく依存していて、生物それ自体からの発露ではないらしい。

    ミミズやカタツムリの様に両性具有ながら交尾をする生物、女王が居て、出産を一手に引き受けて、単数のメスと一時的に複数のオスと、繁殖しないメスの生物、細胞分裂で増殖するが、一定回数が過ぎれば、交尾のような事をする生物などに分化多様化した。通常雌雄の外見が全く違う、カモ類には、エクリプスと言う、一時的にメスのような羽色に成るオスも居る。

    ヒトも進化で獲得したらしい、文化にも影響を受けるらしいが、奇形以外は性は男女しかないが、脳との連動か、何かの作用かは不明だがLGBTの出現と言うものがある、類人猿にもあるようだから、ヒト特有という事ではないらしい。
    同性婚にしろ性転換にしろ、本人が後日後悔とかそういう事は別として、自由にしてよろしいかと思っている。
    男は男らしく、女は女らしく、オカ〇はオカ〇らしく、その他LGBTにしろ、出戻りにしろ、らしく生きればよい。自縄自縛に陥る事は無い。おのづと一定の制御は効く。

    社会が乱れると言う奴は、放っといておけばよい、原因と結果を取り違えている。パワハラ・セクハラ・虐待なんかも防止マニュアルだのは無理筋のアリバイ作り。家庭教育~指導方法~愛情など、迂遠と思える基本が成って居ないのと権力闘争、ゆがんだ自己承認要求などで発生しているのに、それらを放っといて、活動の手足を縛るのは、徘徊老人をベッドに緊縛するようなものだ、その内寿命で死ねば無くなるが、本末転倒。社会や国家は監獄ではない~~♪

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